赤茶けた世界は、何処までも狭く逼塞している。
目の前のテレビが、今日のニュースを無感情に流し続け、不穏さを増した社会情勢がそれでもくるくると回っているらしい。
背中合わせの俺たちは、あまりに反対方向を向きすぎてもはや会話すら成り立っていない。背後の狐塚が、一方的に事のあらましを零し続けているだけだ。
一九七五年・某月・某所。
間宮真一は深々と息を吐き、溜まりに溜まった澱を煙と共に吐き出した。唯でさえ霞がかって白昼夢のような視界が、白く煙った。
ニュースは、それについてはあまり大きく扱ってはいないらしい。大物芸能人の結婚ニュースに食われた小さな事件は、局によっては流されてすらいない。リモコンを弄るのを止め、背中合わせのソファーへと身を投げ出すと、背後の頭にゴツンと当たった。
「おい、聞いてんのか?」
「聞いてる」
「あっそ。ならいいわ。とにかく、隅田川で見つかった変死体は、お前が言ってたカン・シウンってやつでビンゴだったらしい。死因は弾丸一発、頭にズドン。銃はそいつの手に握られたままだった。銃弾の型も合ったから、恐らく自殺だろうって上は言ってるよ」
場末の小さな運送会社のロビー。一面ガラス張りの扉の向こうには、見渡す限りトラックが並んでいる。その後ろには、あまりにキラキラと輝く水面が覗いている。海だ。
「自殺ねえ」
信じられないな。遠慮もなく手にした煙草を銜えなおし、目を瞑ると視界に影が掛かる。狐塚が覗き込んでいるのだ。
「それがさ、検死官が妙な事を言っててな。真っ青な顔して出てきたと思ったら、ブツブツと独り言垂れ流しなわけよ。ありえないとか何とか」
「女だったんだろ」
「は? ……あー、うん。そう言うとそうなんだよな。うん、でも男だったよ。俺も死体見たし」
狐塚がはっきりと物を言わないことは珍しい。眉を顰め、片方の目だけ開くと「どういうことだよ」と問う。
「うーん……俺もよく分からんのだ。その検死官の言葉を借りると、」
「借りると?」
「男でも女でもあったらしい」
「……はあァ?」
「あーっ、疑ってるな。ありえるわけねえだろうって哀れむ目を向けるのはやめろ。ちゃんと説明すっから」
コホン、と一つ喉を鳴らし、頭の中を整理した。それでも旨く飲み込めてはいないらしく、狐塚の説明は支離滅裂だ。
「早く言っちまうと、両方の生殖能力を持って生まれてきてるんだそうだ。男でも女でもあるっての? しかも、実例として稀に存在するらしいじゃないか。性質的には男女どちらかに偏っているらしいが、あの仏さんはきっかり男として育ってた。女としての生殖能力はほとんど子供のときのままだったってわけだ。大体そんな体質の人間は、十三歳までにどちらになるか決めなきゃならんらしいが、成長過程から見て、こいつはもっと前から自分の性別を調節してたんじゃないかってさ」
「調節って、どうやって」
「ホルモン剤だそうだ。定期的に男性ホルモンを投与することで、女性器の発達を抑え、男として成長させたらしい」
では、あの時シウンが使っていたのはホルモン剤だったということか。確かに彼は、クスリは精神的なものだ、と言っていた。あの時は、薬物中毒のことかと思っていたが。
「担当した検死官が、戦前育ちの堅物爺で、こんな人間認めんなんて若い衆とやりあっちまったから、まあえらいこっちゃになった訳で。それでも一般的にはある事例らしいな、まあ現実にあったんだし」
一人で納得気に頷いていた狐塚が、ふと思い出したように振り替える。
一瞬、視線が合ったがすぐさま逸らした。これほどにきれいな色を見続けるには、自分は死を見つめすぎた。
「お前、本当に戻ってこねえのか? 皆待ってるぞ。管理官も、桂木巡査部長――今は警部補か。とにかく、皆さ」
無理やりに続けられた言葉は、何だか必死さが滲み出て滑稽だ。
そう、あれから真一は警察への復帰の誘いを断った。先方がどんなにいい待遇を保障したところで、悲しそうに首を横に振るばかりだ。もう自分は昔とは違うのだと繰り返し、そんな自分へのあてつけのように、トラックの運転手として自堕落な生活を続けている。この場でも、颯爽と働く人間たちの中で、真一だけが無気力を盾にしている。もし、この一端だけを切り取ってみれば、まさに坂道を転がり落ちた人生に見えるだろう。
くっと卑屈に笑った。
「まさか。皆が欲しがってるのは、俺の《現役工作員と共に動いた》ってスキルだけだろ。俺はもう疲れちまった。前みたいに、キラキラした世界を見つめられないからね」
信じられなくなったものに、今再び身を預ける気にはなれない。何よりあの男の下で働くのが嫌だった。あの男。裏切られたとはいえ俺たちと親交のあった加賀を、よく知りもせず膿といいやがった。
むしろ国という檻からすら逃げ出したいほどに疲れきっているというのに、今更あの忌まわしい記憶を掘り起こすことはしたくない。死人が出すぎたと思う。死を見つめすぎたのだ。あまりにも真っ直ぐに生きようとしてきた人間たちが、残酷にも殺されていく世界を見つめすぎた。
「昔の自分には戻れねえよ」
今や自分は、ニホンジンですらない。あの世に足を突っ込んだ愚か者だ。
どこまで知っているのか、狐塚は小さく「そうか」とだけ呟き、気分を入れ替えるように立ち上がった。声が弾んでいる。告白を断られたときの空元気の雰囲気だ。
「じゃ、俺帰るわ。それだけ伝えたくて来たんだし。あ、気が変わったらいつでも電話してな。これ、直通番号ー」
警察手帳から一枚を破り取り、ふ抜けた真一に渡す。
「俺か、桂木警部補呼べばいいからさ」
そう言って、懐かしい人物は颯爽と帰っていった。一瞬の白昼夢のように。
残されたのは、やる気も何もなく、ただ煙草に汚れた自分の姿だけだ。
時計をちらりと見つめ、少し早いけど配達出るか、と呟いて億劫そうに立ち上がる。関節が悲鳴を上げた。
抜けるように青い空。何処までも続く群青の海。そんな世界を眩しく眺めながら愛車に乗り込むと、ラジオのつまみを回す。昨日開幕した甲子園の中継とよく分からない音楽番組を経て、何の面白みもないニュース番組で手が止まった。
雑音交じりの抑揚のない声。座席に深く座りなおし、足をハンドルの脇に乗せ、目を瞑ってみた。
暗く、澱んで灰色の世界が広がった。
もう、ニュースを怖がる必要もないのだ。あの日、警察の動きを少しでも掴もうと、食い入るように聞き入っていたニュースも、今はただ彼には関係のない時事ばかりを垂れ流している。無意識に聞き入っていた。もはや、癖だ。
コンコンと窓を軽く叩く音が思ったより大きく耳に届いた。
目を開け、そのままの体勢で窓の外を見下ろすと、同僚の一人が人懐っこい目をクルリと瞬かせて見つめてきた。彼は仲間内でも仕事に対して積極的な部類の人間で、覇気のない真一に目を付けては心を開かせようと努力している。正直、今の真一にとっては苦手な人間だった。
彼が何かを言っている。比較的大きな声を出しているようだが、ほとんど聞こえてこない。
窓を開けてやればいいものを面倒くさくなって、ワカラナイと肩を竦めて見せる。
すると彼はそれでも大きく口を開け、時にはゼスチャーを交えながら何かを伝えてきた。
「お・きゃく、さん?」
指差された方向に目をやると、人影が一つ、憮然と立っていた。
驚いたように目を見開くと、人影は挨拶代わりに軽く手を挙げ、小首を傾げてきた。
大慌てで扉を開き、遠い地面に降り立つ。見計らったように男のパンチが肩口に飛んできた。
「かーわいい子じゃん。お前のこれ? それにしては、少し軽そうだけど。へー、あんなのが趣味なわけ。ふうーん」
茶化す声に「ちげえよ」と応じ、外野を追い返すと改めて人影に向き直った。
「久しぶり」
「おう」
一年ぶりの宿谷千歳は、流行最先端と言われる服装で、逃げも隠れもせず彼の前に立っていた。化粧にも気を使っているのか、一年前よりも随分女らしく見える。
「順調じゃ、ないみたいね。こんなところで燻ってるんですもの。正直、失望したわ」
大げさに肩を竦めてみせ、千歳は毒づく。
「まあ、生きてただけましか。どう? 残りの人生は。私も随分、女言葉うまくなったでしょ。これで大抵の男は騙せるの。今日は仕事の帰りだからこんな格好で。いつもはTPOに合わせるんだけど、悪いね、実は今日スケベジジイ引っ掛けなきゃなんなかったんだ。相棒に引き渡して、直でここに来たって訳」
「……何の用? 用がないなら、仕事があるから」
「うっわぁ、冷たあい。少しくらいい、いいでしょ。社長には話し通してあるし。ここ、仕事上の知り合いがパイプ持ってんのよ」
あからさまに迷惑な顔をして見せ、それでもため息と共に了承してしまった。
「シウン、死んだんだって?」
「あら、よく知ってるわねえ。そう、その通りよ」
千歳は何の他意もない、無邪気な声を上げる。それがむしろ、真一の心を重くした。シウンと千歳。二人はあの日を思い出させる痛い存在であった。
「警察から?」
「狐塚が来たからね」
「ふうん、じゃあ知ってるんでしょ? たぶん、自殺で片付けられるわよ。あいつ」
「自殺じゃないって言うのか?」
「当たり前でしょ。あいつを誰だと思ってんの」
そこで千歳は軽くため息を吐き、暗い瞳を太陽に焼かれ続ける地面へと向けた。
「結局あいつ、死ねなくなっちゃったのよ。私たちが止めたから。あいつからナイフを奪ったから。あいつは私が死なないように先手を打って釘を刺したけど、私たちも同じことをした。だから、あいつは死なない。自分じゃ死ねないの」
「でも、持っていた銃と型が合ったって……」
「バカね。撃ってから持たせてもいいでしょうに。銃には製造番号が掘り込まれてるのよ。皆知らないけど。それが違ってた。シウンが手にしてたものとは別だったの」
「だったら、」
「無理ね。あいつの死因は自殺。他殺だって証拠も残されていないだろうし、私が言ったことだって証拠がないもの、信じてもらえないわ。結局、国内がスパイ天国になってることも知られちゃいけないし、国自身も民衆の支持を得るにはそんな生々しい現状とは切り離してあげなきゃいけないの。だから、自殺。そのほうが座りもいいしね」
目の前の景色が曇ったような気がした。不信感がそうさせたのだろう。
よほど深刻な顔をしていたのか、こちらに気づいた千歳が表情を崩し、馬鹿だなあと口元を歪めた。
「君、責任感じちゃってるの? 駄目だよー、この世は絶対じゃないんだ。不信は諦めで割り切っていかなきゃ。いくら社会が絶対だって思ったって、その社会だって曖昧な人間で出来てるんだから、曖昧以外のなんでもないだろ。多数決でそのほうがいいって決まったら、そうされるだろうし、歴史だって勝者が正義みたいに語られてるけど、結局は敗者が口を塞がれた独りよがりな正義なんだしさ」
「そんなの分かってるよ。だから、諦めてるんじゃないか。諦めないとやっていけない」
「それが馬鹿だって言ってんの。あんたがやってるのは、諦めじゃなくて放棄。ぜんっぶ他人に丸投げして、自分は知りませーん分かりませーんって目え瞑って、あくせく働いてる奴らを見下してるの。自分は何もしてないのにさ」
「そんなこと……」
「ないって? ふん、それこそ偽善だ。放棄ってね、自殺と一緒なんだよ。死後の後片付けと、残されるものに抱えきれないほどの傷残して、責任放棄。丸投げしちゃうんだから。嗚呼そうさ、お前も愚かな兄貴とおんなじさ」
目を瞠った。まさかこの女の口から、兄を侮辱する言葉が出るとは思っても見なかったのだ。
千歳は目に見えない何かに吐き捨てるように続ける。
「兄貴も兄貴だ。あの時は、あの方法が最善だったと断定して、もっと他にも方法を見つけようとはしなかったんだからね。昔っからそうだ。こうと決めると、テコでも動かなかったもの。しかも行動に移すのが早くて、相談もないから止める暇もない。北に亡命するときもそうだったからね。猪突猛進で視野狭窄。思案するのも忘れてる。あー、アホらし。死んで助けるとか死んで報いるとかは、一見格好いいけど、結局は自殺と変わりないんだ。嗚呼、クソ。そう考えると無性に腹立ってきた」
最後には遠い海へとひとつ吼えた。意味を持たない獣じみた咆哮は、それでも偽りない感情の発露のように思われた。
「で、君は何をするの? 不幸噛み締めて、悲劇のヒーロー気取りな訳? それって、なんだか癪に触らない? あの野郎、勝手に格好良く死にやがって、って腹立たないの? 僕は無性にイライラするね。それってどんなに格好良く演出したところで、逃げな訳じゃない。一人だけ逃げやがって、一人だけ楽になりやがって、重い荷物背負わせて、こンのクソヤロウって感じない?」
強い瞳で見つめられて、思わず言葉に詰まった。それでも千歳は容赦などしない。ずいっと身を乗り出すと、あの日と何一つ変わらない強い強い視線で真一の臆病な心を射た。
「ふふん、図星か。そんなこと考えたこともなかったでしょ。なーんか癪に触んのよね。こう、ムカムカするっていうか。だったら、逃げないで生きて、死んだ後で『へっへーん俺様は逃げなかったぜ』って胸張ってやったほうが、よっぽどカッコいい。そういう意味では、シウンはよくやったと思うよ。最後まで生きようとしたんだからね。人間何のために産まれて来たか知ってる? 他でもない、生きるために産まれてきてんの!」
そんな唯一の存在意義すら捨てたら何も残らないじゃないか、と千歳は苛立たしげに髪をかきあげた。
握られた拳から一本の麻の紐が伸び、その先で木彫りの兎が揺れている。
千歳は、だんまりを決め込んだ真一に愛想をつかしたのか、傍らに置いていたアタッシュケースを地に横たえた。頑丈な鍵のつけられた黒い塊は、千歳の手馴れた動作で見る間に鍵が開けられる。容量の大きなケースの中には、唯一つ、古びた小さな金庫がそれはそれは大事そうに入れられていた。
手にした兎を握り締めると、カチリとスライドさせる。それまで一枚板から掘り出したとばかり思われていたそれは、精密に二枚の板をかみ合わせたものだったのだ。
二枚の板は薄く内部が削られている。僅かに生まれた空間に、年月に侵されていない銀色に光る鍵が。
つい最近まで地中で眠っていたと思われる金庫を引っ張り出すと、まだ新しい泥と赤錆に包まれた鍵穴に、差し込んだ。
カチリ。
長い年月が、溶け出してきた。
「兄貴はね。もし自分が死んだとしても、僕が生きていけるようにあらゆる手段を使って証拠を残してたんだ。自分が何者でどんなDNAを持っているのか、どんな人生を歩んできたのか……」
取り出されたのは、A4サイズの紙束。日に焼けて少しくすんだ色を落としている。指で捲るとカサカサと乾いた音がした。
その奥に、三枚の写真が隠されるように残されていた。
一枚目。真一も見たことがある。硬く意思を閉ざした宿谷少年が、柔和な表情を浮かべた母親と写った写真だ。
二枚目。これはあまりにも幸せそうな家族写真だった。千歳が引き取られてすぐだろう。幸せそうな母親に抱かれ、赤子は無邪気だ。些か聖の表情も緩んでいるように見える。
そして、三枚目。これは少しばかり成長した千歳が、兄と共に写っていた。聖が美しい流線型を有しながらどこか無骨なサイドカーに跨り、にやりと不敵に微笑んでいる。千歳はその横で嬉しそうに身を乗り出しているのだ。
「ソヴィエト時代の兄貴の愛車。兄貴運転旨かったから軍から貰ったらしい。ご機嫌だと、たまに僕も乗せてもらって、山とか海とか何処にでも行ったな。僕が乗り方覚えたのもこの頃だし」
赤茶けた写真を懐かしそうに撫でながら、それでも千歳は思い切ったようにその写真を握りつぶした。乾いた、あっけない音が潮風に混ざった。
「結局、兄貴はあんなに頑張って死ぬ前に残せたのがこの程度ってこと。なんだかそれって空しいじゃない。たったこれだけだよ。四十年……幸せなんて殆どなくてさ。僕は、死って二つあると思うんだ。皆は一つだって考えがちだけど、実はもう一つある。あんたみたいに、馬鹿みたいに脳の働き意識的に止めて、脳細胞壊死させようとしてること」
だから、
「あんたがそうやって『意図的に死んでる』って知ったときは、正直兄貴が死んだとき以上に腹が立ったね。力があんのに、何もしない。それこそ欺瞞じゃないか。それこそ君が嫌ってる世界を構成してきた狡猾な欺瞞だろう。見たくないものから目を逸らして、死体に徹すればいいんだもんな。さぞ楽な職業だろうよ」
「違……!」
「違わないね。あんたは死んでるんだ。自殺したんだよ。自分が見た世界の端っこが気に食わなかったからって、嗚呼自分は受け入れられないんだ、自分の居場所は何処にもないんだって、結局は悲劇気取りたいだけだろ。自分を可愛い可愛いって撫でていたいんだ。でもね、そんなんじゃ状況は変わりはしない。無関心から何かは生まれないんだ」
そこで千歳はふっと息を吐き、子供を諭すような口調で話し出した。まるでそれは、死を受け入れられない自分自身を諭しているようにも聞こえてきた。
「僕は死が二つあるって言ったよね。定義的には両方同じなんだけど、両者には一つだけ大きく違うところがあるんだ」
視線を上げる。目の前には遠い遠い青。
世界の果てを見るように懐かしげに目を細め、千歳の声は波の音の中で溶けた。
「後者は、もう一度生き返れる」
やり直せるんだ、と呟いた言葉はむしろ悲痛で、自分の中、失った存在と完全に決別する意志だ。
どうしたって死は絶対で、一度死んだ人間はやり直すことなどできやしない。直面した問題から逃げ、周りの残された人間たちに大きな深い傷を残すリセットボタンなのだ。人間はそれをどうしても美化したがるらしい。結局は逃げであって、取り返しのつかない間違いでしかないのに。そう考えると、その存在は核兵器を乱用することと同じような気がしてくるのだ。遠い遠い世界で、あの人はまた生きているなんて、生者のための慰めだ。誰も実際に見たことはないし、この世に産まれてきた時点で死は決定付けられている。絶対的な、無として。
「君はいつまで立ち止まっている気なの。早く立ち上がれよ。お前がいるべき場所は、ここじゃないだろう」
千歳が踵を返す。鮮やかな色を落とした服の裾が、潮の混じった風にはためいている。
その姿を目で追い、眩しさに目を細める。
嗚呼、俺は何をしているんだ?
彼女だって立ち直ったじゃないか。当人の彼女が立ち直って、比べ物にならないほど恵まれた俺がいつまでも――。
「なあ!」思わず叫ぶ。
千歳が立ち止まる。
何とか紡ぎだした声はなぜか震えていて、目に映る世界は鮮やかだった。
「今……何をしてるんだ?」
クルリと身を翻す。もう一度見えた顔は、あまりに清々しく笑っていた。
世界の表と裏を行き来する女は、あの日の少女のような笑顔で、高らかに宣言した。
「CIA!」
結局、同じ世界でしか生きられなかったのだと言えばそれまでだろう。だが、彼女は足掻いている。世界の愚行を目の当たりにしながらも、それでも人間として真っ直ぐに生きようと足掻いている。
責任も何もかも放棄して死んでいる人間には、彼女を嗤う資格などありはしないのだ。
なぜなら、彼女は今、精一杯イキテイルノダカラ。
彼一人だけを包むようになった潮風の中で、妙に高揚した余韻にしばし浸っていた。
気がつくと、手の中にはついさっき狐塚に手渡された一枚のメモ。
――オレノ居場所ハドコダ?
――オレハイッタイ、何者ナノダ?
――オレガ生キテヤルベキコトトハ、ナンナノダ?
――お前がいるべき場所はここじゃないだろう――
嗚呼、思い出した。
俺は、《ケイサツカン》だ。
彼は駆け出した。世界がクルリと回った。
どこかで誰かが笑っていた。世界は命で満ち満ちていた。
ごめんなさい。俺、
冥土に留まることは出来なかったから。
背を向けた。ようやく気がついたかと笑う声が聞こえた気がした。
愚か者。初めからそうしてろ、馬鹿が。
生きるものは生きねばならない。それは間違いのない定理だ。
ぶっきらぼうに茶化す聖の横で、アンナムが呟いた。
死んで楽になるなんてもってのほか。この冥土だって、お前の幻想なのだろう?
死は――死は唯の無、だ。
嗚呼、凪のように静かだ。だが、前のように色をなくしてはいない。雑多な人間が、生物が生きて営みを繰り返している。どんなに小さくとも、与えられた命を全うしようと息づいている。
静かに木霊するコール音を数えながら、自分を見つめてくる何者かに、小さく「サヨナラ」を告げた。