年期の入った机の上で、つい今しがた書き終えた書類の束を整える。とん、と軽い音がなり、同時に何処からともなく深い深いため息が聞こえてきた。

「狐塚、雑務書類おわりーっと。あー、肩ゴリゴリするー」

まん前の席で、見慣れた顔が告げた。傷む肩に手を置き、回す。不穏な間接の音。ただでさえ、皆、事務処理に忙殺されていたのだ。仕方ないとはいえ、狭い室内での行為は、未だペンを走らせている彼の隣から、忌々しげな視線が飛ぶ結果となった。

書類をまとめ、同期と同じく目の前一通りを終わらせた間宮真一は、軽く伸びをして、手近に鎮座するテレビをつけた。

黒いブラウン管にじわじわと浮かび上がる画面は、午後のニュースだ。化粧が濃く、少し糖の立った女性アナウンサーが、機械的にニュース原稿を読み上げている。

《大手、日本勝浦精機工業不祥事 重役逮捕へ》と銘打たれたテロップが、無機質に流れた。このところ巷を騒がせているニュースだ。愛想のないアナウンサーの説明のあと、やたらフラッシュの焚かれた記録映像に切り替わった。午前二時、と表示されている。

 無数のカメラを避けるように手で顔を隠す男達。現場のアナウンサーがマイクを向けながらしつこく付きまとっていく。

一人の男が引き出されてきた。重役の一人だろう。項垂れて、カメラどころか自分の周りに人がいることすら気にする余裕がないらしい。後に二人目、三人目と続く。皆一様に顔を強張らせ、あるものは失意のどん底といった体で、あるものは何故自分がと憮然とした態度をさらに硬化させている。

そんななか、一人の男の登場で、カメラの奥が一気にざわめいた。

一時は持ち上げられ、改革者だ何だと持て囃された男の醜態がそこにはあった。贅の限りを尽くし蓄えたのだろう贅肉を引きつらせ、抵抗しているのか警官に半ば引きずられながら、だれともなしに喚いていた。

「上原容疑者が出てきました!」アナウンサーが興奮した声を上げる。

 一斉に質問が投げかけられるが、男は応えない。ただ自分の主張ばかりを卑屈な負け犬のように吠え立てているだけだ。

「俺は悪くない! 本当だ、信じてくれ。あの女だ。あの女に騙されたんだ! クソ、俺も被害者なんだァ!」

 尚も彼は喚き続ける。しかしその叫びは、すでに人間の言葉を成していなかった。

その中から辛うじて幾つかの言葉を成しそうな響きを聞き取ったが、それが何を示すのか、はたまた言葉としての意味を備えているのかどうか真一には分かりかねるのだった。

「……イラン人?」狐塚が呟く。

「隣人じゃない? 僕にはそう聞こえたけど」

「どう考えたって不自然だろ。この場面で『隣人、隣人!』って叫ぶ必要ねえし。俺だったら、隣人じゃなくて名前叫ぶね。『良子!』とか『節子!』とかさ」

「『イラン人!』って呼ぶよりは自然だろ」

画面が変わると、県警本部が映し出された。どうやら、現場からの中継のようだ。

「にしても、捕まるときまで、あの女、か。相当外に愛人いたらしいし、ま、自業自得ってこったろ」

「でも何だか後味悪いよね。これから騒がれるんだろうなあ」

「自分の不始末で首絞めたんだから本望だろ。あとはもう少し潔くしてくれたらいいのにねえ。あーあー、やだやだ。後ろ暗い金持ちの道楽は深みにはまって気味がわるい……っと」

 センセーショナルなこの事件は、一部では政界にまで波紋を落とすといわれている。事件の流れを説明するアナウンサーが、フリップを取り出し示し始めた。

 自分の前に置かれた書類の束に向き直った真一の前で、ペンを弄び始めた狐塚がテレビから目をそらした。興味が失せたらしく、特番を一通り眺めた後はテレビを見る気もさらさらないらしい。

「のんきなもんだねえ。こっちはこのおかげで相当面倒くさかったってのにさ」狐塚が、放り出してある書類を指で叩いた。

眉間に皴を寄せ、さも深刻そうに喋る中継アナウンサーを見るともなしに眺めながら、真一は、ずしりと疲れをぶら下げた目を揉み解した。

 こんな大きな事件が、まさかたった五人の人間によって処理されているとは、日本中だれも考えないだろう。刑事部の一角に間借りした部屋は狭く、仕切りのベニヤが目に痛い。栄誉だと羨ましがられたのはほんの二、三日。いまやすっかりお荷物扱いである。

 捜査本部は事実上解体されて幾日か。本庁の人間は完全に引き上げ、合同捜査に借り出されていた刑事たちも忙しいとなれば、残った雑事をどうするかというと、各係から人身御供を幾ばくか提供するしかない。そんな訳で面倒な役柄を半ば強制的に振り分けられた彼らも、捜査の拠点であった会議室も完全に閉め出された今となっては、少々肩身の狭い思いをしてでも残された雑務をこなしていた。

 扇風機に手を伸ばす。東向きの窓辺を仕切ったこの場所は、午後ともなると日光の力によって、恐ろしいほど気温が上昇する。しかも、半端に仕切ったせいで冷房の風が殆ど届かないのだ。

「でも、ほんっと大ニュース扱いだよなあ。警察も宣伝してるし、名声に利用するなら俺らの待遇あげてくれっつうの」

「仕方ないよ。実際問題、裏でアメリカが出てきてくれたから引っ張れたんだし、警察だけじゃどうにもならなかっただろうね。まあ、一応日本側にも面子があるから、本庁に加えて僕らがおまけで駆り出されたけどさ」

 備え付けられた茶菓子――他の課が食べなかったお古。賞味期限も、味もイエローゾーンに入るだろう――を口に押し込みながら、狐塚がふぅんと鼻を鳴らした。

「そこが、引っかかるんだよなー。日本勝浦っつったら、アメリカの一企業から分化した企業だろ。そりゃ、アメリカが親玉といえばそうだけどさ……」

「国家として、一企業の不祥事にまで出てくるのはおかしい?」

「そう、それ。しかも海外だよ。国単位で仲良しとはいえ、海外にまで出張ってくるってのはちょっと不穏だよな。しかも、表立って来りゃいいものを、あえてバレないよう裏ルートだぜ」

 目の前、堆く積まれた山に目を移す。同じ思いに行き当たったらしい狐塚のため息が、微かな空気の流動として伝わってきた。

「企業の汚職って、俺たちじゃなく知能犯係の仕事だろー。一応理由はつけてっけど、借り出された身としては、五分で改定される捜査方針に右往左往で、俺らが居る意味あるのかってさ。しかも、当のアメリカさんは、俺たちがしょっ引いた容疑者連れてさっさとお国に戻っちまうし、大動員されてた本庁のやつらも、半ばパフォーマンスで大々的に世間に出て行ったと思ったら、後の問題丸投げだしさぁ。結局、俺たちに残ったのはよく分からん事件の大量の事後処理かよ!」

 声を荒げた拍子に、バランスが崩れたらしい。脇に置かれた山が崩れ、狐塚を襲った。純白の雪崩に悲鳴が混ざり、旧友の姿が忽然と消える。すると、入れ替わるように隣のデスクからのそりと人影が頭をもたげた。

前に乗り出してきた上司の姿は、まるで冬眠明けの熊のようだ。髪は、局地的に白髪交じりで常時ぼさぼさ。だらしなく着こなしたスーツが、予想以上に彼の肉体をたるんで見せ、署内では「強行犯係の熊」と言えば通るほどの有名人も、さすがのデスクワーク続きに疲労困憊の域である。いつもならある種の威厳すら感じさせる肉食獣の猛者も、今は見る影もなく、目を薄く細め眉間には太く深いしわが走っている。

書類に場所を取られ、身を縮めてペンを走らせていたのだろう。突如として起こった大規模な雪崩の音に驚いたのか、心底不機嫌そうに顔を上げた姿は、冬眠を阻害された熊そのもののようだ。巷のあだ名は馬鹿に出来ない。

「巡査部長! 巡査部長助けて、窒息する!」

 もがく狐塚の手だけが、間抜けにも空をかく。熊は、軽く鼻を鳴らすと、純白の海と化している波間に太い腕を無雑作に突っ込んだ。

「ぶはっ! 死ぬかと思った!」

「アホが。それくらいで死ぬか」

 首根っこを摘み上げ、大の大人を軽々持ち上げるとパイプ椅子に下ろす。

 いつもは温和なベテラン刑事も、さすがにこの状況には参っているらしい。応じた声はしわがれ、不機嫌そのものだ。

 いつの間にかニュースは終わり、ブラウン管からは奇天烈な声が聞こえだす。特番かと思ったが、どうやら違うらしい。そうか、今日は日曜日だ。

「誰だよ、公務員は休日がしっかりしてるっつったの!」こちらも気づいたらしい狐塚が声をあげた。

「広報官だろ。景気がいいと公務員なんて、なり手いないから。そうとでも言わないと、人材集まらないんだよ」

「にしてもさーァ……。なあ間宮。お前、オリンピックん時何してたよ」

「仕事」

 視線も上げず、答える。

「この前の万博は?」

「貫徹明けで、へばってるうちに終わってた」

「二年前の上野パンダ」

「あー……テレビで見たけど、アレに好んで混ざろうとは思えなかったなあ」

「じゃあ、中国国交正常化はどうだ」

「え? したの? だれが」

「田中角ちゃん」狐塚は、親しみを込めて田中角栄総理をそう呼ぶ。

「沖縄返還」

「パスポートいらないんだって喜んだ記憶はある。行けないんだけどさ」

「去年の、変動為替相場」

「海外行かないから」

「石油が無くなるってあれは?」

「ああ、アレは恐ろしかったよね。物価高くてさ……薄給は辛い」

「月日の進歩ねえのかよ! 俺たちは!」

 ヒステリックに叫び声をあげる――たしか「俺たちの友達は共同部屋の狭い寮と、せんべい布団だけか」などと言っていた気がする――狐塚を尻目に、真一は手にした束を整える。結局は人生そんなものだ。

「そういえば巡査部長、警部補に電話しなくていいんですか? そろそろ本庁の御用も済んだころだろうし」

「うむ……」

 軽く唸り、熊は電話の受話器を探す。書類の海を掻き分ける動きはゆったりと気だるそうで、一時見つからないだろうな、と納得した真一は「資料取りに行ってきます」と席を立った。

 

「だからあ、いるんだって。朝鮮人が」

「まさかあ」と茶化す声がそれに応じる。卑下した笑いだ。

 間宮真一は、その言葉に反応して足を止めていた。声の出所は何処だ? この先にあるのはたしか……。

「刑事部、行ってみなって。その辺にいるのに聞けばわかるよ。みーんな知ってるんだからな」男の声だ。知ったように男が言うと、三人分の抑えたような笑い声が耳に届く。応じているのは皆、女のようだ。

金縛りにあったときのように、体が動こうとしない。早くここを離れなければ。しかし、いくら理性が叫んだところで、臆病に育てられた本能がその行為を拒絶していた。しかもそんな心に矛盾するように、耳をそばだててしまう。

「えー? でも、警察って公務員じゃないですかあ。何で朝鮮がはいれるんです?」

「それが、帰化したらしいんだ」

「帰化?」

「朝鮮の国籍捨てるので、わたしは今日から日本人になりますー、ってこと」

 やだあ、と甲高い歓声が上がる。漂ってくる楽しそうな気配に反して、真一の背には得体の知れない悪寒が走った。やばい、逃げなきゃ。それでも、二十八年連れ添ったこの肉体は、一向に動こうとしてくれない。

――やばい、やばい、やばい……っ!

 その時、突如として背後から触れる程度背を叩かれた。叩かれた方向へと目を向けると、真一の横を黒い背広姿が通り抜けていく。真一より背の高い狐塚は、いつも見せるのと変わらない飄々とした仕草で通路を右に折れた。

真一の眼前に広がるT字路の先には、声の主たちがいる給湯室があるはずだ。彼らが目的とする正面玄関ホールは、そのさらに先。

着崩した紺の背広が風に翻り、我に返ってその後を追う。どくどくと必要以上に血液を送り出す心臓の警報ベルは、目の前の男の存在で無視できた。

 コンクリート製の廊下を皮の靴が叩き、リズミカルな足音を刻む。狐塚が、軽く欠伸を噛み殺した。

近付いてくる足音に反応してか、口汚い会話はいつの間にか止んでいた。

 目の前の背が、突如として止まる。体の向きを傾けると、真一の見慣れた顔がそこにはあった。

「あのさ」

彼の目線の先には、四人の男女の姿。どうやら、給湯室の前まで来ていたらしい。

 目を細め、口元を笑みの形に歪めると、彼は相手を嘲るように口を開いた。

「人のこと言ってる暇あったら、仕事したら? 新入りに変な噂吹き込んむことで興味引きたいのは分かるけど、それってカワイソウなくらい女に飢えてるみたいでみっともないよ」

 狭い部屋の中心に陣取っていた男の顔が、怒りと共に赤く染まる。

何か言い返そうと開いた口が、僅かに空気を飲み込んだだけで止まった。その黒い眼の先には、狐塚の背後、壁で見えるか見えないかの位置に立ち、状況を見守っていた真一の姿がある。

合ってしまった視線に気まずさを感じたのか、相手の男が悔しそうに口をつぐんだ。

「あんたたちもさ、知りもしない人間のあら捜しなんてせずに、真面目に昼休み過ごせば? もしかして、実は自分たちが恵まれてるってしらない? 昼休みも外回りで潰す人間だっているのに、自分たち、こんなとこで無駄話できてさ。新人はまだ、役に立たないって言われてるようなもんだよ。俺だったら、お茶汲みでもコピーでも、信頼得るためならなるべく早くこなそうとするけどな。ま、向上心の無いあんたたちに言っても無駄か」

 言える限りの皮肉を口にし、清々したとばかりに再び歩を進めだす。その背を追いながら、今まで見難かった室内に視線を走らせると、一様に視線を方々に散らせていた。

僅かに狐塚の表情が垣間見えた。稀に見るほど、怒りをあらわにしていた。

「あー、腹減ったあ!」突如として口を開く。

「今日飯、何食うか? 折角だし、桂木巡査部長にでもおごらせますか!」

 勢いよく振り返り、満面の笑みを向けてきた狐塚の顔には、もうすでに怒りの色は微塵も無い。

 第一ボタンを外した狐塚は、丸く愛嬌のある目を向けてくる。日本人離れした長身を誇る彼がそんな表情を浮かべると、なんだか気が抜けるようで、むしろ気を使われるより心地よく、知らず笑いが漏れていた。

「んだよー、笑うことねえだろー。ったく、真一ちゃんは訳が分からない子だわねえー」

 あえて茶化すように口調を変え、口元を尖らせた男の背後から、ぬっと太い腕が伸びる。しなやかに鍛え上げられたその動きは、一瞬だけ認めた真一が忠告するより早く、狐塚の露になっている喉元にまわされた。

 驚いた狐塚が息を呑み、思わず身構える。しかし、その視線が身の危険を察知する以前に、回された手に力が込められることはなく、引きつった笑みが背後から覗き込んできた。

「狐塚道隆ァー……そんなに俺におごらせたいかあ? 仕事も満足とできんと、見上げた根性じゃなあ……」

「いやん、桂木巡査部長。必要以上の介入は、部下の負担となりましてよ……?」

「馬鹿者が! ふざけとる場合か。俺は心が広いから、おごってやるくらい屁でもないが、とりあえずお前の書類、大量にミス発見だ。今日の昼飯はチャラじゃボケ。食う暇惜しんで仕事にいそしめ若人よ」

「えぇーっ! なんでですかあ、結局そこにもっていきたいだけじゃないすか。うえぇ、期待して損したぁ。あれでしょ、まあた内緒でゴルフ用品でも買って、奥さんに怒られたんでしょ。手厳しいなー、関係ない部下にまで八つ当たりですか。それは、心が広いとは言わないんじゃないですかぁ?」

 束縛から放たれた喉元をしきりに気にしながら、べっと舌を出し、上司の顔を窺い見た狐塚の頭を、「アホか」と書類で叩く。

 呆れたようにもう一度、狐塚の頭を小突いた熊の背後から、小柄な青年がひょいと顔を覗かせた。加賀大和である。大柄な熊の背後から顔を出した加賀の姿は、華奢さ故、まるでメルヘン童話に出てきそうなか弱い小動物を思わせた。

「どうしたんですかぁ?」と、独特の伸びが感じられる言い回しで問いかけた加賀に、寝起きの熊は「なんでもねえよ」と返す。

「それよか、あっちで資料配布してろって。また係長に怒られるぞ」

 ぶっきらぼうに言い放った熊をちらと見上げると、「わかりましたぁ」と粘っこい了解を示した加賀が、ちょこちょこと走り出していった。

その背を見送り、熊が困ったように口元を引きつらせ笑った。

「俺、あいつ苦手なんだよなあ。なんていうか……緊張感に欠けるだろ? うっかり現場に連れ出しちまったら、なんっていうか……なんだ、あれだあれ。むしろどっちかというと邪魔な……」

 小柄な加賀が、何かに躓いたらしく盛大に転ぶ。ばら撒かれた書類が優雅に宙を舞い、呆れたような顔が、いくつかの怒声の下に並んだ。

「ネズミ……って呼ばれてますよ。現場で」

呟いた直後、口が滑ったと口を噤む。しかし、長年の旧友はその微かな声をも聞き逃すわけはなく、消えた背を追ったまま動かない狐塚の視線が戻ってくると同時に、背後から威勢よく背を叩かれた。

その表現に一瞬驚いたように目を瞠った熊が、「言いえて妙!」と馬鹿笑いを発しながら、真一を半ば殴ったのだ。応じた熊の顔が、何かを企む子供のように歪む。

「だよな? 役に立たん上に、視界に入ったら何だか気が抜けるというか」

「目つきもなんだか眠そうですし」

 それまで黙りこくっていた狐塚も、そうそうと納得顔で頷いて見せた。

「でもあれって、警察学校主席だったんですよね?」

「のはずだがなあ……。久しぶりに俺たちのトコにも、使える奴が回されたと思ったんだが。偶然の産物か、何かの不手際で情報が混ざったのかね。どっちにしろ、俺にはアレが主席卒業だとは信じられんよ」

「活きのいいのは、もっぱら丸の内とか本富士に取られちゃいますからね。繁華街近くも重点的に送られますし。うちに来るなんて、何か裏があるとは思いましたけど」

 思わず目を見合わせた三人が、誰ともなく吹き出した。絶え間ない笑いの渦が、喉をやけどしたようにひりつかせ、腹筋を壊す。笑えるときには、笑っとけ。それが、すっかり覇気を失ってしまった彼らの、合言葉と化していた。

 昔から彼らはいい奴らだ。

大柄で、我感せずの体を保つ桂木と、小柄で華奢な加賀のでこぼこなメンバーを抱える「某一大横領事件捜査本部」の生き残りは、残滓の名の通り忘れ去られたごとく扱われ、しかし抱えきれないほどの雑務をこなし続けていた。同じ刑事部の中からも《不思議の森》の異名を取っている彼らは、総員五人。強行犯係付きだった腕利きの桂木高雅巡査部長を筆頭に、同じく強行犯から狐塚道隆。贈収賄や詐欺を担当する知能犯係から、間宮真一。盗犯のお荷物と称された加賀大和に、本締めとして、本庁で燻っていた芹沢という男が、一応監視役という名の厄介払いで残されているだけだ。まあ、監視役と言ってもこれはおまけのようなものだが。

 駆け込むように戻ると、窓際の一角に、小柄な身が仁王立ちしていた。顔は引きつり、卑屈な笑みを浮かべている。

「何処に行っていた馬鹿者が!」耳障りな金切り声が飛ぶ。

 前例無し、手探りで意義さえよく分からない捜査本部の生き残りは、狭い刑事部に間借りするスペースがなかったため、隣の比較的広い部屋――といったら聞こえはいいが、簡単に言うと物置だ――にベニヤで仕切りをつくり、成立している。

そんな地獄の中、いつのまに帰ったのか、デスクワークに励んでいたと見られる男が、怒りを露に腰を下ろした。背後を窓で覆われた芹沢の席は、差し込む光の悪戯で、後光と言うより暑苦しい演出にしか見えない。青白いその肌には玉のような汗が滴り、汗をかいたと言うよりは、何処かで滝修行でもなさったのですか? と思わず聞きたくなる有様だった。

「聞き込みはどうした、聞き込みは! 早く成果を出して見せんか。でないとまた、所長直々に小言を食らうんだぞ。報告書は、有力情報はっ!」

 耳障りな雑音に、「もう聞くこともねェっつうの」と狐塚が不満を漏らす。

 そう、彼らは単なる後片付け係りとしてここにいる。とっくの昔に事件は解決したのだ。

あわただしく立ち働く大広間の陰から、駆けるように近付いてくる小柄な人影があった。

「うわぁー、あぢかったぁ……!」

 手にした空のファイルで火照った顔を仰ぎながら、汗で頬をぬらした加賀が意味もなく駆け込んできた。それだけで、まるでモグラか、すっとぼけたネズミが迷い込んできたようで、真一の肩から力が抜け、思わず笑いが漏れる。

「おう」と手を上げた熊にくしゃと潰れたような笑顔で応じ、壁を這うように真一を避けると、奥に位置する自分の席へと腰を下ろした。

「ぷはぁ、ふぅ……疲れましたよぉ。何であんなに会議室って遠いんですかぁ」

 ふて腐れたように頬を膨らませた加賀が、決して広くない机に突っ伏した。

 素直に「そういえば、なぜ会議室に?」と語る視線を受け止め、口を尖らせる。

「借り出されたんですよぉ。人手が足りないって言うんで……」

「そりゃ、あっちもいい迷惑だったろうなあ。ご愁傷様です」

 扇風機に煽られた狐塚が笑った。

「むぅっ。こっちも、いい迷惑ですよぉ。今日は外回りさっさと終わらせて、直帰しようと思ってたのにぃ」

ぎろりと向けられた目も気にせず、加賀は手元のペンを拾い上げるとクルクルと回し始める。この一種異様としか言い切れない集団をまとめなければならない芹沢警部補は、元来の卑屈さを隠すこともなくヒステリックな小男だ。理屈の通らないことも平気で言う彼の金切り声は、恐怖というより不快感を与える。

また怒鳴られるのか、と思わず身構えた真一の横で、そ知らぬ顔のネズミは、もしかすると蛇ににらまれたことがないのかもしれない。

 部屋唯一の涼は、相変わらず目の前の狐塚ばかりを贔屓している。不満とばかりに角度を調整した子ネズミを、のそりと身を捩った熊が叩いた。「あいた!」

「そういえば加賀、お前この前の報告書はどうした」

 小さな背をさらに丸め、手元の引き出しから何かを取り出そうとしていた子ネズミが、驚いたように上目遣いで見上げる。「あ、」間の抜けた声が吐き出されると同時、むっと顔を顰め、雑多なものが乱雑に突っ込まれた引き出しの中から一冊のノートを引き出した。

 学習帳と書かれた嫌に綺麗なノートは、署内の女性警官が、面白半分で加賀に買ってきたものだ。動物のイラストが描かれた表紙を捲ると、ひらがなだらけの中表紙を剥ぐように開く。露になった真っ白なページには、しかし等間隔に引かれた罫線を無視して大量の落書きが書き付けられていた。

「もう、わかってますよぉ……報告書……っと……、はい、僕のこの前の外回りの結果ですぅ」

 描かれた幼児並みの落書きの真ん中に、堂々とペンを走らせる。すっと立ち上がり、ページをむしり取ると、いささか常識はずれな報告書が完成した。

 汗だくの顔に一瞬にして嫌悪を滲ませた係長が、その紙切れを受け取ると、おもむろに目を通す。その顔から血の気が音を立てて引き、「貴様……っ!」と机の端を殴るまでに、当の子ネズミは脱兎のごとく逃げ出していた。

「あいつ……っ! これをどう、上に提出しろと言うのだ!」

 握りつぶされ放り出された紙切れを拾い、広げた熊の顔に、含みを帯びた笑みが広がっていく。

「あのネズ公、将来大物になるぞ」

 笑いを堪え、手渡された紙切れに目を走らせると、色々な意味でひっと息を呑むことになった。

――ほうこくしょ。なにもへんかはありません。加賀大和――

「あいつ、漢字も知らないんじゃないか?」

「そんなはずはありませんよ。この前、盗犯係の係長から『あいつは、他はなんもできんが、報告書だけは上手いからな』って言われたばかりですから」

「意図してやってるなら、それはそれで一興だ。上手くもない落書きに埋もれているのがまた、な」

 くつくつと笑いを噛み殺す熊の背後で、「笑い事じゃない!」と怒り心頭の係長が立ち上がった。

「この報告書を、どう説明するんだ! まさかわたしに、一字一句間違いなく書き直せとでも言うのか!」

「書き直しゃいいじゃないですか。だれも間違いなく書き直せなんて言ってないんだ。自分のいいように書き直せばいい」

 口元を歪めた狐塚が、握ったペンを弄びながら扇風機の位置を調節した。

同意を得られないと骨身に沁みたのか、係長は骨ばった肩を落とし、倒れこむように椅子へと沈みこんだ。

「お前たちは悪魔だ」

 目元を覆った係長は、消え入るように呟いた。

「間宮」

「はい?」

 一瞬、うんざりと歪めてしまった顔を上げる。すると、彼の上司は全く体勢を崩すことなく、同じく聞き逃しそうな小声で告げた。

「上が君を、お呼びだそうだ」

 またゴルフか何かのつきそいかとウンザリした。