クインテットビショップの還幸

6章 グラナダ・ステファンブロー《死す赤き鷹の飛翔》



東方のスヴェロニア戦線は次第に拡大し、終息を見ず。
最前線にして落伍、包囲を受けた第十七線区は、善戦の後《全滅》。
北方展開の軍勢は少ないとはいえ、手を組し大国アズバランが会合せんと間近に迫り、戦備薄い西方にはかつての盟友ネインクルツが展開を完了しつつあった。

戦況は昏迷。
帝都であがく者たちは、その事実をまだ、知らない。


「北が軍勢を引くだと!?
中央からは大部分を西方へ裂いてる。
まさかあいつ、帝都を不在にする気かっ!」

「シリウス閣下、お待ち下さい……っ!」

廊下へ響き渡る、罵声と悲鳴。
怒気を振り撒きながら足を進める男に、駆け出しながらもかつて乳母と呼ばれた人が食らいついていた。
開かれる執務室。
豪奢な扉は軋み、いびつな悲鳴を上げる。
中にいた人物を見、彼は彼女が言わんとした意味を理解した。
中央に置かれた巨大な卓。
並べられた地図に、つけられた印の多さ。
しきりに駒を動かしては戻すを繰り返す少年は、盛大な音に気付いてだろう。
ここ数カ月で格段に逞しくなった視線を上げた。
何か言いかけた口元は、しかし次の瞬間には苦笑気味に引き攣った。
その前でうなだれて頭を抱えている背。
男が目的としていた存在は、成る程、かの乳母ですら止めたくなる程傍目にも憔悴しきっていた。

「……あいつなら、どうすると思います?」

渇いた声が、俯いたままの背から上がる。
もはや独白。
いや、懺悔か。
きっと、答え等求めてはいないのだろう。

「俺は、あいつがするように戦線を動かして来た筈なんです。
あいつならどうするだろう。
どこを守るだろう。
そればかり考えて。
なのに、状況は全く改善されないんです。
あいつなら。
あいつなら。
あいつなら。
俺にはもう……判らなくなりました」

「……戦場は生き物だ。
いつも定石通りいきゃあしねぇよ。
それに、今回は明らかに敵対上限を超えたもんを相手させられてる。
例え坊んだって、有利に動かせたかはわからんさ」

慰めはいらないとは解っている。
それでも言わずにはいられなかった。
しかし、言われた本人は、いらだたしげに机へ拳をたたき付けた。
骨を打つ、鈍い音とともに、鋭い叫びが飛ぶ。
「でも、あいつなら、きっと最悪の状況下でも、勝ちをもぎ取れるんだ!
俺は……あいつのやり方を一番見てた筈なのに……!」

「デルンブルク将軍はよくやってくれていますよ」

いつにない激昂にびくついた一同を尻目に、駒の一つを弄びながら、少年が小さく呟いた。

「違うとしたら、僕に統率力がないからです。
兄は、いるだけで志気を何倍にも上げることができる人でした。
将軍が兄の手法を倣い、最善を尽くして来たのは明白ですから、絶対的に欠けたのはそれしかありません」

誰もが頭の片隅で思っていたことを、本人に淡々と告げられると、それだけで皆かける言葉を失った。
そう、誰も、何にも慰めなんか口には出来ないのだ。
重い、重い沈黙が流れた。
どれだけそうしただろう。
突然、ゆらり、騎士が立ち上がったのだ。
光のない瞳を上げ、こちらをじっと見つめてくる。

「…………あります。ひとつだけ」

一番至りたくなかった答えを噛み締めるように呟き、奴は身を翻す。

「シリウス様、しばし帝都をお願いしてよろしいですか。
どうやら、他に道はないらしい」

「はっ……、おまえ、この状況下で帝都を離れるって言うのか?
まぁ……持ちこたえるのは出来ても……。
指揮官の姿が見えなきゃ、従う者が不安がるぞ」

「すぐ戻ります。
きっと説得します。
そうですね……五万の兵を連れて」

「五万!?」

「たった一人にその価値があると認められた男です。
きっと、状況は打開してくれます」

「ちょ……ちょっと待て、そいつは何者だ?
一人で五万?
認められた、ってことは、自画自賛ではない訳だな」

騎士はしばし考えるそぶりを見せる。
まるで、それが当然のことを聞かれて、どう説明してよいのやらたじろいでいるような。
片目だけ細めた思考の形のまま、彼はゆっくりと口を開く。
言葉を選び取るように、ゆっくりと。

「アルベルト陛下の時代、語り種になっている戦線の中で、ある意味異種と言われたものが存在します。
《グラナダ陥落戦》と呼ばれるものです」

「坊ちゃまが指揮したものの一つですわ。
他国要請によって、内乱を収めたものです。
使用兵力は、五百。
要請国軍の自国兵一万貸与を断りながらも、二万の兵力を温存した十万都市を無血開城させた」

「五百で二万を……?」

「坊ちゃまの現れる戦場には、血が流れるのが常。
それが、突然の無血開城でしたから。
敵、味方双方なんて、そうありません」

「あいつが、それを望みました。
だから、叶えた。
俺たちは、いつも、あいつの意にそうように工作してきましたから。
俺たちはそれを、《グラナダ・ステファンブロー》と呼びました」

「ステファンブロー……?
作戦名ですか?」

「正確には。
しかし、その意味を解する者は殆どいません。
我々が作り上げた造語なのです。
ベルトは当初、身分を隠して戦線に立っておりました。
万が一、皇族が敵の手に落ちれば、それは則ち国としての失墜です。
どんなに戦況を支配していようと、全ての利を覆される。
味方ですら信用してはならない状況下で、我々は必要に迫られて自分たちにしか解せぬ言語を編み出しました。
殆どの会話は、その文体で行っていたのです。
その中でも、暗号が完全設立するまでの七年間は、俺ですら奴の記述は解読できませんでした」

「記述……っ?
兄は、学を禁じられていたから、読み書きを覚えたのは戦場に出てからって……」

「坊ちゃまは、物をお書きになりましたよ。
日記や、本もお読みになります。
ただ、その言語を解すことが出来る者が極端に少なかったのですわ。
勿論、わたくしも」

乳母が何やら愛おしむように、傍らに立つ書棚を探った。
差し出されたのは、いびつな文字らしき言語の羅列だった。
大きくよろめく文字の下に、かくばった小さな字。
お手本を真似たような様は、次のページに移ると、流れるような流線となる。

「クラウスさま。
確かに坊ちゃまは、文字をお書きになれませんでした。
ただし、それは、片側の側面でのこと。
これはですね。
坊ちゃまが、大好きなお母様とやりとりされた、往復書簡なのですよ」

少年は、くすくすと囀る彼女の手から本を受け取り、躊躇いながらその文字をなぞった。

「モノゴコロついた時には、お二方とも、監視の目が光っておりました。
ですから、これは、あの雛鳥のような子が、僅かに繋いだ母親との糸だったのです。
懐かしい、わたくしも、よくお使いに行かされましたわ」
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