クインテットビショップの還幸

第11話 彼女に用意された世界



誰も彼もが振り返る。
顔を引き攣らせ、思わず道をあける者、慌てたように駆け寄る者。

陛下、
陛下、大丈夫ですか。
いますぐお召しかえを――。

僕は彼等の申し出を無言のうち断る。
誰もが黙り込んだ。
皆僕のこんな姿、見慣れていないのだ。
怒り、威圧、気迫、そういったものは皆、僕には縁のないものだった。
全ては兄の。
嗚呼そうだ、僕は兄を探していた。
真実を見極める為、
あの時、騎士へとつかみ掛かった乳母。
焦る女史。
答えは簡単だ。
今、捜すべきは――、

「ライマー……」

分かたれる人波。
その先に伏せていた睫毛が上げられる。
鮮やかな漆黒の瞳。

「デルンブルク、将軍」

彼は小さく、淋しそうに笑った。

「教えて下さい」

僕は、冷え切った肺の空気を混ぜ、言った。

「兄の、最終目的は何ですか?」

あんなにも汚泥を被って、それを弁明もしない。
足元に死体を積み上げ、血に飢える獣のふりをして。
どれが真実か。
どれが兄なのか。
玉座の緋色はベルベット。
返り血だと囁かれたそれは、

「陛下が渇望された望み。それは――」

《自ら命を絶つことです》

全身の血が泡立った。

「アルベルト陛下は、完全なる国家を望まれました。
完全な民族、
完全な組織、
それが現在の軍事基盤であり、国民性の基盤となったもの。
しかしかの方は、同時にそれが己のみではなしえぬことを感づいておられたんです。
人の生は短く、されど新たな規則は定着しにくい。
故に、彼は男を望んだ。
自分の国家を継ぐ正当なる男児を!
……しかし、生まれたのは女だった。
子を望めぬ身となった奥方の手前、引くに引けなくなった陛下は、あいつを男と偽らせ、厳しく邪険に育てさせた。
あれの扱いは酷いものだったよ。
父親として、期待させては裏切るの繰り返し。
……小さい頃のあいつはとにかく悲しくなるくらい健気だった。
とにかく嫌われたくなかったんだろうな。
けど、それでもそれなりに継承者として扱われていたんだ。
お前が……生まれるまでは」

――望まれた子!
真の後継者と。
父はことあるごと俺に言った。
幼い僕は気がつかなかったけれど、その裏には異端となる後継者がいたということ。
抱きしめられ、背負われて育った僕とは対極の。

「俺はようやく安堵した。
ようやく、ようやくあいつが手放されると思ったから。
えげつない期待からも、理不尽な叱責からも解放されると。
いや、放逐してくれてもよかったんだ。
俺と彼だけは、あいつについていっただろうから。
姿を消せと言われたら、俺達だけで細々と暮らしただろう。
しかし、陛下はあろうことか、もっと残酷なことを思い付いたんだ。
陛下の恐ろしいところは"何もかも、骨の髄まで食い尽くす餓狼"と呼ばれる所以だ。
あの人はあろうことか、自分の国を生み出す上での汚泥を、全てあいつに負わせようとした」

――彼が壊滅させたと言われるのは、何十もの民族。
全て、ベルンバルトの要求に屈しなかった誇り高い民だった。
女子供すら平気で虐殺する、民族と思想の一大整理――。

「危険な戦場も、民族一掃も、全てがあいつの名の元、行われた。
血生臭い噂も、あえて取り繕おうとはされなかった。
いや、寧ろ喧伝していた節があるな。
あいつはそうやって」

――あの方は、優しい人。

「積極的に悪役へと仕立てられたんだ」

生き残りの民、
反する噂。
暴虐の軍神は、
血みどろの軍服を手に涙も流さない。
哀れなマリオネット。

「陛下が体調を崩されて、それでもお前の成人を目に出来ないと分かった時、陛下はあれに、最も恐ろしいことを要求した」

《今はただ見逃してやろう。ただ、お前は汚れなんだ、アーデルベルト。この子が無事成人して、覇者として君臨できるようになったなら、お前の全てを明け渡し、その惨めな身を始末しろ。ベルンバルトの膿どもと、異端の歴史と共に心中すればいい。暗黒の歴史は塗り潰される。嗚呼、お前のいない世界は、素晴らしく完全な世界になるぞ!》

振り落ちるステンドグラスの明かり。
抱き抱えられ見上げた世界。
楽園、放逐、果てに続く創造、連綿たる国家の闘争と融解。
中で、黒く塗り潰された一遍の歴史。

《あれはな、民の為、剣を取った王女なんだ》

間近で響く、耳障りのいいテノール。
嗚呼、この記憶は――。

今は失われたその名は。

《――黒薔薇》

「……兄さん」

貴方だったんですね。

「……兄は何処ですか?」

騎士が顔を上げた。
空気が凍っていた。
真実を。
誰も知らなかった真実。

「貴方の言葉を信じると、兄は今、どこか一人で死のうとしていることになる」

成人の儀。
達せられたのは唐突な継承。
兄の顔は嬉しそうだった。
今まではその重責から逃れたかったのかと思っていたが、もしかしたら。

「兄はそれを……望んでしまっているんですね」

幼き頃より囁かれた不義の呪い。
お前はいらない。
死ねばいいのに。
何故生まれたんだ。
劣等。
くず。
お前なんか。

だから兄は。

「あいつは……心からお前を愛しているんだ。だから」

――俺が倒され、次の王となったとき、きっと復権させてくれる。あの子の国は幸せな世だ。

「殺された筈の彼等が言っていました。僕が覇権を握ったら、きっと彼らも国に戻れるよう言われた、と!」

「貴方の性格なら、そうすると見越した。悪の歴史は、あいつが全て背負って逝くと決めたから!」

国民からも恐れられる王に。
武力による統率、
恐怖による封建の確立。
基盤の出来た組織は、頑なにそれを守ろうとする。
兄が退いても。
神が、討ち落とされたとしても。

「今のあいつは……っ、お前を……お前の為に死ぬことを、よりどころにしている……っ!」

だから止められるのは貴方だけなんです、と。
彼は悲痛な叫びを上げた。

「場所は」

問われた彼は、ゆるうり顔を上げる。
そして小さく、一つの地名を転がした。
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