「状況は! 調査班はまだか!」

 建物の外に設置された本部では、苛立たしげに安西が怒鳴っていた。

 血まみれの向坂と名畑が転がり出てきて、いくらかたったが、内部からは何の動きも感じられなくなっていた。ケルベロスの恐怖は消えたとはいえ、ジークフリートが放されでもしたら、建物内に押し入ることは出来なくなる。とりあえず様子を見よ、との宇崎の言葉をも苦々しく受け止め、安西は落ち着きなく歩き回っていた。

 「安西警視正!」

 突然背後から、ヘッドフォンを耳に当てた捜査員が叫ぶ。「何だ!」と返した安西に向け、怯えた様子で「あの……メールが届いたんですが……」と呟いた捜査員がコンピュータのディスプレイを指し示す。飛びつくようにそのコンピュータに向かった安西の目に、コンピュータ独特の素っ気のない文字が飛び込んできた。

『キララ倒レタリ。

  残リノジークフリートト、精製炉カクホ・及ビ破壊完了。

建物内一帯ニ、ジークフリート飛散。

  キララノ所持品ヲ調ベタトコロニヨルト、

  国外ノ他勢力ニヨル核攻撃ノ危険アリ。

  重々注意サレタシ。

  我ノ事ハ気ニスルナ』

 核攻撃……!

 背後でディスプレイを覗き込んでいた向坂が息を呑んだ気配が届く。ついで、「早く、何とかしないと……!」と続いた声の前に、安西も一つ息を大きく吸うと普段の冷静を取り戻した。

 「大丈夫だ。手はある」

 「しかし……!」

 振り返った安西へと不安の目を向けた向坂の隣で、彼の旧友須藤が胸元から自身のケータイ電話を取り出すと、迷う事無く文字盤を押した。

 「あ、もしもし俺だ。中田長官いる? 大至急伝えたいことがあるんだけど」

 繋がったらしい電話口にそう吹き込んだ須藤の横で、向坂が訝しげに眉を顰める。中田長官と言ったら、現在の防衛庁の……。

 「え? いない? こんな大事なときに何やってんだか……!まあいいや。お前から長官、もしくは総理に伝えて。外部から核攻撃の恐れがあるから、隊動かせって。そうそう、対空ミサイル装備した海自に警戒させて、空自を飛ばすんだ。うん、それで陸自は全土の主要施設、もしくは発電所均衡に配備。これだけで少なくとも威嚇にはなる。は? 有事だぞ? いいから、急げ!」

 勢いよく電話を切った須藤が、安西に向けてにやりと笑う。

 「警察庁と防衛庁がいかに不可侵であっても、個人にまでそうとうは限らないからな」

 そう言うと踵を返し、側に立っていた自衛隊員からコートを受け取る。その襟元で、自衛隊の識別証が輝いた。「俺も隊を動かしてくる」

 その笑みに軽く手を振り応えた安西が、安心しろと向坂を見つめた。残る問題は後一つ。矢萩と花火の処遇だ。気にするなというほど深手を負っていると見てまず間違いない。しかし、助けに行こうにも室内に撒かれたというジークフリートの存在がなによりも大きかった。今ある警察、自衛隊の対化学兵器の備品も、ジークフリートに効果を発揮するとは限らない。いや、六年前強硬手段に出た「TWD」もマスクなどの備品は持っていたはずだ。……今の技術ではジークフリートを防ぐ技術はないと見て間違いはないだろう。

 このまま見捨てなければならないのか?

 そんな不安が胸を過ぎったとき、目の前に腰を下ろしていた向坂が驚愕の表情を浮かべ、眼前を凝視する。視線の先を振り返った安西の目に、黒い人影のようなものが映りこんだ。

 何だ? あれは。人にしてはおかしな形をして……。

 今まで厚く太陽にかかっていた雲が過ぎ去り、一瞬にして当たりに眩いばかりの光をもたらす。その中に歩み出た人物の姿を見、向坂はたまらず走り出した。

 「聡さん!」

 呼ばれた青年が砕けた膝をつき、目を僅かに上げる。その背には血まみれの少女、右腕には矢萩が握られていた。

 ばたりと倒れた聡のそばへと駆け寄り、背から少女をどかしてやると、その首元に指を当て、僅かな拍動を感じ取った。それと同時に矢萩が苦しげに呻く。

 「急いで!救急車!」と叫んだ向坂へと唯一意識を保つ聡が霞のかかった目をむけ、はは、と軽く笑う。

 「俺たちの大将、助けてくれなかったら、一生恨んでやるからな」

 矢萩のことを言っているのだろう。深くうなずいた向坂の背後で、再びあわただしく動き出した人間たちの喧騒が轟いた。

 おそらく、ここまで背負ってきたのだろう。ジークフリートの中を。切れた神経は戻りはしない。それでも、彼らを連れてきてくれた青年は、ようやっと安心したのかゆっくりと目を閉じる。向坂は腕の中で呻いた少女の存在を思い出し、名畑を呼ぶと応急処置のための備品を取りに行かせた。

 遠くでパトカーや救急車のサイレンが一緒くたになり、清々しいまでの混沌と爽快さをもたらしていた。

 

 どうにもならないんですか?

 

 仕方ありません。神経自体が切れているんですから。

 

 白で染められた場所には、どこか温かみのある騒々しさが垣間見え、ゆっくりと時間が流れ行く。その只中にあるはずのこの場所は、他の流れそのものから隔離され、静かに凍結されたような時間が流れていた。

 「どうにもならんのです。男の方は、片足と右腕、脳の一部にも損傷を負っています。腕に至っては指の骨の一部が丸々溶けてなくなっているのです。女の子の方はもっと重症で、あれは……生きていることさえ奇跡に近い」

 そう呟くように言った医師の前で、咎められた子供のように目を伏せていた向坂が「そうですか……」と続けた。首から吊られた左腕が白く痛みを持って向坂に応えた。

 「とにかく、時間を持ってみるしかありませんね。ネオは我々にとっても未知のものです。今はゆっくり療養することが必要なんですよ。あの人たちも……あなたも」

 最後の言葉は自分に向けられたものだろう。僅かに目を上げ「はい」と応じた向坂が、思い腰を上げる。すると膝においていた鞄から一枚の紙切れが落ち、風に舞った。未だ本調子ではない向坂に代わって優しげな医師が拾うと、表に向けなおし向坂へと差し出す。その紙には、あの日命を落とした恐怖そのものの姿。出し忘れたのだろう。その写真を受け取ろうと手を伸ばした向坂に、何か思い出したように頷いた医師が口を開いた。

 「この方ともお知り合いでしたか」

 「秋口を……知っているんですか……?」

 その懐かしげな口調に向坂が問い返すと、「秋口?」と不思議そうに口にする。

 「この方は澤口充さんですよ。妹さんは結婚なさって秋口姓になりましたが」

 え……っと、向坂が目を見開く。その様子を不思議そうに見つめながら、医師はなおも口を開いた。

 「この方は澤口充さんです。妹さんの名は佳代。澤口佳代さん。秋口は佳代さんが結婚なさった方の姓ですね」

 「しかし彼は秋口光範だと……」

 「光範さんは佳代さんの旦那さんですよ。十六年前家に押し入ってきた男に刺し殺されたんです。佳代さんも本当にお気の毒にねえ……もし澤口さんが旦那さんの名を語っているのなら、きっと佳代さんに頼まれたのでしょう。子供に父親が居ないことをひどく気にしていましたから……」

 そう言うとめがねをかけた医師は引き出しの一つを開き、一枚の写真を取り出すと向坂へと差し出した。

 「彼らとは古い付き合いでね。十六年前、妹さんを診察してカウンセラーを紹介たのも私です」

 その写真には、シンプルなドレス姿の女性とその傍らに立つ男性、その隣にほんの少し表情を和らげた彼の姿が。

 「父親じゃなかった……?」と呟いた向坂に、写真を再び直しこんだ医師が人懐っこい笑みを浮かべ、問うた。

 「彼は元気でやっていますかね? 佳代さんの子も、今年で十六になるはずですが」

 重い問いだった。彼がつい最近反乱を起そうとし、死闘の果てに彼の妹の子が死線をさ迷っているのだと誰が言えようか。

 「ええ、そう聞いています」と消え入りそうな声で呟くと、向坂はそれ以上の言及を受ける前に踵を返した。

 病室が立ち並ぶ区画へと足を進めると、小奇麗な一室から名畑が出てくるのが目に映った。「あ、先輩」と明るい声を上げた名畑に、向坂も軽く手を上げる。「どうでした?」とかけられた言葉に力なく首を振ると、名畑は悲しげに目を伏せた。

 「生きてるんですよ、花火ちゃん。元気とは言いがたいけど、俺が話しかけたら笑ったり、頷いたりもする。確実に生きてるんですよ……」

 今知った事実を打ち明ける勇気もなく、唯頷く。すると、遠くからゆっくりと近付いてくる人影がが見えた。次第に鮮明になるのはあの日分かれたままの矢萩の姿。しかしそれも、片足を重々しげに引きずり、右腕は力なく地面に向かってたれていた。つけられた義手で廊下を繋ぐ手すりに寄りかかり、一歩、また一歩と歩を進めてくる矢萩の姿は、痛々しげにさえ見えた。

 二人との距離が後一歩まで近付くと、矢萩は今まで伏せていた目を上げ、細める。「お久しぶりです」と声をかけた向坂に、矢萩はやっと「ああ、」と声を出し口を開いた。

 「向坂と名畑か。珍しいな、こんな所まで」

 「NEO」の影響か、視力が格段に低下した矢萩を前に「自分の検診もかねてお見舞いをと思いまして」と返した向坂が深く一礼を返す。言う必要はないだろう。もうすでに彼らは負担を背負いすぎた。これ以上何かを背負わせなくてもいいはずだった。

 「失礼します」と軽く口にし、背後に立つ名畑へと目配せをした向坂が静かに帰路に着く。その背を見送ることもなく矢萩は目の前の病室へと足を進めだした。

 「花火? 元気か?」

 白い枠から顔を覗かせると、目の前の少女の顔がぱっと華やぐ。ベッド脇のパイプイスを引き寄せた矢萩も頬を緩めた。

 完全に言葉を失った花火との間には、もう言葉は殆ど要らなかった。ただ彼女の隣に座り、やわらかく吹き寄せてくる風に身を任せていると、少女が僅かに身を捩る。

 「どうした?」と返した矢萩が目を凝らし、顔を近づけると少女は安心したように口を動かした。

 『歌って?』

 その言葉を辛うじて見取った矢萩が、一瞬驚いたように目を瞠った。しかし暫くすると柔らかい笑みを浮かべ、そっと目を閉じ、口を開いた。

 Amazing grace,how sweet the sound

That saved awretch like me

I once was lost but now I'm found

Was blind but now I see

 

T'was grace that taught my heart to fear

And grace my fears relieved

How precious did that grace appear

The hour I first believed――

 矢萩は静かに歌いながら思っていた。もしかしたら、俺は花火を救うことで過去の自分をも救いたかったのかもしれない、と。

 

 足をさらっていく波を心地よく感じながら、花火は目を閉じ全身で風を感じていた。さらさらと不安定に揺らぐ足元が、ほんのりとくすぐったく思わず笑ってしまった。

 目を開くと、見渡す限りの海原と夕日。これは夢なのだろうか? とぼんやりと考えながら、それでもいいかと微笑む。すでに今の花火には、夢と現実の境目が曖昧になっていた。これは夢? それとも現実? 今のこの体が本当のものなのかそれとも幻なのか分かるはずもなく、花火は詮索をやめた。

 どっちでもいいか。

 そう思い伸びをした時、遠くから視線を感じ、ゆっくりと振り返る。その先には楽しそうに花火を見つめ、足を止めた矢萩の姿。

 夕焼けに染まるその姿を見つめ、嬉しさが胸の中に染みた。

 秋口の下で動いていた時、子供であっても花火には甘えが許されなかった。人を殺すためにはと感情を殺し、人としてではなく機械として人を殺す。幼い記憶の中で、父としての秋口は決して待ってはくれなかった。転んでも立ち上がり、追いつけない大人の歩調から置いていかれないように必死で走る。その繰り返し。

 それが今、夢か現実か、ふと景色を見つめ足を止め、それを待っててくれる人がいる。その存在が限りなく嬉しかった。例えば花火が散るときの、そんな儚い命であっても。

 お父さんって、きっとこんなかんじなんだろうな。

そう胸の中に呟き、花火は再び目を閉じた。足元をさらっていく感覚が、ゆっくりと遠のいていった。

 

 

End…

 

2006,8

 

 

実は、馬で公道を疾走させてみたいがために書いた作品(笑)