:権力と家族の食卓:
外務省本部。
もうすぐ終了時間だ。やっと帰れると小さくため息をつくと、もう少しの辛抱とばかりに視線を大きな入り口へと移した。外務省の受付に座るようになって二年。先輩であるもう一人の方は、暫く前に予約客を案内に行ったきりまだ戻ってきていない。時間になったら、気にせずに帰っちゃおうかしら、と考えながら変わりない風景を眺めていると、扉の前に一台の乗用車が乗り入れてきた。
うそ? 今日は予約客も終わりだって言ってたのに。面倒だなあ……。
一瞬にして体中を支配した倦怠感を隠すように、形だけ笑顔を作る。こういう仕事をしていると、八方美人になるのだろうか。
運転席から転がるように出てきた小柄な青年が、扉に近い後部座席の扉を開く。中から下りてきたのは、一人の端正な顔立ちの女性だった。
意思というよりもどこか怒気に近い雰囲気を身に纏った女性は、駆け寄ってきた警備員にさえ鋭い眼光を送っている。その中に割り込んだあの小柄な男が一人の警備員に何事か話し、差し出しているのが見えた。
作り付けられた大き目の扉を悠々と潜り、二人は中へと足を踏み入れる。何もしなかった警備員に半ば幻滅しながら、受付嬢は笑顔を取り繕っていた。
「いらっしゃいませ。お約束はございますでしょうか」
出来る限り温和に言うと、目の前に立った女性が目を細めた。不機嫌そうに歪められた眉を見、斜め後ろに立っていた青年が強引に前に出た。
「警視庁です。あの……約束はないんですけど、ちょっと用事が……」
「安西英次事務次官を出して。……居るんでしょう、ここに」
何とか穏便に済ませようという青年の言葉を遮り、女が言う。事務次官といえば、各省庁長官の次の席、彼女たちにとっても雲の上の人である。それに比べ、男の方は警視庁と名乗るも、女の方はどうだか分からない。そんな怪しいというレッテルがぴったりと合う女性の口から、「事務次官」などという言葉がでるとは。
半ば不審がりながら、「お約束のない方は、後日お約束を取り付けていらっしゃってもらうしか……」と呟く。しかしそんな精一杯の防衛策にも屈さず、女性はふんと鼻で笑い、口を開いた。
「だったら、呼び出して。向坂瑞穂が来た、と言ってもらえればわかるから」
「しかし……!」
出来る限り面倒ごとには関わりたくない。そんな思いからそう口にしようとしたが、背後からかけられた笑みを含んだ声に止められる。
「分かりました。今聞いてみますので、そちらでお待ちください」
背後で上がった聞きなれた先輩の声に、受付嬢の表情が僅かに華やぐ。助けに入った救世主を前に、女は暫く考えたようだが青年を引き連れホールの方へと歩いていった。
「せんぱあい……!」
「しっ!ああいうお客さんは、とりあえず上に聞いてみるの。さあ、早く秘書室に内線かけて」
慣れた手つきで秘書室の内線番号を押すと、繋いでいる音を確認後、隣に腰を下ろした先輩に受話器を渡す。彼女は再び外行きの声を喉から出すと、何事か電話口に吹き込んだ。
「すぐに聞いてみるって」と返した彼女に、自然ほっとため息がこぼれた。
「それにしても、あの人たち、何なんでしょう。男の方は警視庁だって言ってたけど……」
思わずこぼれた問いは、遠くの人影を写す瞳に向けて言われたものだ。「え?」と振り返った先輩の顔を見つめると、不意に浮かび上がった憶測が口をついていた。
「もしかして……愛人とか」
「何で愛人がここに来るのよ……それに、事務次官はとうに六十を超えてるわ。あの人は三十前後にしか見えないものありえないでしょ」
「でも、六十過ぎても外務省に居るような人ですよ? それに、男は年を取っていてもあんまり関係ありませんし。別れ話がこじれて、職場に乱入かも……!」
「馬鹿ね。事務次官は昔、奥さんと死に別れているのよ? 夫婦仲は悪くはなかったみたいだし」
「そうかなあ……」
不服そうに呟いた受付嬢の目に、奥へと続く階段を急いで駆け下りてくる人影が映る。あれはたしか、事務次官の秘書だっけ? と思い当たると、彼は上がった息を整えることもせず、向坂と呼ばれた女性の前に立った。
「お待たせして申し訳ありません!すぐにお通しするようにとのことです」
深々と頭を下げた男性秘書に、イスから立ち上がった向坂が「別にいいわ」と呟く。すぐさま先導しようと踵を返した秘書の後ろで、思い立ったようにこちらへと笑みをよこした。
「言っておくけど私、彼の愛人じゃないから。顔を合わせることすら少なかったし」
びくりと体が硬直し、背をつめたいものが伝う。結構な距離があったというのに、あの会話が聞こえていた?
突然言われた言葉と、突然恐縮した受付嬢二人と不思議そうに眺め、秘書は「こちらです」と再び歩き始めた。
かちりと金具の開けられる音が響き、背後に、入ってきた人間たちの息遣いを感じる。「お連れしました」と聞こえた秘書の声に、軽く礼を述べるとすぐさま下がらせる。背後で再び扉の閉まる音が聞こえ、大きな窓に向けていた体を扉の方へと戻した。その前にふて腐れたような顔を見つけ、思わず苦笑がこぼれる。何とか笑いを噛み殺し、「久しぶりだな」と呟くと、目の前の女が軽く頷いた。
「俺のところに来るなんて、珍しいじゃないか。何かあったか」
「本当は凄く嫌よ、死ぬほど嫌。でも、あんた以外に頼める人がいなかったから」
しわの目立つようになった口元をほころばせ、安西英次は笑った。
「それで、何をして欲しいんだね?」
笑みを零しながら言った安西から、眉根を顰めた向坂が視線を逸らした。
「キララ事件の実権を私に任せてくれるよう言って欲しいの。今のままでは、警視庁どころか警察庁さえ動かないわ。どうにかして防衛庁と協力体制を結ばなきゃならない」
安西は暫く目を閉じ考えていたが、「それは難しいな」と呟く。
「警察庁と防衛庁の不可侵は、今に始まったことではない。根が深いんだ。それに、警視庁や警察庁は今回の事件を重要視しているんだろう? だったら、一回の捜査員。それも女であるお前に実権を渡せるわけがない」
他人の目もある。警察組織も男尊女卑だ。同じ実力を持っていたとしても、結局最後に選ばれ、重要な地位につくのは男。向坂も一線で働いてきたからには、自らそれは熟知していた。警察組織どころか、近代国家、日本がその古臭い体制を棄てきれない以上、向坂が自体を動かせるようになるのは望み薄だった。
「だからわざわざ頼みに来たのよ。あなたと警察庁長官は地位的には同じ。下っ端の私がぎゃんぎゃん言ったって気にも留められないのは見えているんだったら、同じ目線から話してもらうしかない。警視庁だって、上の警察庁から達しが来れば、何も言えなくなる。
それに、あなた達にも利益はあるわ。もしもジークフリートがばら撒かれたり、他国、もしくは強硬派の手に渡ってみなさい。一発で日本政府の信用はガタ落ち。今後の外交を考え、面倒な職務を山ほど押し付けられるよりはよっぽど有意義だとおもうけど?」
向坂の瞳に、先ほどよりも強い意志が覗く。母親に似たのだろう。その頑ななまでの意志を懐かしそうに見つめ、安西は口を開いた。
「しかし、私がどうこうできる問題でもないんだ。長官の意見も仰がねばならん。それに上手く通達が出たとしても、何の理由もつけようがない。現場が戸惑うぞ」
「だったら、言えばいいじゃない!私は、外務省事務次官、安西英次の実の娘で、安西直幸警視正の実の妹だと!」
安西の目が驚いたように見開かれる。「許すわけじゃないわ」と付け加えた向坂が、怒りに似た感情を迸らせた。
「あなたは、あまりにも仕事人間だった。母さんがどのくらい苦しんでいるのかも知らず、知ろうともしなかった。だから母さんも、あなたのところから離れたのよ。母さんが幼い私を連れて祖父母の家に帰っても、連絡すらよこさなかったじゃない。私が母方の姓を名乗るようになっても、母さんが死んだときも何一つしなかった。
元々一緒に居る時間も少なかったし、私が父親の顔を覚えたのは小学校も半ばの九歳の時よ。だから、許してやるわけじゃない。私はあなたを父親として認めない。今更父親面されるのも嫌だし、本当は頼むこと自体、反吐が出そうなほど歯がゆいけど、それでも私にはしなくちゃならないことがあるのよ」
「だからお願いします」と頭を下げた。ゆっくりとした夕時の空気と共にしばしの沈黙が舞い降りたが、暫くするとそうか、と呟いた安西の優しい声が向坂の耳に届いた。
「お前は、プライドが高いものだと思っていた。元警察官だった美月に似てな」
懐かしい母親の名。その名を呼ぶ安西の表情を見ると、どこか寂しげな愛情が浮かんでいた。
「美月もお前と似て、だれにも決して膝を屈しようとはしなかった」
「それは違う。プライドは何も生まれない、ただの自己満足に過ぎない。男は自らのプライドに酷く固執するけど、私は違う。母さんは私に意固地になるなと教えたもの。女は、文明の進んだ現代であってもやっぱり肩身が狭い。だったら、プライドなんかにこだわらず、柔軟な精神を持て。それはきっと、将来プライドに執着した男よりもよりよい人間性を手に入れられる、とね。
私はただ、一人の人間でありたい。人が殺されるのにみすみす目を瞑るようなことはしたくない。そのためだったら、私のちっぽけなプライドなんて、すぐにでも捨ててやるわ」
彼の知らない凛とした女性が、目の前にあった。知らないうちにこんなにも大人になっていたのか、と心に浮かぶ。自分の愛した者が死の淵から戻ってきたかのように、年老いた安西の前に臆することなく立っている愛娘をしばしの間見守ると、考え込むように目を閉じた。
ゆっくりと日が沈み、部屋に沈黙と闇が落ち始める。明かりの消え始めた室内で、目を瞑り腕を組んだ安西が静かに口を開いた。
「浜野くん」
「はい」
今まで沈黙を守っていた扉が開き、あの男性秘書が顔を覗かせた。
「警察庁長官と、警視庁幹部。それから防衛庁幹部を呼べ。大至急だ」
「は……っ? しかし理由は何と……」
「緊急だと言えばいい。ああ、それから一応長官にも連絡を。責任は全て私が持つ」
座っていた椅子から立ち上がり、上質のコートを手にすると、安西は向坂へと問う目を向ける。返事も手短に駆けていった秘書の背を見送り、振り返った向坂が微かに嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます!名畑!大急ぎで帰るわよ!」
扉の外、明かりの差し込む部屋へと声をかけると、外で待機していた名畑が「はい!」と返事を返し、走り出した。車を回すのだろう。事態は動かせた。後は、今できる最善の準備を整え、恐怖に挑めばいい。
マナー違反だとは思いながらも焦る心を抑えられず、廊下を早足で駆ける。不意に事情も知らない部下のことが気にかかり、ちらと背後に視線を送る。近くの扉が開かれ、一人の人間が歩み出る。二人と逆方向へと歩を進めだした彼の姿が振り返った視界に映りこみ、どこか見覚えのある様相に思わず眉を顰めた。
――「これでよかったのか?」
薄暗く照らし出された室内には、遠くに灯りだしたネオンの微光が映り、幻想的な陰影を作り出している。その中心に立ち、誰も居ない室内にそうぽつりと吐いた安西の声が、重く沈んでいく。すると背後からくつくつと気味の悪い笑い声が聞こえだし、再び深くため息を吐いた。
「瑞穂には甘いんだな。同じ内容で俺が五日粘っても渋っていたのに。やっぱり男親は娘に弱いものなんだな」
ぎいぃっと金具の微かな悲鳴が轟き、今まで硬く閉ざされていた壁際の収納扉が開く。人一人分ほどのがらんどうな空間が突如出現すると、薄笑いを浮かべた彼の息子、直幸が姿を現した。
「瑞穂がまさか親父のところまでくるとは思わなかったな。あの子は小さかったから、親父を嫌っているし」
だから俺が頼みに来たのに、と呟き地に足を着けた直幸へと振り返り、どこかさびしげな目を向ける。
「親父も正直に言えばいい、おふくろは癌でもう治らなかったんだって。実家に帰ったのも絶望したからじゃなく、療養のためだったって。そうしたらあいつの誤解も解けて、父親として認めてくれるだろうに。下手な同情でおふくろ守って、『自分は正しい』と純愛気取って心の中でほくそ笑んでるだけだろう」
ちらと一瞥を返した安西の視線が途端に冷め、「ちがう」と言い切る。
「事実私は家庭を顧みる事無く仕事に没頭しすぎた。美月が病を患っていることにも気づかなかった。十分罰される理由はある」
煌々と灯る東京のネオン。決して眠らず、癒えることのない傷を抱えた街そのものを見つめ、安西は静かにそう告げた。排気ガスにまみれた風が吹きぬけ人いきれが充満し、星ひとつ見えぬ空。国家としての疲労を腹に落とし、人の希望と絶望で活気付くこの街も、夜ともなると希望さえ見えぬ絶望の闇ばかりが広がる死と混沌の街となる。ドラッグがはびこり風俗が蔓延する欲望の面を隠し持つ。
その風景を悲しげに眺め、安西は背中で手を組む。
「それよりも、あの子はまだお前に対して敬語なのか?」
「もちろん。ただでさえ十近く歳が離れてるんだ。それに加えて、あいつがおふくろに連れられて家を出たのが六。俺は中学だぞ。そんなに長い時間他人として暮らしていて、今更『兄妹にもどれ』なんて無理に決まってる。あいつは、俺にとっては確かに妹だ。けど、その定義は血の繋がりだけのもの。簡単に言ってしまえば、あの子は俺にとって、妹である前に他人で、一人の部下なんだ」
「だったら、何故そこまであの子のために駆け回る? お前はもとより他人との接触を嫌ってきた。それをあの子の為であったら、何故私のところにまで足を運び、時間を浪費する?」
背を向けた安西の足元から薄明かりに照らし出された長い影が伸びる。青白く照らし出された直幸の顔が一瞬思案するように歪められ、視線が泳ぐ。
「そうだな……もしかしたら、戻りたいのかもしれないな。一般的な兄妹とやらに……」
そのためにしてやれる最善のこと。それがただ彼女の前に立ちふさがる障害を出来る限り取り除くこと。彼女にふりかかる負担を少しでも軽減することだった。
開け放たれた扉の向こうから、小さな足音が徐々に近付いてくる。その主がすぐさま思い当たった直幸がくっと口元を笑みへと歪める。手にした長めのコートに手を通し、光の射す扉へと踵を返す。その気配を察したらしい安西が一瞬視線をよこしたが、すぐさま薄暗い窓の外へと戻す。扉の前で止まった足音と、逆光を受けつつ輝いた瞳を見つめ返し、直幸は「行くか」と呟く。
「お前の出番はもう少し後のようだ」
はは、と笑い返した須藤が「ま、そん時になったら頑張るさ」と返す。自然な動作で脇に避け道を譲った大柄な須藤の前をコートの裾を直しながら通る。急に押し入ってきた眩いばかりの光に辟易しながら、直幸は静かに靴音を響かせ向坂の行った道を辿った。
2006.8