花火もその存在にすぐさま気がついていた。その事態を完全に把握した途端、胸に過ぎったのはありえない程落ち着いた感情だった。
正直、面倒くさい。
ただそれだけの理由で、数多教え込まれた選択肢の中から一つの方法を掬い出し、プラスティック製の外箱へと手を突っ込む。小さなビンのような感触を手に感じ、勢いよくその引き抜くと、赤や青のコードが名残惜しそうに絡み付いてくる。不快な感触を思い出し、ちっと小さく舌打ちをした少女は、何物かを握った右手を引き抜くと同時に黒い物体を壁から引き剥がした。
勢いそのままに左手に握った物体を振り向きざまに投げ上げる。停留するパトカーの側で軽い音を立てた物体が、落下した衝撃でひしゃげた身を躍らせた。
やばい!このままだと、ガソリンに引火して誘爆する!反射的に駆け出した名畑の胸に、そんな不安が過ぎった。
その直後、薄っすら閃光を放ち、赤黒い炎を発生。内蔵された火薬を起爆させた。
しかし思わず目を瞑った名畑の耳に、その音は予想外に小さく届く。恐る恐る瞼を上げると、軽い爆発を起したかのように、焦げ付いた残骸の散乱する地面を放射状に焼いていた。立ちすくむ名畑の背後で、その光景を不思議そうに見つめる花火の姿があった。
「相変わらずお前は強引だな、花火。威力が小さいとはいえ、爆発させることもなかろうに」
音を聞きつけ駆けつけた矢萩が、呆れたように言う。「ちゃんと、後始末はしたか」と続いた言葉に、頷いた花火が握った右腕を差し出した。
「コイツは、ある程度熱に強い。しかしそれにも限界がある。殺さない程度に爆風に乗せ散らすためには、あれ程の火薬しか使えなかったということだ」
花火から渡された手のひら程のカプセルを、日に透かせながら矢萩が肩をすくめる。疑問を隠せない部下二人を前に、矢萩は視線を真っ直ぐに向け、二つのカプセルを目の前に掲げた。
「『ジークフリート』だ。日本に否応無しに変革をもたらす脅威の物質だよ」
屈折された光が、眩しいほどに内容物を煌めかせる。小瓶の中ほどまで詰められた純白の粒子が、矢萩の動きに合わせ微かに波打った。
ジークフリート。何も知らされぬ日本国民を流水のごとく静かに狙う化学兵器……。
背を走った悪寒に、向坂が顔を歪める。一見すると何の変哲もないこの微小の粒子に、幾多もの人間の自由と命が奪われてきた。そしてもしかすると、これからもっと人々の首を噛み千切るかも知れぬ脅威の存在。
突如目の前に示された恨みの根源にごくりと喉を鳴らすと、それに呼応したかのように突如、機械独特のメロディが流れ落ちた。
音の消えた空間に、ひときわ大きな存在を放つ曲。悲しげな宗教歌の響きが、唯一自由を許されたもののように絶え間なく鳴り響く。その場に居合わせた者たちが一瞬驚きで身を震わせ、その源流を辿る。いくつもの視線が集まったのは、この場にいる者の中で唯一異端と言えた少女の手元だった。
恐る恐るメロディの流れ出すポケットへと手を入れる。僅かに触れた硬い感触に、ぴくりと手が震えた。軽い音を立て、取り出された小さな箱。音楽に合わせ色とりどりの色を発するサブディスプレイを一瞥すると、花火は静かにケータイ電話を開く。メロディが消え、ぱちりと軽い音を響かせると、画面に浮かび上がった文字を見つけた。
『新着メール1件』
少女の傍らに立った矢萩が、その手からケータイ電話を受け取る。メールボックスから新たに届けられた一通のメールを開くと、苦々しげに眉を顰めた。
『送り主・秋口光範
件名・なし
本文・三日後午前十一時。
顔なじみを集め、パーティを開催す。
貴殿も来るといい。
詳細は後日、我が使者にて届けさせよう。
連れてきてもよい者は最大五人。
ただしその人数には我が示す者たちも含まれる。残りは自由にしてもよい。
では、楽しみにしている。 キララ』
闇に浮かんだ画面のディスプレイ。その明かりに照らされ、薄っすらと浮かび上がっている女性の整った顔が、背後に現れた気配を感じちらりとそちらへと視線を送る。身を包む黒い戦闘スーツから伸びる手が、女性の操作していた画面を僅かに掴み、気配が近寄る。女性の背後から画面を眺め見る気配を背に、複雑なプログラムの最後の一文字を入れ込み、起動させる。今まで以上の起動音を鳴らし、画面を暗転させたディスプレイを前に、女性は背後の人物が微かに笑みを浮かべるのを感じ取った。
「よくやった。これで、ケルベロスも奴らの手には落ちまい」
新たに組み込まれた自滅プログラムの配列を見ながら、彼がそう口にする。当然とばかりに鼻で笑った女性の目に、狂気の笑みを結んだ口元が留まった。
「もうすぐだ。もうすぐ、あいつを取り戻せる。国家の愚老どもの手から奪い返せる」
明かりを受けた瞳が、暗闇の中爛々と輝く。その瞳を見つめ、女性は再び彼が狂気の手に落ちるのを事前に察知した。
「それは、『組織』の意思? それとも、あなた『個人』の願いかしら」
囁かれた言葉に、嘲笑に似た笑みを零し、彼が口を開く。
「どちらもだよ。アレは私の作り出したもののなかでも最高傑作だ。矢萩孝介……ヤツに奪われる失態は犯したが、国家の下劣どもに虐げられ、苦渋を舐めるのも仕舞いだ。アレをこの手に取り戻したとき、ジークフリートの力によって新しく日本が産声を上げるぞ」
その時は頼んだぞ、と肩に置いた手に力を込めた彼に、女性は一瞬眉を顰めた。彼の指導力は彼女自身、前組織離散前から思い知っていたことだ。だからこそ、各地に散り散りになった仲間を、死に物狂いでかき集めたのだ。
「私は……役に立っているの?」
思わず口をついて出た言葉に、彼女自身驚く。それは、彼が絶対的な信頼と寵愛をよせる最新兵器に向けられた微かな嫉妬。一瞬目を見開いた彼が、奇妙に口元を歪めなおすと、「当たり前だ」と呟く。
「自信を持て。ケルベロスとコカトリスを造ったのは、お前だ」
まっすぐ見つめてくる視線を受け、女性が濃い青の色を浮かべる瞳を閉じた。虐げられ、邪険に扱われていた自分。そんな自分が、彼の役に立っている。その事実だけが、今の不安定な感情を保たせていた。
「キララ」
背を向け、闇に塗り固められた部屋を出ようとした彼に向け、彼女は言いなれない名をかける。振り向いた男のガラス玉のような目に映っているのは、何なのだろう?
「どうした」と口元を歪めた男の側を、何か得体の知れないものが這い回っているように見えた。
「私たちは間違ってないのよね……。国を、日本を再生させられるのよね」
不意に身を焼いた不安。その根源はアレに対する憎悪か、それとも人間に対する哀れみがそうさせたのか。情けをかける存在も射ないくせに、と内心吐き捨て、彼女は笑った。
絶対的な敗戦をきっかけに、日本は突如、自由と同時に責任を押し付けられることとなった。それも、自らの手で作り上げたものではなく、勝者であるアメリカからだ。その重みを知った当時の人間たちはよかったのだろう。今現在、当たり前のように手の内にあるものが、存在しない時代を知っているから。
しかし、彼らが『敗戦』に目を瞑り、口を閉じたせいでその重みは次世代へは続かなかった。いや、続いてはいたのだが、時代が悪かった。戦後の日本は、好景気に継ぐ好景気。二世代目にとって大切だったのは、目の前に掲げられた物品の数々だろう。世界的にも地位の低い現実。物資不足という状況が、頼るべき親を常に外に出し、日本という曖昧なものに自身の立ち直りを願った大人の現実となって、子供たちに襲い掛かった。
それでも、世はまだ技術も発展途上。物品は必要最低限で留められ、子供たちには人間としての交流があった。しかし、第三世代。戦争を知らぬ世代が大人になったとき、日本はそれまでの苦痛の中から世界有数の技術国となり、国自体が裕福になった。
そうしたらどうだ? 歯止めを知らぬものたちの狂気に飲み込まれ、見事にバブルは崩壊。彼らの地位を保証してくれた日本という国家は、一挙に転がり落ちた。こうなれば、国は助けてはくれない。それまで悠々と暮らしていた大人たちは休む暇もなく働き詰めになり、今までともに手を取っていたものさえ保身のため蹴落とすようになる。必然、子供は放っておかれることになるが、親たちはその分最先端の物品を買い与える。自分たちが欲しくとも手に出来なかったものを買い与え、その行為自体を愛情だと錯覚する。
当然子供たちは溢れる物の中で暮らし、小難しい人間との交流をさけるようになる。
見事な堕落ぶりだろう。戦後、認められた権利の殆どがいまだ未完成。人間は、急速に発展する麻薬のような何かの中に薬漬けにされ、安全神話の崩壊、人間らしさ、心が欠如した出来損ないが、数多社会に表れた。
彼は、この全てを一度、リセットしようというのだ。第二次世界大戦の再来。あれと同等の破壊と絶望をもって日本の目を覚まさせる。彼女が各国警察の目を欺いているうちに、準備は整った。全世界に存在する反日強硬派や国家と裏で手を結び、手に入れた武器兵器・戦闘力はすでに当初の二倍にまで膨れ上がり、いつでも日本国家を転覆させる破壊工作を開始できるまでになった。彼らが内部で国家にほんの少しでも風穴を開けられようものなら、外部から核や細菌兵器をのせた死のミサイルが一瞬にして日本を潰す。
ジークフリートは各組織との交渉手段であり、革命を導く未来の英雄だ。彼が始めたことの始まりは小さなものだったかもしれない。しかしその中で、日本という国家の暗部を見つめすぎた身には、ここまで事態を巨大にさせねばならなかったのだ。戦争の理由なんて元々ちっぽけだ。疑心や自らの尺度では測れぬものへの憎悪が増幅し、発展する。そこに小さくとも理由を付け加えてやればいいのだ。人々を説得できるだけの理由と憎悪を。
彼にはそれがあった。だからこそ、これだけ大掛かりな仕掛けをこしらえることも出来たし、同じ思いをもつものを見つけられたからこそ組織は肥大した。それだけ、国家に見捨てられている人間が居たということだ。
もしかして私は、彼のちっぽけなきっかけに嫉妬しているのか? アレが彼の手から消えたからこそ、取り戻すための技術者として私はここにいるのに?
絶え間なくこぼれ始めた不安をかき消すように目を伏せる。事はもうすぐ動き出す。それまで彼に付き従っていればいい。
一人の人間として。
「だからこそ協力が必要なんです!」
女は、目の前で渋く顔を歪め、身じろぎ一つしない男に向かって怒鳴った。
「キララはジークフリート以外にも科学兵器を持っている可能性がある。あの爆弾事件でジークフリートを使ってきた以上、かれらは今度こそ本気です。物品が必要なんです。上に協力するよう進言していただけないでしょうか」
警視庁に大急ぎで帰り、報告を済ませたのが一時前。会議から戻ってきた事件の担当責任者である宇崎を捕まえ、そう言ったのだ。
締め切られた扉の側では、ついてきた名畑が居心地悪そうに立っている。反応の悪い宇崎を前に、向坂が苦々しげに目を細めた。
「警視庁長官から警察庁に届けを出すよう言ってください。防衛庁と手を組め、と。あそこなら、化学兵器に対する武器、防具も多く存在する。それを借り受ければ……」
「それは無理だ」
突如口を開き、はっきりと言い切った宇崎がようやっと閉じていた目を開く。窪んだ目に浮かんだ強い意志の中に、どうしようもない絶望と諦めの色を覗かせた宇崎は、差し込んできた西日を背景に影で彩られている。
「各省庁は独立した機関でなければならない。いくら物品を借り受けるだけとしても、借りを作るわけにはいかんのだよ」
静かに紡ぐ宇崎の顔にも影がかかり、小さな眼光だけが爛々と輝いている。「しかし、状況が状況です!」と半ば叫んだ向坂が、目の前のビル群へと目を移した。
「ヨコイマ事件と同じ轍を踏む気ですか? あの事件も化学兵器が絡んでいた。それを知っていながら警察庁は、防衛庁へ協力を得なかった。防衛庁には、対する物品も多くあったのに、決して協力を得ようとしなかった!おかげで、どれだけ問題が大きくなり、鎮静化が伸びたと思っているんです。どれだけ被害が増えたと?」
新手の信仰宗教団体のテロ事件。人々が震え上がり、デマと真実が入り混じったあの事件の裏でも、今回と同じことが起こっていたのだ。
「ジークフリートはあの時の化学兵器より強力です。もし大量に吸い込んでしまえば、「NEO」によって一時間内には脳細胞と全身の骨が溶け、死に至る。この事実は警察内でも機密事項です。彼らがありったけのジークフリートを撒けば、少なくとも日本は……」
「かと言って、強硬手段に出るのもいい方法とは言えんぞ。もしその過程でジークフリートをばら撒かれると面倒だ。「TWD」の二の前になる」
ぎりっと噛み締めた歯が音を立てる。これが国家の限界か。付けられた足かせは思ったより大きいようだ。
「悪いがとにかく協力要請は出せない」
静かに言い切った宇崎のだみ声が、夕焼けの染め上げた室内に消えていく。藍に染まりだした空が、窓の外に広がり、得体の知れない闇を日本に落とし始める。この国は、いつからこんな闇を背負い込むようになったのだろうか。人の悲しみ、屈辱、憎悪……全てを飲み込んで大きくなってきたこの国に、これ以上の転化は望めない。
だったら……と苦渋に満ちた目を上げた向坂が、踵を返す。
だったら、やるしかない。この組織、この国家が動かないのであれば、私が動かしてやるまで。
背後で漏れる悲しみと哀れみ、絶望を混ぜ合わせたため息を聞きながら、「失礼します」と小さく言って廊下へ続く扉を開ける。傍らに立っていた名畑が慌てたようにその背を追う。ちゃちな扉が閉まったのを確認すると、向坂は折れない意思を込めた目を上げた。
「表に車を回して。……外務省にいくわよ」
2006,8