「まさか……こんなことが……」

 絶え間ない喧騒の中で、悲鳴に近い呻きが漏れた。遅れて現場に到着した一同は、許容量以上の光景を前に、ただ息を飲み込むしかなかった。

「一夜でここまで……?」

 目の前には、限りなく広がる廃墟。ボロボロに破壊されたそれらの残骸は、現場検証を行おうとする警察の前に立ちはだかり、それでも尚進もうとする彼らの姿は半ばロッククライミングのようだ。

 折られた木材。未だ燻り、パチッと爆ぜるとろ火。辺りは一面が濃厚な墨を溶かしたように真っ黒で、破壊の凄まじさだけが、どかっと腰を下ろしていた。その光景には、あの日、無理やり連れてこられた時の眩いばかりの佇まいは欠片も存在しない。どこかで炭と化した柱が折れたのだろう。辺りに空洞を打ち付けたような軽い音が響き渡った。

「……まるで、都市伝説の域ですね」

「目撃者は」無理と分かっていながら、問わずにはいられない。

「いません」と応じた第一陣の捜査員が、苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

「この時期は無人に近いでしょう」

「それでも破壊音がしたはずだ! 何で目撃者が一人もいない!」

 思わず怒鳴った狐塚に、身を縮めた警官が一本の柱を指し示す。

「造りが違うんです! 初めから、何か特殊な技術を持って建てたとしか思えない!」

なにより、背後の鬱蒼と茂る木々がさざめいては、辺りの音を吸い取ってしまうだろう。

「従業員は」

「皆無です。今のところ、死体は発見されていませんが、おそらく破壊工作後、逃走をはかったのではと……」

「ちくしょう!」喚いた狐塚が、近くの塀を殴る。竹で組まれた塀は僅かに軋み、悲鳴を上げた。

「グルだったということですかね……」熊が重々しく呟いた。

「手のものが捕まったと分かったから、すぐに逃げたのでしょう。自らに危害が及ばぬように」

「では……」

 熊の巨体を見上げると、「ああ」と返事が返ってくる。

「探すしか無かろう。あの、宿谷聖とかいうヤツを」

 思わずぎょっと目を瞠った係長が、「まだ確証はないんでしょう。もし関係がないとすれば、責任問題ですよ!」と声を荒げる。しかしその悲痛な叫びもぎょろりと睨んだ熊の瞳に遮られ、言葉が続かない。

「関係はなくとも、関係者若しくはそれに繋がる尻尾はつかめます。とりあえず今は事件の当事者としてではなく、料亭放火事件の『行方不明者』として公表します。事件性を疑うと匂わせておけば、外部の食いつきもいいでしょう。同時に実際に働いていた何名かの情報も募れば、自然に情報は集まってくる」

 相変わらず渋面を崩さない係長に、熊は構わず踵を返した。また暫く実のない聞き込みに回されるはずだ。もしくは、本部が立てば電話番か。所詮、所轄はそんな位置にしかない。

手を添えた肩をぐるりと回すと、ため息交じりに熊の猫背が遠ざかっていった。

 

その一報は、すぐさま情報機関に伝えられた。昼のニュースに合わせて調整された事件のフリップを捲りながら、化粧の濃い女性アナウンサーが原稿を読み上げている。

半日が過ぎ、幾度と無く放送された捜査本部の番号が表示され、鳴り止まないベルの音に急かされた真一は、憂鬱そうにテレビのスイッチを切った。大量の電話に応じる警察官の声が渦となり、室内に澱んではぴりぴりとした空気を生み出している。隣で電話応対を行っていた狐塚が、「はぁ?」と受話器に怒鳴るのが視界に入り、呆れたように見つめる。

「だったら違います! 悪戯ならかけてこないでくださいっ!」

 精一杯叩きつけるように受話器を置き、つめていた息を吐いた狐塚が、若干血走った目を閉じた。

「また、嫌がらせか」

「ああ、みんな暇人ばっかだ。あんなのが守るべき市民だと思うと、思わず鬱々となるよ」

 半日近くで集まった情報は、不明者として発表した従業員のほぼ半数。しかし、その多くがすでに死亡、若しくは存在しない名であることが分かった。幾つかは生存情報も入っているが、死亡が表面化していないだけかもしれない。

 足のつきにくい方法を熟知したプロを相手取った、大量失踪事件だ。

受話器を置くたび息を吐く間もなくベルが怒鳴る電話の前に座り続けることは、精神的苦痛以上の何物でもない。相手の話など上の空、考えることはただ一つ。また、“現在の本人”に繋がりそうにないなあ、ということだけだ。

 思わず苦笑を返したとき、真一の手元の電話が盛大に鳴る。その時、一人の女性が背の曲がった老婆を伴って、女性警官に案内されてきた。

仮設の捜査本部を覗いた婦警が、間宮の手が空いていることを見計らい、手招く。一瞬嫌な予感が過ぎったが、「はい」と気の無い声を出し、席を立った。

「料亭の事件の情報って、ここでいいんでしょうか」婦警の背後に立った女が顔を覗かせる。「もちろんです」と応じると、デスクの奥へと押しやっていたペンとメモ帳を引っ張り寄せた。

「過去の話でもいいんですよね」

「ええ、今は身元を調べている段階のものもありますから。どなたの情報ですか?」

 相変わらずふて腐れている狐塚に、お茶を申し付けると、部屋の隅に設えたソファーへと誘導する。無意味なほど柔らかいソファーに腰を下ろすと、女性は落ち着かないように視線をさ迷わせ、ゆっくりと口を開いた。

「えっと……私、田中あゆみと申します。実は私ではなくて祖母なんですが、ニュースを見てたら、ある人の名前のところで急に『これはわたしの甥っ子だ』なんて言い出して……」

「どなたがですか?」

「宿谷聖さんです」

 思わず、頬の筋肉がピクリと緊張する。しかし、相手の方はその動きにも気づかなかったようで、同じくちょこんと腰を下ろした老婆へと話しかけている。

「ね、おばあちゃん、警察の人だよ。あの話、話してあげてくれる?」

 顔の殆どがしわで埋まり、柔和な表情を崩さない老婆が、「えぇ?」と声を出す。

「聖さん。おばあちゃん、前言ってたよね。私の親戚にも、宿谷聖っていうのがいるって。あのお話してあげてよ」

 身振り手振りも交え、老婆に語りかけた女性に、老婆が「あぁあ」と納得した。

「聖ちゃんは、バァの甥っ子だぁ。バァには、七人の兄弟がいてなあ。上から初音、三言、健三、三郎……」

「おばあちゃん!」と声を荒げた孫に糸のような目を向け、老婆ははっと思い出したかのように頷いた。

「その兄弟の末っ子が、マユ、言うてなあ。皆より年のはなれとったから、誰よりも可愛がられたんよ。それがある日、マユを一番可愛がっていたバァの父さんが、なあんでかマユを勘当してしもうてなぁ。バァはもう嫁に行っとって理由は知らんが、とにかくマユは一族の前から消えてしもうた。それから何年たったんかね? 一通の郵便がきたんよ。満州からじゃった。マユは『元気じゃ』いうて、一枚の写真を入れてきとったんじゃ。その時、始めてあの幼かったマユに子供がいるんがわかったんよ。その子の名前が『聖』じゃった」

 そう言うと、いそいそと手提げから一枚の古ぼけた写真を取り出す。そこには、和服姿の美しい女と、その傍らに立つ少年の姿がセピア色に焼き付けられていた。

「こっちがマぁユ。そっちのが息子のヒジリちゃん」

 ただでさえ細い目をうっとりと細め、老婆が節だらけの指で指し示す。指の先には、母親に似て美しい顔立ちをした少年の姿が映っていた。肌は白く、背も高い。十ニ、三といったところだろう。鼻梁はすっと通っていて、男の真一ですら見とれる美しさを備えていた。

しかし、この違和感はなんだ。明媚な容姿を有していながら、写真の中の彼は決して笑ってはいない。切れ長の目には、笑みが無いのだ。触ると火傷しそうなほど、冷ややかな光が宿っている。

――この年で、ここまで冷めるものだろうか……。

 目の前の少年は、むしろ生きることすべてに絶望しているような目をしている。ぞくりと脊髄を悪寒が走った。違和感の正体に気づいてしまうと、恐怖が倍加していた。

「それから、聖さんの消息は……」消え入るように呟くと、老婆が「さあのう」とため息を吐いた。

「マユが手紙をくれたのも、これ一度きりじゃ。聖ちゃんどころかマユの行方さえ、だあれも知らん」

 思わず全身から力が抜けた。ふうとため息一つ、表情を切り替えて見せた真一は、笑顔と共に「ありがとうございました」と手にした写真を差し出した。

 持ってきた茶を出した狐塚に、「満州だ」と耳打ちをする。「旧満州の戸籍、探してくれないか」

 笑顔を崩し軽く頷いた狐塚が、遠く駆けていくのを見つめ、重要な情報を提供してくれた対象者への対応に戻っていった。

 

「えぇっ! ない?」叫びに近い驚きだ。

「もう一回探してみてくださいよ、必ずあるはずなんですから……」

 思わず食い下がった狐塚に、手元に散った書類をかき集めていた役所の職員が苛立たしげに頭を掻く。異様に飛び出した目をくるりと瞬かせ、同じ公務員であるはずの男は、忌々しげに目を細めた。

「だから、ここにはありませんでした。もしかしたら、他のところにあるかもしれませんから、そっちの方に……」

「それはさっきも聞きました! 何で我々が直々にお役所周りをせにゃならんのです。これじゃあ、まるでたらいまわしだ。そっちで連絡を取ってもらっても……」

「そう言われましてもねえ……こっちも忙しいんですよ。そこまで言うなら、電話してみますが……急ぎじゃないんでしょ?」

 窺うように見下ろしてきた男に、狐塚の苛立ちが募る。隣に腰を下ろす真一に小突かれ、思わず上げかけた腰をソファーに沈めなおしたが、それでもなお胸中のモヤモヤは晴れることが無い。

おそらく入って日の浅いと思われる男は、あからさまなため息一つ、「なんだかなぁ」とぼやき席を立った。

「誰か、満州の戸籍ってどこにあるか知りませんか? 宿谷聖って名前なんですけど……」

 背後を振り返り、忙しそうに立ち働く先輩同僚に向かって声を上げる。男の注意が逸れた隙に、狐塚は座ってもなお高い身を小さく縮め、真一へと耳打ちした。

「なぁ、あいつ、たぶん警察を舐めてるぜ」

「俺たちはその中でも所轄勤務だからね。難関の公務員試験をパスしたってことは、一般警察官試験の難易度も知ってるんだろ」

「自分は国家公務員……ってか! 悪かったな、どぅおうせ俺たちは地方公務員の中でも下っ端ですよーだ。でも、俺たちは高卒で入って働いてきたんだぞ。あんな大卒ボンボンなんかより、よっぽど汚い仕事の経験もこなしてる」

「そこも、対象のひとつなんだよ。結局、今の社会は学歴社会だから」

 言ってから、喉の奥に違和感が残った。ただでさえ朝鮮半島の血を引く在日を蔑視しておきながら、同じ日本人の中でもランク付け、妙な優越感に浸っている。本当に、人間って空しい。

「でも、前対応してくれたヤツはそんなこと無かったぞ」

「やっぱり、そこは育ってきた環境と、その人の人間性なんだよ。簡単に言えば……」

 手にした麦茶入りのコップをテーブルへと置き、口元に手を添えた。狐塚にしか見えない角度で、同僚と何事か交わしている男を指差す。

「あの人は、自分より下って位を作って、それを嘲ることでしか優越感を得られない、かわいそうな人ってこと。さらにプラスして、あれと俺たちとは、もう二度と会うことがない。それでもこの世界にいることには変わりないんだから、後で出会うだろう人には手を合わせるしかないけど、今さえ我慢すれば、二度と接点は持たなくてもいいんだ。そう思うと、案外何でも諦められる」

 二十年以上蔑まれてきた人生の中で得た、唯一の悲しい社会適応の方法だ。本来なら、どうしても長く付き合わねばならない人間も出てくるのだが、生まれながらの日本人である狐塚には関係があるまい。他意無く「そうかあ」と感心しきっている。

 同僚との会話の中で、いかにも面倒くさそうな渋面を浮かべていた男が、手にしたつづりを億劫に捲っていた。その時、デスクが整然と並べられた一角、書類の山が堆く積まれた場所で、受話器を手にした男が声を上げた。「鷲見(すみ)じいさんはどうなんだ?」

 思わず首をかしげた二人の前で、その声に向かって顔を上げた男が、ああっと手を叩いた。

「鷲見じいさんなら知っているかもしれません。あの人、満州からの引き上げで帰ってきたけど、昔は満州で日本人の戸籍管理を一挙にこなしてたらしいから」

 振り返った男が、抱えた書類を膝に乗せ抱えなおしながら、中から一冊のメモ帳を抜き出した。

「そうだ、きっと知ってる。今は引退して、すっかり引きこもっちゃったから、行ってみてくれませんか? あそこ、電話も通ってないんですよ」

 最後の辺りは、不満げな愚痴だ。聞きたくも無いです、と内心はき捨て、すでにこの男の存在自体が嫌悪の対象になっていることに気づく。どかっとソファーに座りなおし、手にした万年筆で住所を書きつけた男が、紙片を引きちぎると無雑作に渡してきた。この男から施しを受けるようで胸の奥底がむかついたが、あえて口には出さず受け取っていた。それだけの分別はある、俺は大人だ。