その夜。電話が鳴った。

 機械を使って声を変えているのか、電話を取った者の背を嫌悪感が走った。

「爆弾を仕掛けた」

「は……? 何ですか、もう一度言ってください」

 電話を引き伸ばそうと試みたオペレーターに反し、電話口から捲くし立てるような口調で何かの羅列が吐き出される。それが住所であることに気づき、彼は手元にあった紙片に平仮名の羅列を書き取っていった。

 要求もない、主張も言わない。唯、予告だけ。

 忙しなくペンを走らせながら、彼は思った。そんな爆発物事件がありえるだろうか?

 上の判断は、単純明快。単なる悪戯だろう、ということだった。

 ただでさえ今日は一年に一度、盛大な花火大会。酔った客が嫌がらせにかけてきたのではないか。

半ば信じていなくとも、市民から雇われ安全を守る義務を負った公務員の手前、警察は重い腰を上げた。

丁度書類の整理に追われ、デスクワークの友と化している硬い椅子と共に夜を明かそうとしていた真一達が借り出された。本当なら、交番や派出所のおまわりさん――ノンキャリアの駆け出し警察官の場合が多い――とやらに任せるのが筋だろう。しかしその日、大規模な花火大会の交通整理に加え、増員をかけていた派出所や交番も溢れんばかりの雑務によって、所轄勤務の彼らが借り出されることになったのだ。

眠たい目を擦り、無理な寝相のためか節々が悲鳴を上げる身を引きずって、示された住所に行ってみると、その場所はなんと航空管制局の敷地だった。大きく真新しい概観に、現場に着いた誰もが幻滅した。人通りどころか、警備の人間たちさえ数えるほどしかいない建物には、人の気配どころか明かりすらもついてはいない。

「こんな日に爆発物仕掛けるなっての」狐塚の呻きが、泥のように足元を重くする。

 百パーセントガセ。そうじゃなけりゃ、悪質な嫌がらせ。後者だったら嫌だな、と真一は、どんよりと重い気持がさらに重くなるのを感じた。

本当ならここで引き返すところだったが、それでももし、万が一にでも何か起こっていたのなら、現場にまで行っておいてと責任問題になりかねない。

格好だけでもつけねばならなかった。

欠伸を噛み殺し、巨人がボロ勝ちをする録画の野球中継を眺めていた警備員をたたき起こして、取りあえずの格好だけ、建物内を検分させてもらうことにした。

 

暗い。だが、闇に慣れさせた目には、こんなもの暗闇のうちに入りはしない。聳え立つおびただしい数の陰に紛れ、辛うじて確保された人一人分の隙間に、それは身を埋めていた。まるでそこにいるのが自然なことのように、悠然と腰かけ、微かな月光に手にした書類を掲げていた。

 正直面倒くさい。何に使うのかは知らないが、こんなもの、何の役に立つのやら。

 それはふぅと小さくため息をつき、立ち並ぶ機械の群生を見つめた。薄墨で描かれたかのようなその立ち姿は、圧巻というよりは哀愁に近い。まるで、質素と諦めを美とする悟りの境地のようだ。

――分かっているのか。おまえたちも、日が昇ったら酷使されるくせに。

 思わず法度とされる『無意味』という感情に押し込まれようとしたとき、手にした一枚の紙が蝶のように舞い落ちた。不意にあの言葉が蘇る。

そうだ。我々は皆、必要な『駒』の一つでしかないのだ。

だったら? 考えるのを放棄せよ。そう教え込まれてきたじゃないか。理屈などいらない。可能か不可能かなど考える必要はない。必要なのは、文字通り『武人のように潔癖で、犬のように従順な心』。それが、この身に求められているもの。一時的に身を隠すため、被らねばならない隠れ蓑。

 見上げると、大きな月がまるでそこだけ切り取ったように、夜闇を切り裂いていた。あまりに明るすぎて、晴れているというのに星が一つも見えない。

かわいそうに。そんな思いが胸を過ぎった。雲ひとつ無い空。でも、僕らは光ることを許されない。この世に存在してはならない。

 這うように機械の間から出ると、今まで眩いばかりに届いていた月光も、かすんで届かなくなってしまう。

暗い。早く帰らなければ。僕は、完全な闇の中では生きられないんだ。

 ヒカリガイル。ウツクシイ、ヒカリガ。

 手元に散った重要書類を気だるげにかき集め、それは呟いた。

「暗いよ、この国は」

 明るささえ失った狂気。それがこの国の姿だ。

 この国には、存在しない。炎のようにか弱き命を惑わし、弄び、絶対的な力を持った光が。

 月光のように誰もを受け入れるようにみせ、しかし絶対的に他者に冷たい光が。

 早く帰ろう。そう冷えた心に思った。

 その時だ。

 視界の一部が急に光を発し、怒声を上げたのだ。

「動くなっ!」

 若い男の声! 反射的に飛び出すように駆け出したそれの体に、突如衝撃が加わる。相手は複数だったらしい。一瞬、全力でぶつかられたように前方に向かった力が、バランスを崩した隙に足音が増える。

 しまった! ヤラレタ!

咄嗟に身を庇おうと手を動かすも、気づいたときには、何者か腕が後ろ手にがっちりと拘束して放さない。叩きつけられるようにコンクリート剥き出しの床に落下し、思わず息が詰まる。喉が焼かれたように熱くなった。頬も一部すりむいたらしく、刺すような痛みが走っている。

――このヤロウ……ぶっ殺してやろうか……っ!

 湧き上がった憎しみが肺に宿り、かっと目を見開く。

――キライダキライダキライダキライダキライダキライダ、大っ嫌いだ!

『殺してやる……っ!』

 自分が息をしているのかすら分からない。なにせ肺は、圧し掛かってくる重みに圧迫された上、憎しみで溺れていたのだ。

――うるせぇ、死ね、死んじまえ!

 吐き出した息は熱く、きっと喉を焼いただろう。勢いのまま腕を動かし、拘束する何者かの腕を振り払おうとするも、時既に遅し。どんなに鍛えられ、人間を打ち負かすテクニックを身に着けた体であっても、この埋めようの無い差は覆せなかった。

 

――細い……?

 男は、手のうちにある感覚に驚き、目を瞠った。まるで細い。しかし筋肉はついているらしく、取り押さえた人間が逃れようともがくたび、ぎりと盛り上がっては彼は慌てて手を押さえなおす。地に伏した人間の背に片膝をつき体重をかけると、動きを阻害されたそれが憎らしげに呻く。

「間宮!」

「大丈夫です、身柄確保してますっ!」

 慣れない闇の中。共鳴する熊の声が、広い室内に共鳴し、何処から発せられているのかすら分からない。扉の辺りから「明かりつけるぞ!」と狐塚の声が届く。

ほぼ同時、一瞬の巡礼のあと、この間取り替えたばかりだという蛍光灯が光を発し、辺りを眩いばかりに照らし出す。闇に慣れていたのだろう、身の下の人物がはっと息を呑み、目を振り払った片手で覆う気配がした。

「あ……っ」

 目の前、突如として広がった光景に、思わず息を呑んだ。

背後で電気のスイッチに指を乗せた狐塚も、言葉を詰まらせている。恐らく熊も、どこかに隠れているであろう子ネズミも、思わず言葉を失っていたのだろう。誰も何も言えず、ただ息が止まる静かな静寂が、本来の姿を取り戻した室内に落ち込んでいた。

「あんた……」

 真一が呻くように呟く。目元を遮っていた手を、ほんの少しだけ動かしたそれの眼球が、覗き込むように爛々と輝く。その口元は、むしろ皮肉を込めた苦笑を浮かべていた。

「千聖さん……」

 細身な女は、ふっと笑みを零すと、自嘲的な笑い声を轟かせ始めた。どうするべきかと背後を仰ぎ見たとき、「ターゲットは北の工作員じゃなかったのか!」と問う熊の声がした。

「バッカじゃねえの」

 女が、さも可笑しげに言った。辛うじて体勢を整え、拘束する真一を挑戦的に見上げながら、もう抵抗する気もないのか満足げに笑う。

「あーあ、ついに捕まっちゃったかァ。そうだよ。僕が、北朝鮮民主主義人民共和国、朝鮮労働党対日諜報員、ノ・テウォンだよ。君はよかったね、これで実績の箔がつくわけだ。日本政府の犬……公僕さん」

 さあ、僕をどうするの? と千聖は、燃えるような闘志を宿した目で一同をゆるりと眺めた。