「北?」

 耳慣れた単語ですら思わず聞き返してしまった真一に、憮然と熊が頷く。

「北だ。なにやらあっちから、動きがあったらしい」

 真剣そのものな目を見つめ、真一が反芻すると、横から入ってきた狐塚が含みを込めた笑みを向けてくる。その表情はむしろ、何が起こるのかといった好奇に近い。

「外事がてんやわんやだぜ。何だかわかんねえけど、北のお偉いさんがこっちに来てるらしい。ま、アメリカ配下の日本にくるとは、よっぽどの豪胆と見て間違いはないがな」

 この時代になると、赤を基調とする社会主義陣営と、それに対抗する民主主義陣営の対立も克明になってきた。日々、アメリカと共同で西の大国ソヴィエトと中国を見張らねばならないご時勢で、民主主義の体を掲げながら社会主義陣営の一端を担う北が、アメリカの息のかかった日本に出向くこと自体不思議としか言いようが無かった。

「まさか」と呟き、手にした昼食代わりの菓子パンを頬張る。甘ったるい香りが口いっぱいに広がり、不快感を深めた真一の横で、コーヒー牛乳を啜った狐塚が肩をすくめて見せた。

「何する気かは知らねえけど、とりあえず日本はアメリカではない第三国って体を取ってるわけだ。だから、断れもしねえんだよ。『お父さんに怒られるから、あなたとは遊びませーん』って、どう考えても餓鬼の理屈だからな」

 排気ガスに塗れ澱んだ風が、ボタンの拘束を解いた真一のスーツを弄ぶ。廃ビルの屋上。奥に広がる高層ビル群と青空を背景に、しかめっ面を決め込んだ熊が、相変わらずぼさぼさの髪をガシガシとかき回していた。

 真一の手から菓子パンをもぎ取り、狐塚が遠慮無しに頬張る。普段なら怒鳴り散らしてやるところだが、しかし口内に澱む甘ったるい味を味わわなくても良くなった、と思うと仕方なく見過ごしてやることにした。

うちっぱなしのコンクリート色のみが広がるこの廃ビルは、先のオイルショックで打撃を受けた会社が入っていた。今、人の足も耐えて久しく、こうして時間を持て余した人間が時たま足を踏み入れるだけである。人目を気にしなくていいこともあり、忙しく立ち働く彼らにとって、すっかり昼の情報交換の場と化していた。

 今日も今日とて、実の無い報告ばかりを口にした後は、総勢四人の男が雁首そろえても、やることといえば高が知れている。ただただ署内の噂話や現在の政情の話に尽きていた。一足先に食事を終えた加賀は、一人遠く離れ、都会という巨大な迷宮に迷い込んだトンボを何とか捕まえようと苦心していた。

「加賀! あんまり危ない場所には行くなよ!」

 怒鳴った熊の声に、「はあぁい」と頼りなげな返事がかえってくる。

一瞬呆れたように顔を歪めた熊が、「俺はガキのお守りか……」と呻いた。

「とりあえず、緊迫してるのは確かだな。まあ、戦争ぼっぱじめるわけじゃないだろうが、なによりアメ公は血の気が多くて堪らん」

 唯一大戦時代を生き抜いた熊は、頭を抱えるように二重にため息を吐いた。

「どういう目的でしょう?」

「さあなあ。お偉いさんの頭ン中が分からんのは、今に始まったこっちゃねえ」

「訳が分からないのは、お上だけじゃないでしょ。よく言ってたじゃないですか」

「酔っ払ったときね」

「べろンべろンになってな」

 首をかしげる熊。ややあって、唯でさえ丸い目を見開いて手を打ち鳴らした。

「放射性廃棄物紛失事件のことか」

 真一と狐塚がイエスの意味を込めて苦笑を浮かべる。その単語は、酒の席で幾度も語られたものだった。

 まだ原子力発電が商業稼動を開始する以前のこと。昭和三十八年、動力試験炉が国家単位で発電に成功。続く実験で奇妙な事態が発生したのだ。発電で作り出された“放射性物質”が紛失した、との通報がもたらされたのだ。その中に、若かりし熊こと桂木がいたのだ。

血の気が引いた。未だ戦乱の傷を引きずっている、世界唯一の被爆国でのことだ。原子力の恐ろしさを過大評価こそすれ、無関心を装えるほどの精神を持ち合わせてはいない。

 だが、それがどうにも奇妙だったのだ。

「担当は、『足りない気がする』としか言わなかったんだよなァ。しかも、公式書類では合っているんだよ。確かに量に間違いがないんだ。減ってもいなければ、増えてもいない。ましてや、担当が付きっ切りだったというのに、なくなるはずないだろう」

 担当だったうちのひとりは「足りない」と言い、もうひとりは「確かに合っている」という。公文書では数値の変動はない。

 しかもその証言自体に、「かもしれない」という不確定要素が付属するのだ。

反対に、事件のバックグラウンドは、確証をもってその証言を否定している。

「結局、一応探し回ってなーんも見つからなんだ。ただの気のせい、徒労、ってこったなあ」

 そっと忍び寄っては逃げられていた加賀が、ようやくその手に一匹のトンボを捕まえる。その時、不意に強い風が吹きぬけ、トンボを手放した加賀が、ビルに切り取られた大空へと視線を上げた。

「どうした?」

 背後遠く、共産主義を謳う宣伝カーの声が響いてくる。真っ白な雲一点に目を留め、加賀はピクリとも動かなかった。

思わず聞き返そうとした真一へ、気の抜ける笑みを向けた加賀が、「早くお仕事、終わるといいなぁ」と間延びした声を出した。

「お前なあ、それはとりあえず情報まとめて提出してから言えよ。どうせそのかばんの中、また間違って入れてきてんだろ」

 狐塚から問われ、子ネズミは肩からかけたショルダーバックへと手を伸ばす。「うへへ」と照れたような笑いは、まるで悪気が無いようだ。

調子に乗った狐塚が小柄な背に手招きをすると、不思議そうに駆け寄ってくる。危なっかしい足取りは、やはり小動物か幼い子供のようだ。

「巡査部長ォ、こいつ連れてくと聞き込みもはかどるって、前俺に言いましたよね」

目の前に立った小動物をぐいと押し出し、言う。訝しげに眉根を寄せた熊も、「ああ」と観察の目を注いでいた。

「確かに、確かに巡査部長の目測は合ってましたよ。確かにコイツ、女性に話し聞くときには便利です。あっちもさすがにこんなの出されたら、警戒心も薄らぐんでしょう。でも。でもですよ?」

 下手な役者のようにオーバーに手を振りかざした狐塚が、一瞬の早業で加賀の鞄に手を突っ込む。掲げて見せたのは、あのひらがなだらけの学習帳だった。

「さすがにこれは無いでしょ! そりゃ警察手帳なんて小さくて文字も書きづらいし、書き付けるものも必要でしょう。それにしても、さすがにこれは無いんじゃないでしょうか。しかも、結構な頻度で『間違えて持ってくる』と言うのだからたちが悪い! おかげで何回聞き込み対象者に鼻で笑われ、『大丈夫、僕?』とこっちまで聞かれたことか!」

 熊の窪んだ目が見る間に丸くなる。旧友の苦悩とベタな演説から、真一は思わずぐっと吹き出しかけていた。

我関せずな加賀は、背後に立つ長身を半ば倒れこむように見上げながら「いいじゃないですかぁ、字はかけるんだからぁ」と相変わらずな口ぶりだ。

 呆れるというより完全に悩みこんでしまった熊が、程よく涼をもたらす風の中、億劫そうに頭を抱えていた。