『で? そっちはどうだ』

ノイズ交じりの声は、いかに己のものだと思おうとしても、まるで他人の響きを帯びてしまう。

『いいわけないだろう、馬ァ鹿。ミグがいなくなった途端、党の対外情報調査部の中でも下っ端もいいとこだ。ま、いろいろと工作したから一応の立場と、部下くらいはいるがな。今は麻薬の製造工場監視局の一つと、日本を相手に武器の密輸なんて、ちまちました仕事を適当にこなしてるよ。工場の方は、地方の部下に任せてりゃいいし、気楽と言えば気楽だな。結局の所、あっちも優秀な監視役のいなくなった化け物が手に負えないんじゃねえの? なんてったって、俺の存在自体が国家単位の利益であって、それでいて最大の地雷だからな』

その監視役自体が逃げちまったんだから、と続いた耳慣れた声に、自分で言うか、と苦笑を噛み殺した。

一九七四年、某月。

わたしがねぐらとしているただ広い地下室には、電気さえ灯されず、今はただ薄暗い闇の中にぼんやりと旧式の無線機が浮かび上がるだけである。雑音の多い音の奥で、彼はまるで愉快そうに笑っていた。

『そういえば、こっちどころか本国でもミグの噂は聞かんな。まあ、裏では血眼になって探しているようだが』

大通りに近いのだろう。ノイズの奥では、けたたましい都電のベルの音と、微かに反原発運動の声が聞こえてくる。学生闘争と取って代わるように現れた女性解放運動を謳う拡声器の音が、頭上の鉄筋製のビルを通して共鳴してくる。

耳障りなその音に眉根を寄せると、無線の奥から響く笑い声が、ふと大きくなった。

どの世も同じと言うことだ。どんなに道を分かったとはいえ、彼とわたしの世界は、今でも尚、確実に繋がっている。

嘲笑の篭ったくすくすという小気味良い笑いを聞き分け、『馬鹿が』と返した。

『こっちは、嫌と言うほど君の噂を聞くぞ。相当面倒な立場にいるようだな』

『へえ、それは身内の噂か?』

『当たり前だ。日本の懐刀は、今のところお前の存在どころか、通ずる尻尾すらも掴みきれていない』

手元を照らす蝋燭の明かりが、淡い光の襞を揺らめかせる。もちろん電灯も、つけようと思えばつく。地下だから、怪しまれる心配も無い。しかし、今日は気分ではなかった。

わたしは、幼い頃から炎が好きだ。人類が始めて手にした利器。それでいながら、ほんの少しの油断で、いかようにも命あるものを食い殺す獰猛な生き物。それが、今目の前で弱弱しく爆ぜる色の波に対する、わたしの揺らがない印象だ。幼い頃から安息を得ることが困難だったわたしは、社会を便利にすれども、使い方しだいで何より簡単に命を奪う炎というものの非情さが好きだった。

少しばかり興味をそそられたらしい彼が、身を乗り出す気配が機械越しに伝わってきた。『何と?』

話が戻ったらしい。話題が前後するどころか、時には主語すら抜けてしまうのは昔からの癖だ。長くは無くとも一時的に背を預けていた男だ、それくらい分かる。おそらく彼が興味を持ったのは、自分に対する影口の類なのだろう。

手元に広げられた書類の一つに目を落とし、すっかり書きなれてしまった偽名の形にペンを走らせながら、苦笑するように鼻で笑ってやった。

『傲慢で高飛車な、自己愛が強い亡命テロリスト』

『はは! 実力が伴わないくせに、自尊心が馬鹿に高い愚鈍どもの言いそうなこった。そういう奴ほど、あの世には持っていけない血統で話を付けたがる』

淡い光の中、滞留した空気を取り付けられた空調機が絶えずかき回している。ゆっくりと律動を繰り返す饐えた空気を思い切り吸い込んで、『笑い話に出来るのが、君のいい所だよ』とため息混じりに吐き出した。

『よく考えてみると、さんざん君を貶したわたしも、いまや同じ亡命テロリストだ。理由やターゲットは違えどな』

『はっ、皮肉蹴散らしてただけだろ。貶したって程でもないさ。もっと口汚い奴は五万といる。それよりも俺としては、そんな薄汚い穴蔵に潜み続けているお前の意図が分からんね。まあ、行動しようにも出来ないんだろうけどな』

『……わたしには君のような思い切りも実行力もないんだよ。大切なものを、あっちに忘れてきたままだしな……取り返すまでは、にっちもさっちも。それよりむしろ、秘匿回線を使うことも無く、一般の回線でコンタクトをとってきた君のほうが理解に苦しむ。大体、喜んで自らの身を危険に晒す行為をしようとすら思わないな』

驚いたように息を呑む気配が伝わり、突如として別の言語が耳に届く。

「害が及ぶか、不安か?」

ここ数年で聞きなれた言語は、一瞬で意味を理解する。第二の言語となったその響きが、自ら望まずとも留まらねばならない世界の端、ニッポンのものであると感じる以前に、反射的に「別に」と返していた。

「お前のことだ。結局最後には逃げ切ってみせるんだろう」

くつくつと笑う声が耳に届く。「よく分かっている」と続いた彼の言葉が、トーンを落とした。身じろぎの音。ソファーか何かに寝転がっていたのだろう。おそらく今、体勢を整えたはずだ。なぜなら、彼は状況が自分に好ましいときには足を組みたがる。些細な彼の動作も、目に浮かぶように感じ取れた。

「ゲームは追いかけてくる対戦相手が必要だろう? そっちのほうが面白くなるのなら、喜んでヒントぐらいくれてやるさ」

実力に裏づけされた自信だ。彼は、それに見合う実力を有している。

「そう言えば、知っているか? あるニッポンジン大学教授だが、どうやら馬鹿でかい無謀な計画を立てたらしいぞ。聞いて驚け。南極大陸と南アメリカ大陸を氷山でつなげて、海流を止めちまおうと本気で考えているらしい。しかもその理由が、人間に便利なように環境自体を変えちまおうという、愚か極まりない論法の結果だと!」

思わず、走らせていたペンがぴたりと止まる。その言葉が脳に浸透する間、目に映る揺れる炎の灯と、呼応したようにどくどくと脈打つ頭痛の種がわたしの肉体の全てだ。炎の毒気に当てられたかと、僅かに顔を顰め、「馬鹿な」とはき捨てた。

「だろう! 馬鹿馬鹿しいにも程がある。自然を便利なものに作り変えるなんて、何百年後になるんだろうな。他にもあるぞ。気象庁気象研究所では、台風コントロール、雪・雹・雷撃退、霧封じ込めだとよ! しかも、こいつについては実際に研究班を作って台風の目に化学薬品入れてみたり、海面に油まいて水蒸気を押さえることで、根本を絶とうと本気で考えているらしい。まあ、先の大戦でも、アメリカが敵の士気を低下させる狙いで、マウント富士にペンキ塗りたくろうとしたってんだから、考えられないことではないわな。あのアメ公でさえそうなんだ。大国の権力に、世間を知らない赤子さながら盲従する日本が、同じ穴にはまるのも納得できる」

「下手すると、本国も対抗心を燃やしそうなテーマだな。で、結果は?」

「うまくいったと思うのか?」

愚問だろう。暗に語ったノイズを体内に共鳴させ、ちらつく炎を見るともなしに眺める。ぱちりとはぜた火花が、時の流動を物語っている。

「科学とは、過信するものではないよなあ」

返ってきた満足の笑いに顔を顰めると、その笑いさえ嘲るような響きを帯びてくる。

結局は、そういうことなのだ。限界に触れなくなった人間は、傲慢になりすぎる。

そう。戦場を知らない指揮官が、戦況だけで無謀な策を現場に押し付けるように。

今や世界から封じられてしまった争いの技術を、骨身に叩き込んで今を生きている私と彼には、その限界が見える。自然の前ではいかに人間が無力か、欠けた心の端に沁みついて、はなれないのだ。

今や表立っては存在しなくなった武力も、真実は公的秘密の名の下に各国の裏に潜り込み、確かに存在している。ただ民衆の見えないところで蠢いているだけだ。

生い立ちの負い目はあれど、名実共に名高い我々としても例外などなく、世界の奥底に潜らされた過去は、むしろわたしにとっては懐かしいものとなりつつある。もしあんなことが起きなければ、いまだあの生暖かい社会の端で、安穏と生きていたのかもしれない。

追われる身となったわたしに残されたのは、手になじむ血を吸った愛銃と、忌々しいまでの悪夢だけだ。それでも再び、失ったものを取り戻そうとこんな地下で身を縮めているわたしは、一体何なのだろう。

人の気配の背後で、ノイズが懐かしい母国の響きを再び垂れ流し始めた。この勇猛な響き。間違うはずも無い、母国が対日潜入兵の司令へと利用する無線の開始音楽「遊撃隊行進曲」のはずだ。たしか、日本でも明治末期に流行したとか。

まさか、と訝しげに片目を細めると、「気まぐれだ」と先回りする答え。

「俺への指令は、短波ラジオからのモールス信号だからな。久しぶりにあの強気な言い回しを聞きたくなって、つけてみた」

背後では、母国語の抑揚の無い声が、隊員一人ひとりに与えられた識別番号を読み上げ、三桁と二桁の乱数を読み上げ始める。それを適当な形に変換させ、指令を読み取るのだ。淡々とした音調の共鳴を腹の中で感じながら、ぼんやりと淡い炎の明かりを眺めた。

「おい、ミグ」

不意に、低く押し殺した声が耳朶を打つ。急に真剣になった彼に疑念を感じたわたしは、ただ耳を澄ますことを返事にした。

「絶対に勝てよ」

本当なら、茶化す言葉なのだろう。しかし、声色があまりに真剣すぎていた。思わず疑問符を口にしたわたしの耳に、嫌に落ち着いた彼の声が、電子音を纏いながら強い意志を覗かせている。

「これは、戦争なんだからな」

戦争。

懐かしい言葉を聞き取り、どこか違和感が澱む。ずるりと引っ張り出された得体の知れない赤黒いものが、苦痛にのたうったようだ。

彼は確か、わたし以上に自由を保障されていないはずだ。過去も、現在も、未来さえも。

どの国からも爪弾きにされ、何度も隠れ蓑を代えながら、愛すべき国に牙を剥くようになった彼は、確かに昔から絶対的な決定力と実行力を持ち合わせていた。

それでも実際は、全てを優に操っていたわけではない。彼が決断を下せたのは《裏切り》という絶対的な結果だけなのだ。その結果があまりに大きく見え、彼を絶対的な威厳を持つものへと見せている。

「これは戦争だ」

止めを刺すかのように、再び彼が吹き込む。

「俺たちが生きるための、な」

彼ははるか昔、生きるために己の守らねばならぬ全てを捨てた。その結果、手に残った唯一つのものには、今でも献身的とさえ言える執着を見せている。実際に必要となれば、すぐさま己の全てを捨てるのだろう。地位も、名誉も、金、人脈、知りうる全てを捨て、文字通り捨て身で。単なる細胞の集まりでしかない自身の身だけを武器にして。

では、わたしにはそんなことが出来るのだろうか。……いや、わたしは不測の事態で失ったものを、惨めにも再びかき集めようとしている男だ。考えるまでもない。

涼やかな尾を引き波紋を広げた彼の声が、まるでその時だけ耳障りなノイズが身を隠したかのように明瞭に聞こえる。直後、一瞬強くなった砂嵐の雑音が辺りをさらうように吹き荒れ、知らず肌がざらつく錯覚に囚われた。収まった雑音の先では、砕けたような笑い。

「そろそろアメ公が気づきやがった。十分二十秒七二……一応偽装を施していたとはいえ、まあまあだな」

「まったく、相変わらず余念のないことだ。捕まらないと分かっていながら、そんな君といたちごっこを演じる彼らも彼らだよ」

「これでも一応、ギリギリのところまで追い詰められそうになったこともあるからな。結局の所、あいつらも馬鹿じゃないってこった。そうでなきゃ面白くない。もし捕まっても逃げ出せる自信はある。それより、お前も気をつけろよ。あっちに気づかれちゃ仕舞いだ。ま、お互い健闘祈ろうや」

雑音の奥で、バタバタと慌しい人の気配が表出する。最大の敵、アメリカに嗅ぎつけられたというのは確からしい。

しかし、会話をやり取りする当の本人は至って冷静だった。彼の言い回しが、腹の奥、鈍い違和感の石と化して落下の衝撃を伝えてきた。

「わたしは今や国に背いた敵だ。必然的に君の敵でもある。それを突然コンタクトを取ってきたかと思えば、世間話の次は《健闘を祈る》、か。そんな言葉よりも先に、居場所を知っているのなら、今すぐ追ってくるべきではないかね?」

僅かに細めた目を、闇に凝らしてみる。薄く漏れている二つの青白い光は、上階の人間たちが忙しく立ち働いている証拠だろう。しかし目を細め、あえて角膜のピントを外したわたしには、その二つの薄ぼんやりとした光源が、高笑いを繰り返すかつての旧友の瞳に見えた。

その光がふと歪んだと思うと、うっとりと目を細めてみせる。論理的でありつづけようとする彼が、難問をぶつけたとき見せる満足の笑みだ。

「残念ながら、俺に命は下っていない」

目の前の椅子に腰を下ろし、腕を組んで満足げに微笑む彼の幻影に、苦笑の視線を投げかけた。「大した忠誠心だ」

「一級反逆者を報告もせずに放っておく馬鹿は、君くらいなものだよ」

「俺はな、ミグ」

唐突に口にされた名に、思わず目を瞠る。すぐさま霧散するだろうと思われた彼の姿は、失われることなくわたしへと挑戦的な目を向けてきた。口元の力が抜かれ、普段はいくらか若く見えるそこに、歳相応の陰がかかった。

「何処にも従属しないし、誰にも支配されない。生まれたときから、俺は何処にも属す資格なんて持っていなかったんだよ」

だから、誰も信じない。そう語った目が、静かに虚空を見つめていた。

「お前が国と全面的に戦うとしても、俺はお前の敵でもなければ味方でもない。状況によって、こちらで働くべきときは働くし、そっちに利があると思えばまた乗り換えるだけだ。国家など結局の所、愚民と才あるものが秩序なく混ざり合った乗り物でしかないんだからな」

背景とさえなってしまった喧騒が、ノイズの奥で強さを増す。取り留めの無い思考に終わりを告げるように、彼の鼻にかかった笑いが耳の奥に木霊した。

「反逆罪の『亡命テロリスト』ちゃん。お前を追う黒幕の正体が分かったぞ。捜索隊を率いていたのがミン・ソンテク将軍。親中派にして血も涙も無い男、政権下で確固たる地位を築いてきた奴だ。だが、先週になって突如として彼の退任が決まった。そりゃもう突然だ。本国のほうも上へ下への大騒ぎ。で、彼の後釜についたのが――」

 わたしは、思わず開いた口が塞がらなくなった。辛うじて受話器を取り落とさなかった手も、すぐさま冷や汗で満ちる。思わず母国語で『嘘だ』と呻いた喉は、もうほとんど声になっておらず、異様なくらい乾いていた。

「本当」囁いた声も、若干トーンを落としている。思わず崩れそうになった膝を建て直し、傍目には何もなかったかのように虚勢を張るので精一杯だ。

乾いた口元を舐め、出来る限り落ち着きを取り戻した私のために、テウォンは、さらに自滅的な言葉を発する。

「でも、実質的に部隊を動かしているのは別にいる。どうやら今回は、そいつも日本に入ってきているらしいんだ。それで……ミグ?」

 あまりに沈黙を守っているわたしに、不安でも過ぎったのだろう。本当なら聞きたくない。それに続く単語を、察することが出来るからこそ。知りたくない、もし真実そうだとしても、出来ることなら避けて通りたかった。語尾に大丈夫か、というニュアンスを込めたテウォンに「続けてくれ」とダメ押しの一言を発した。

 一瞬の思案を見せたテウォンが、声色を抑えてしかししっかりとした口取りで告げた。

「部隊の統率権を握るのは、オ・ヨンスク。お前の元婚約者だ」

 真っ白にはじけた。