ふけた夜はまだ明るく、異様に丸い月がそれだけ重力を無視したかのようにぽっかりと浮かんでいる。閑静な住宅街の一角に作られた純和風料亭、『神楽』。比較的上層の家々に囲まれているため、別荘地という意味合いが強く、都内と言うのにまるでしんと静まり返っている。野良犬すらも完全に駆逐された広い道が続く集落には、人どころか通りすがりの車さえ疎らだ。

 背後に控えた竹林が、ザワザワとさざめいている。月明かりに照らされていなければ、その様はまるで小さな小さな存在でしかない建物を闇ごとの見込もうとする化け物に見違えるだろう。

美しい藍色で染め抜かれた暖簾に店の者の手が伸ばされ、しかし中から響いてくる歓声は宴もたけなわといった辺りだった。

 真一はその只中にあり、唯ただ孤立無援だった。適当に相槌を打ち愛想笑いを浮かべながら、自然視線はさ迷っていた。

 盛大な広報行事の打ち上げ二次会。署長やら本庁のお偉いさんが名を連ねるそれは、運転手含む雑用兼サクラに借り出された真一にしてみれば、無駄な豪華さで繰り広げられる実のない行為に見える。

己の心の置き所を壁に掛けられた掛け軸に止めると、ほっと一息、見るともなしに眺める。ガサツな男達の笑い声が鼓膜を震わせ、喉元に違和感を残していた。

「そういえば、間宮君。君も朝鮮出身だったね」

 唐突な問いに、思わず真一の目が泳いだ。前の文脈は聞き流していた故、分からない。

 頭の奥底、突如として響きだした血液の濁流音に打ちのめされながら、視線でその声の主を探す。行き着いたのは部屋の中心、何人かの警察関係者の中に、期待を込めて振り返るいささか頭頂部の寂しくなった小太りの男だった。

「はぁ、」と生返事で応じ、にじみ出てきた汗を拭う。己が部屋の端にでも座り続けられることに、心底ほっとしていた。たった一つの事実のみによって、無碍にされ続けてきた身は、卑屈で自尊心の欠如した人格を一端に作り出していた。

「ほう、朝鮮が天下の公務員とは」

 彼と向かい合っていた四十がらみの男が、半笑いを浮かべつつ目を細めた。一瞬にして侮蔑だと感じ取った真一は、内心穏やかではない。

「はい。高校時代に帰化申請がおりまして。晴れて国籍を移れましたので、今では公務員として働かせていただいております」

 うんうん、と満足げに頷いた上層部のお役人に軽く頭を下げ、笑顔の下で歯を食いしばっていた。奴の内心など、分かりきっている。結局、朝鮮の血を継ぐ自分を制度的にでも受け入れた日本が、いかに懐の深い国であるかを己に投影してほくそ笑んでいるのだ。そういう人間こそ、自分のことは棚に上げ、国単位で善悪を判断し、己の高徳とするものだ。真一が受けてきた朝鮮人差別など、制度の前に、はなから関心の外。内心では、蔑視しているに違いない。

 腹の底に、諦めに近い得体の知れない物体が沈殿していくのを知覚しながら、顔を上げた。知らず噛み締めていたらしい口内に、鉄臭い臭いが広がり、喉の奥に張り付いた嫌悪を増大させた。

「お国には、帰らないのかい? 日本での地位は保障されているだろうに」

「いえ……私は風景すら知りませんから……」

 なんというジジイだ。

内心はき捨て、笑みを引きつらせる。僕は、在日二世だ。生まれはまぎれもない、東京都世田谷。なのに日本人は必ずといってもいい程、決して見たこともない両親の国に帰れというのだ。小学生の折から日本人と同じ教育を受けてきた真一は、むしろ朝鮮語すらまともに話せないと言っていい。そんな自分に、どうして知りもしない国に帰れといえるのだろう。教育が人間を作ると自負する奴らに限って、蓋を開けたら凝り固まった差別観念にすがって存在しているなど稀ではない。だったら、お前も縄文時代の出身地に帰ってみろ、と内心毒づき、耐え切れずに目を逸らすと、完全に外界からの音をシャットダウンした。

 美しい竹が描かれた襖から小さく音が発し、「失礼します」という声が続く。

 すっと音も無く引かれた襖の先に、軽く頭を下げた三十前の女将。優雅に立ち上がると室内に入ってきた。

「お食事はいかがでしょうか。松崎様には常日頃ごひいきにしていただいておりまして」

「ああ、相変わらず腕がいい。それよりも、芸子は今日はいないのか? さすがに男ばかりで話していても面白みも無い」

 手にした箸を置き、賞賛の意を述べた男に、女将が満足げに「そうでございますか」と笑みを漏らした。

「そう思いまして、本日は最高の踊り子をご用意いたしました。アキちゃん、お入り」

 皴のよった細い指を、庭に面した襖に伸ばし、すっと音も無く引いた。

 室内の明かりが、若干吸い取られたように闇夜が顔を覗かせる。月明かりに照らし出された日本庭園の手前、板張りの縁側に、自ら輝くように鮮やかな紅色の振袖が映えていた。

「失礼いたします」

 優雅に三つ指をついた女は、ふと顔を上げる。大きく丸い月に照らし出され、しかし負けぬほど美しく、輝いて見えた。同時に、女将の背後から三人の芸者が衣擦れの音を響かせながら、入室してきた。

女が着物を払うように立ち上がり、襟元を調えると、紅色の振袖に散った黒と紫の蝶が、飛ぶように揺らめいた。

「ちあき、でございます。数字の千に、聖しこの夜の聖で、千聖。以後ごひいきくださいませ」

 微笑んだ千聖の頭で、かんざしに付けられた蝶が揺れる。目元は青いアイシャドーがさり気なく引かれ、美しくとも芯の強い印象を持つ。紅の引かれた口元は柔和に微笑が浮かぶと、女っ気の殆ど無い真一でさえ、思わずどきりと胸を突かれていた。

 テーブルに着いた男達はあんぐりと口を開け、その中の一人はひゅうと口笛を吹いた。

その反応に満足したのか、くすくすと鳥が囀るように喉を鳴らした女将が、「おさわりは禁止ですよ?」と釘を刺した。

「家は、まぎれも無い料亭ですので。稀にいらっしゃるのですよ、芸者を遊女と勘違いしていらっしゃるお客様が……。皆様は、そんなことなさらないでしょうけれど」

 男達を一瞥し、微笑を浮かべた女将がわたしはこれで、と退出していった。

 水を打ったように我先にと口を開き始めた男達が、酷く滑稽に見える。「出身は?」「歳、幾つ?」「美人だねー、親御さんに感謝しなきゃ」実の無い話を一方的に捲くし立てる男達に、全く気圧される様子もなく、千聖は軽く手を挙げゆるりとした口調で答え始めた。

「ありがとうございます。年齢は、申し上げる必要もないでしょう。女性に年齢を聞かないというマナーを、皆様がお知りにならないわけがございませんから」

 一人のエリート官僚が、かっと顔を赤く染めた。おそらく年齢を問うた者だろう。しかし、気にすることも無く一人の男が身を乗り出すように口を開いた。

「千聖ちゃんは、旅行とかするのかい? 好きな土地とか」

 たしかあの男は、旅行を趣味としていたはずだ。それもつい先ほど、同僚と見られる人物に浮気旅行だとはやされていた。

 そんな事情を知ってか知らずか、千聖は柔和な笑みを絶やす事無く手にした酒を注いだ。

「旧満州が好きです。行ったことはありませんが、両親が住んでいたことがあるそうで……。寝物語に聞かされるたび、行ってみたいと思っておりましたの。今では叶わぬ夢ですわ」

ほぉ、とため息に似た声を上げ、男が身をそらせた。散々真一をこき下ろしたあの男だ。

「満州だったら、行ったことがあるよ。美しい町だよね、人情もあって……」

 真一の目元に、ゆらと憎悪の色が燃えた。あの野郎、最低だ。

 しかし、自慢げに口火を切り始めた男に向けた千聖の目が、一瞬冷たく光った気がした。微笑みも何も崩さない、静かな何かだった。だがそれも次の瞬間には消えうせ、愛郷のある目が細められ、「いいですなぁ」とその印象すら霧散していった。

 何だ?

 きょとんと千聖を見つめるも、きっと夢だったのだという印象だけが、薄ぼんやりとした靄の奥に小さく身を丸めていた。

「あっちの子は朝鮮出身らしいよ。何か話聞いてみたら?」

おもむろに指差された真一が、ビクリと身を震わせる。ついさっきまで自慢話に興じていた男の窪んで見える目が、うっすらと卑下の色を浮かべていた。こちらに涼やかな視線を送った千聖が、「そうですねえ、後ほどゆっくりお伺いしようかしら」と、他意のない美しい目を向けてきた。その対比が恐ろしく、気持の奥底で吐き気が襲ってきた。

 千聖がすっと立ち上がる。思いのほか優雅に着物の裾を直すと、まるで真一から視線をそらすようににっこりと微笑んで見せた。

「折角ですのでわたくし、舞いますわ。女将のおっしゃったことには及びませんが、舞いにはいささか自信がありますの」

 同じくお酌していた芸子が、すっと立ち上がり朗らかに微笑みつつ、部屋の隅に置いた楽器に手を伸ばす。いよっ、待ってました! と、奇妙な合いの手が方々から上がった。

 鮮やかな色を載せた扇子を構え、千聖はぴたりと動きを止める。べん……、と弦楽器特有の響きが、決して広くない室内に涼やかな波を広げ、開け放った庭に向き夜気を振るわせた。

 ぎゃあぎゃあと、年端も無くはしゃぎ始めた男どもから目をそらし、腹の奥底、タールのように波打った黒い液体の姿を見るに絶えず、真一は「失礼します」と一言を残し、立ち上がっていた。御手洗いに行こうと思った。この黒いどろどろしたものを、一刻も早く洗い流したかった。

 馬鹿騒ぎの音を背後に、板張りの廊下へと足音をしのばせ進んだ。

 

水の音が裾を引き、水が滴る顔を上げる。雫がはねてぬれた鏡に、奇妙に疲れた顔を認め、静かにため息を吐く。やっぱり、きつい。

「たまにあるんだよな……」自嘲的に呟き、水道の蛇口を閉めた。手持ちのハンカチを広げ、ぬれた顔を乱暴に拭う。この時期、水はどう願ってみても気を引き締める程の冷たさを内包してはいない。それ以上に、頬をぬらしていたのは、水道水だけではなかった。

 胸を押し留める真っ黒な感情の弁は、図々しくもまだ体内に存在している。にじみ出ていた冷や汗も、水と共に洗い流してしまった。

 湿気を含み、額に垂れてきた前髪を鬱陶しくかきあげると、自らに気合を入れるかのように短く息を吐き出した。

「よし」

 もう慣れた。慣れたんだ。平気だ。

 戻りたくないと叫ぶもう一人を無視し、自己暗示をかける。「大丈夫」吐き出した言葉が、悲しげに排水溝に落ちていった。

 戻らなければ。

 内心に吐き出し、意を決したようにシンクを離れると、板張りの廊下へと出た。あめ色に磨き上げられた床板が、果てしなく長く錯覚させる。ところどころにおかれた陶器や掛け軸の類が、落ち着いた暖かい雰囲気を孕んでいるのが幸いだった。

 ずるずると半ば引きずるように体を動かしていくと、ふと廊下の曲がり角から眩いばかりの光が差し込んできた。目を顰め、そちらへと顔をめぐらせる。先にはもう一角、客室があるのだろう。板張りの廊下の先には、広がる限りの庭園があった。白い砂が敷かれ、美しく整えられた庭には、足跡すら残されていない。丸く大きな月が、所々に置かれたさまざまな形の石や、美しく伸びる松を鮮やかに照らし出している。

 はっと思わず息を呑んでいた。

 塵ひとつ残されていない廊下、計画的に整えられた室内の調度品。よくよく目を凝らしてみれば、この場所がいかに美しい場所だったかが胸の奥に染み入ってくる。

 嗚呼、やっぱり僕は、日本人なんだな……。

安堵に似た感慨が押し寄せ、思わずため息が漏れていた。日本の美しさを知っている。少なくとも、自分を見下すやつらよりは知っている。しかし同時に、自分は《中身が日本人なのだ》という恐怖すら同時に耳元へと囁いてくるのだ。朝鮮人と蔑まれながらも、彼らが帰れという地とは決して相容れない者なのだ、と。

「美しいでしょう?」

 不意に背後から鈴のような声がかかった。反射的に振り返ると、月光に照らされ、薄っすらと紅の着物が認められる。微笑のもと歩み出てきた千聖が、立ちすくむ真一の隣に足を止める。

「私も好きなんですよ、ここ」

 砕けた笑いが弾け、リラックスした表情を見せた。

「今日は何でいらっしゃったんですか?」庭に視線を向けたまま、問う。

「付き添いです、正確に言えば、運転手。仕事が込み入っていない部署におりますし……話題づくりに駆り出されることもあるので」

「それは……大変ですねえ、公僕さんも。警察の方って、事件の現場に這い蹲っているか、あの人たちみたいにふんぞり返っているかの、どちらかだと思っていましたわ」

 目を細めた千聖は、まったくといっていいほど卑下した色が無い。思わず「近からず、遠からずといったところですよ」と応じていた自分に、自嘲的に笑った。

 会話は続かなかった。ただ二人で、じっと景色を目に映し続けた。ずっと遠くに、馬鹿騒ぎの騒音が聞こえていたが、もう気にはならなかった。