古くガタガタと不穏な音を立て身を震わせる車体は、ディーゼルの排気が入るため、うかうか窓も開けられない。もっとも、開けたところで重々しい灰色に煙った空が、しっとりとした雨の気配を大地に沈殿させているだけなのだが。

 窓の外、遠く町並みを眺めながら、何と鬱蒼とした眺めなのだろうとため息を吐いた。どこから調達してきたのか知れないポンコツ車は森の中へと突き進み、美しい淡い緑の草に遠慮もなく排気ガスを吐きかけている。

 背後を見る気にはなれらかった。体のいい現実逃避だと知りながらも、現実を直視したくない自分がいた。

 窓ガラスも遮光フィルムで覆われた後部座席には、あの見たこともない生き物が今も身を震わせているのだろう。どうにもならない現実を抱きしめながら。

 運転席でハンドルを取る千歳が、サングラスに隠れた目をこちらへと向け、手にした煙草の箱を差し出す。胸中拭い去れない違和感を感じていた真一は、そんな気にもなれず、丁重に断った。

「煙草、吸うんですね」

「僕は吸わない。兄貴がたまに吸ってたから」

 ふうん、と生返事を返す。

 完全に混乱しているシウンからの一報を受け――どこの電話からかけてきたのか知れないが、とりあえず人目がつかないところらしい。人目に付けば、すぐさま通報されてしまうほどの出で立ちだったのだ――千歳が手に入れたワゴンで出発して一時間、血まみれの上、放心状態のシウンとアンナムの死体を乗せ、車は一路、都の外れの鬱々とした森へと分け入っていた。

 天気は最悪。もうすぐ雨も降ってくるだろう。それでも皆終始無言で、ただ手の中に放られた現実と、これから成す現実から目をそむけよう、信じまいとしているようだ。後部座席に座っているはずのシウンも、元より寡黙だった上に重々しい沈黙を守り、怯える子供のように亡骸を抱えて、全くといっていいほど気配が窺えない。ただ老年の車だけが、逸る気持ちを示すように颯爽と進み続ける。

 あまりの沈黙に、再び視線を窓の外に逃がそうとする。

 煙草を差し出されたときと同じ仕種で、目の前に一枚の写真が差し出された。

 受け取り眺めると、それはセピア色の家族写真だった。

「アンナムが持ってた」

「へえ……この人、僕らを逃がしてくれた人ですよね」

 サングラスの間から覗く瞳が頷く。

「椅子に座ってるのがあいつの婚約者、オ・ヨンスク。椅子の脇に立ってるのがアンナムでしょ」

「はは、あんまり変わりませんね。よく見れば少し若いけど。……ん? この二人の間に立ってる子供は?」

 千歳が一瞬躊躇うように諮詢した。ようやっと視線をくれると、

「オ・ソンジュ。アンナムが拾ってきた戦災孤児で、」

 あいつ、と後部座席を顎で示した。

「元々は女として育てられてたらしい。ま、僕もよく知らないんだけど」

 手に収まるほどの小さな写真を裏返すと、見たことのない記号のような文字の羅列が綴られていた。その隣には、小さく年号が記載されている。――1955,2,1――

「兄貴が亡命してあいつと出会った年だよ。ソンジュが拾われたの」

 後二枚は彼の愛する人が映っているものと、幾つかの年を経た少年が、不器用に銃を構える写真だ。

「僕らはあんまり写真を残さないからね。足がつくと困るから」

 千歳はそう言って、ブレーキをかけた。一層不穏な身震いを起こし、僅かに前に傾いだ後、古参の老兵のごとき車体はようやく止まった。

 千歳が乱暴にドアを開き車外に降り立つと、もはや再び感情を封じ込めたらしい無表情の青年が後部座席のスライド扉を開け、空を仰いだ。地面を踏みしめ、白い布のかけられたストレッチャーを引っ張り出す。白すぎるシーツの所々は赤黒く染み、真一は思わず視線を逸らしたくなった。

 千歳が振り返る。強い風に遊ばれた服の裾が風に舞い、サングラスの濃い闇に閉ざされた目からは感情を読み取ることが出来ない。

 後ろでは、こちらは何もしていないにも関わらず、感情という感情を失った冷たいだけの機械的な視線を持ったシウンが、ストレッチャーを脇にこちらへと目を向けている。

「君も来る? 来ない方がいいと思うけど」

 その声から、何となく察した。彼女たちは、自分の中の道徳を殺しに行くのだ。これからの人生、ただ生きるという目的のために。狂わねばやっていけないこの世を乗り切るために。

「遠慮します」と押し殺した声に出すと、そうとそっけない返事が返ってくる。

 鬱蒼とした森はざわざわと騒ぎたて、部外者の目的を察し慄いているようだ。

 途中から雨も降り出すだろう。それでもこの二人にはそれがお似合いのようだ。女は結局魔性が似合うということか。

 ざく、ざく。草の根を掻き分ける。静かに狂気は色を帯びてゆく。

 

 嗚呼駄目だ。

 狂った、と――。

 雨はとうに降りだした。ざあざあと苦しげな篭った音を伝えてくる。雨粒に叩かれる窓が曇り、遠くが見渡せなくなる。

 駄目だ。

 懸命に目を凝らしてみた。

何も、何も見えないじゃないか。

ナゼ? ナゼ? 僕がおかしいから? 狂ってしまったのか?

 何かがはじけたような気がした。

「止めて!」

 気がついたら叫び声を上げ、車が身を軋ませ止る寸前、急き立てられるように駆け出していた。

 大粒の雨など気にならない。体温は間違いなく奪われているはずなのに、なぜか寒さなど感じない。

世界は灰色だ。僕は灰色を一番恐れていた。白か黒か。それだけの世界で十分だった。兵士か指揮官か、どちらかとして存在していればそれで十分だったのだ。

嗚呼苦しい。灰色だ。灰色の洪水なのだ。灰色はどちらにもなれない。純粋無垢な白にも、全ての酷濁を飲み込んでみせる黒にもなれはしない。ただ、どちらか一方であれば静かな空虚に身を浸し続けていられたのに。

とにかく走った。背後で驚いた声と、扉を開く音、水溜りを踏み荒らす音が聞こえていたが、世界が区切られたように遠い。

血が逆流して、これを衝動的と言わずして何と言おうか。

ただ走った。ただ逃げた。何から? 灰色から。朱色から。血の抜けた――白から。

倒木に足を取られ、たたらを踏んだ。

気がついてみると、いつしか森が途切れたらしい。だがそこは黒い芥の降り注ぐ街ではない。ただ広い原っぱだった。

雨が頬を、髪を、服を遠慮なしに伝う。体が予想以上に重かった。雨水を含んだせいだろうか。

自分の腕に視線を落とす。残った血が雨で洗い流され、薄っすらと鮮やかな朱色が残るだけだ。無様にも震えていた。

――嗚呼、駄目だ。

  生きていられない。

 ここで初めて、自分の腰に固い感触を思い出した。銃。人を紙くずのように殺してしまうもの。無感情に死を与える咆哮を持った獣。

 彼は手を伸ばした。重く固い感触と共に、冷たい金属が体温を吸ってほんのりと温まる。雫が伝う黒い銃身は、残酷さを通り越してむしろ崇高にすら見えていた。

 震える。ぞくりと寒気が走った。

 衝動的に銃口をこめかみに当て、歯を食いしばる。

 鋭い、

 咆哮が灰色の景色を引き裂いた。

 

 カタカタと金属的な音を立て、それでも無様な己は手を振るわせ続けている。地面に縫い付けるように押さえつけられた手の先で、煙を燻らせる異形の穴と、穿たれた真新しい弾痕が見えた。

 引き金を引こうとした瞬間、飛びかかるように自由を奪った人物を恨めしげに見上げた。

 途端、頬に激痛が走る。

 張られたのだと脳が理解すると同時、立ち上がった千歳が「馬鹿野郎!」と声を荒げていた。

「自殺なんて馬鹿な真似、愚か者のすることよ! 身を挺して命を繋がれた人間がすることじゃないわ!」

 怒りの宿る瞳に睨まれ、己の中にも根拠のない怒りが燻り始めたのを感じた。睨み返すと、いつにない強い口調で言葉を紡ぐ。

「あなたに、僕の何が分かる!」

「ええ、分からないわよ。でもね、僕だって兄貴に先立たれた人間だ。少しくらいは」

「アナタと僕は違うっ!」

 金切り声に近い叫びを上げ、彼は耳を塞いだ。憎しみに近い瞳を上げ、硬く引き結んだ唇を振るわせた。

「だったら、あなたはテウォン様を男として愛することが出来ますか? 出来ないでしょう、出来ないんですよ。そう、普通はね。でも、僕――私は普通じゃなかった。あなたには分からない。あなたと私は違う!」

 千歳がたじろぐのが分かった。

「ああそうだ。私にはその確信があったよ。拾われたその日から、強迫観念のようにずっとずっとね……! でも、そうなってしまえば僕らの現実は壊れてしまう。アンナム様という父、ヨンスク様という母がいてはじめて、僕はこの世に存在することを許されるのに。

 だから保険をかけたんです。男としてなら、あの方とも一対一で渡り合える。全てを、僕の心を惑わす全てのものを否定できる。もし完全な男として産まれていればと、どれだけ思ったことか。そうすれば全てはうまくいくのに。全ては丸く収まるのに!」

 きれいなきれいな箱庭。僕にはもったいないほどの家族は、僕が壊してしまうのではという恐れと表裏一体だった。

 ようやく追いついてきた真一は、その叫びに近い声を聞いた。

性同一性障害。それが彼が、女として育てられたわけだったのか? それとも正真正銘の女の男装?

「僕は男になりたかった……感情も、いらないものは全て捨て去った兵士になりたかったのに。嗚呼、そうすれば何も考えずに済む。こんなくだらない感情に振り回されることもない。父の役にも立てるでしょう? ほら、これが一番いいんです。一番よかったんです!」

 頬を生暖かいものが伝った。それが自分の涙だと気づくのにどれほどかかっただろう。だが、その涙も雨に打たれすっかり濡れてしまった身には関係ない。

 古い映画フィルムのような光景。自分の前には、床で上半身だけを起したヨンスクの姿。

『――ねえ、ソンジュ。自分の命と引き換えに母を失った私と、両親の存在を知ってはいても愛情を知らず、感情を奪われてきたアンナム。ふふ、わたしたち家族は、出来損ないの寄せ集めのようね』

 嗚呼、でも母様。僕は、その家族が何より大事だったのです。だからこそ、怖かった。

 また全部、失ってしまうんじゃないかって。――それは現実になったのですよ、母様――

――でも、今は違う。初めは寄せ集めでも、今は違う。アンナムだって心を取り戻せたんだもの。ソンジュ、あなたは私たちの希望よ。

 違う、違う。僕はそんなにきれいなものじゃない。

 あなたの愛するものに恋を抱きそうになった大馬鹿者です。

 それでも……家族を守るためには自らが消えることが最良と知りつつ、それを成し遂げられなかった臆病者です。

 降り注ぐ雨水が冷たい。人間たちの穢れを溶かしたように重く、絶え間なく堕ちてくる。

 千歳が、一瞬苦しそうな表情を浮かべ、それでも力強く立ち上がった。足元で水滴が撥ねた。

「それがどうしたのよ! あんたは守ろうとしたんでしょ? 精一杯何とかしようとしたんでしょ。だったら、いいじゃない。よく見なさい。これがあんたの言った最善の結果よ! 皆あんたを庇って死んで、あんただけが生き残った。それなのに、あんたまで自分の命を捨てるの? そうだったら初めから、あんた一人が死んでみんなが生き残ったほうがよっぽど有意義だわ!」

 しゃがみ込んだままのソンジュの肩に手を回し、千歳がじっと瞳を覗きこむ。

「現実を見なさい。みんな死んじゃったの。帰ってこないのよ。僕だって、兄貴が帰ってくるのなら喜んで自殺だってしてやるわ。でも、無理なの。そう出来てるの。死んだ人間は二度と生き返らないのよ。だったら、生きるしかないじゃない。生きるしかないでしょう!」

 ソンジュの顔がふいに歪んだ。ボロボロととめどなく涙が零れた。

「ああもう、何が好きであんたに言われた言葉を、言い返さなきゃならないんだか。少しは考えなさいよね。馬鹿」

 鼻をすすった千歳も、つられたのか堪えていた涙が溢れ始めた。

 とりあえず、逃げて逃げて逃げる。それだけ。もう目的すら忘れてしまった。

 自分たちが泣いているのか、それすらもよく分からない。ただ、体に残る倦怠感だけはむしろ心地よく空っぽになった体内に沈殿していく。

 するり、するりと忍び込んでは面倒くさい感情を拭い去り、純粋な五感だけがはっきりと感じ取れるだけだ。だからこそ、いち早く気づいたのだ。

 それに気づいたのは、やはり音の支配者である千歳だった。

 しかし、気づけなかった。気づいたのだが、気づけなかった。音として捕らえてはいても、停止した脳が信号として認識しなかったのだ。

 背後からは、パトカーのサイレン。

はっと気がついたときにはすでに遅く。とにかく逃げなければと、強迫観念だけが身を突き動かす。

 結局はやっていることは一緒だと思ったところで、目の前の二人を引き立たせ、音の聞こえない方向へと逃げるように背を押していた。

 真一の足が止まる。深淵に澱む奇妙な違和感を見つめ、彼は己の体が氷のように冷えていくのを感じる。

 怪訝そうに振り返った千歳たちに背を向け、一本だけ続く道へと立ちふさがるように視線を上げる。灰色の空、灰色の、灰色の深淵。

「早く!」

 千歳が叫ぶ。

 僅かに微笑んで、目を閉じた。

「もう、逃げるのにも疲れたから」

 そう、ここは法治国家日本。殺人者も殺されない国、日本。それがどうだと言ったところで、俺はもう疲れた。俺は殺されないのだ。だって、俺の罪はせいぜい逃亡幇助――もちろん事実無根だ――と、逃亡だけなのだから。

 細く続く道の先に、パトカーが発する赤色が点滅している。近付いてきているらしい。

 千歳は、一瞬眉を顰めたがすぐさまソンジュと共に駆け出した。木々の生い茂る獣道を伝えば、逃げられないことはないだろう。なぜなら彼らはプロなのだから。

 真一はただ立っていた。

 急に風が強くなる。着たきりだったねずみ色のスーツが濡れて、まさしく濡れねずみ的風貌だ。

 けれど、彼は怯えもしない。ただ立っている。

 不意に、背後が暗くなった。風が今まで以上に吹き荒れ、ごうと唸る。

彼は振り返った。そこには、警視庁と書かれた美しい流線型のヘリが、四枚のブレードを絶え間なく羽ばたかせる姿があった。

 スーツの裾が捲られ、濡れた髪が強風に嬲られる。

 強烈なダウンウォッシュの中、ヘリは降下を始めた。

 その巨体が地面につく間際、ひらりと巧みに地面に降り立った人影が一つ。

 五十ほどだろうか、見た目はもっと若く見えるが、身のこなしから幹部クラスの者だと知れた。

 一時的に二人は視線を合わせていた。何をするでもなく、ただ互いから目が離せない。

「捕まえるんでしょ」

 口火を切ったのは真一のほうだ。

 男はふふんと鼻で笑うと、悠然と彼に歩み寄った。一歩一歩。

 手を差し出し、にっこりと微笑む。

「やあ、間宮真一。ぜひ会ってみたかったんだ」

鳥肌が立つ。真一にはこの微笑が、何だか信用ならないもののような気がしてならなかった。

聖のように卑屈ではあるが、情というか、安心できる何かが足りない。

じりっと背後に身を引くと、狭い一本道を縦に並んでやってきたらしい警察車両たちが、広場に乗り入れ包囲するように展開する。

男は、疑念を隠しもしない真一に困ったように肩を竦めて見せた。

「なに、怪しいもんじゃないさ」

「でも、警察でしょう」

「おやおや、こりゃあ君の中では相当警察の地位は失墜しているようだ」

「当たり前です! 何が好きでこんなこと……」

 男が表情を引き締める。こうしてみると、端整な整った顔をしていた。

「間宮刑事。あなたの身の潔白が証明されました。事の首謀者は、中国籍の女とその父親。彼女があなたは全くの無関係だと証言した。諸事情を鑑み、我が方は丁重に謝罪すると共に、あなたの一刻も早い職場復帰を検討している」

 予想外の答えだった。王連静が落ちた? しかも証言していると?

 そこで男は再び表情を崩し、目を細めた。声も些か親しみやすさをかもし出している。

「何、面倒は無用だよ。全ては私が取り計らう。申し送れた。私は六実啓介。この度の事件で指揮を執っていた者だ。それからこれはまだオフレコなのだが、復帰した際、君は人事異動の対象となる。国は……対外国のスパイ――主に北のスパイに対しての部署を創設することに決めた。警察の極秘機関としてだ。部長として私が選ばれ、現場で人材を見繕っていた。君は、中でも優秀だ。明晰な頭脳と、実際に北のものたちと行動を共にしたという実績がある。どうだね、やってみやしないかい?」

 にやりと笑った。寒気がした。

「あなたにとって今回のことは、何だったのですか?」

 思わず零れた疑問は、強風によって跳ね飛ばされる雫のようにか弱く、無力に思えた。

「そうだな。少なくとも、組織内の膿は出せたと言っておこう」

 ずるり。

 薄笑いを浮かべたままの口から、スルスルと言葉が滑り落ちてゆく。その声を聞くにつれ、体温が下がっていくのが分かる。

 病院、白昼夢、自殺、組織、純白の中の、《アカ》――。

 ――加賀、何てことを……。

「……この申し出は強制ですか?」

「いや、君次第だが」

 真一はゆっくりと目を瞑った。

 世界が音と共に遠ざかり、自分の体温と鼓動だけが間近に感じられた。

 震える唇を開く。

 まるで、死ぬ間際の白昼夢のようだ。

 

 暗い。何処までも暗い。

 充満する芥は、吐き気を催す臭気を帯びて、全人類の細胞をじわじわと破壊している。そう言われれば、すんなりと信じそうだ。

 世界の端、僅かに作り出された虚の中で、僕はそう思った。根拠はなかった。

 世界は暗く、夜の闇の中で殆どの人間たちは眠りについている。善良で純粋無垢な子猫のような民衆は、静かに寝息を立てていることだろう。恐ろしい闇を本能的に恐れ、煌々と明かりを灯して。

 そして僕らは闇を這う。全てを飲み込み、擁護し、消し去る無法地帯の闇の中で、世界を駆け、這い蹲り泥をすすって生きていく。互いの血に塗れながら。

 だが、僕はこの闇が好きだ。むしろほっとしているといってもいい。

 子猫は知らない。自分が母親の胎を破り、殺してしまったことも知りはしない。それほどに世界は無知で、欺瞞だらけだ。

 闇の中に目を凝らした。獣のような気配が一つ、二つ……。

 手の中に握られた鉄の塊は、即座に意思を持つように熱を持つ。まるで血が通っているように脈を打っている。否、これは僕の心音だ。

 こんな世界で生き残るのはあまりに大変な大仕事だ。どんな偉人も、極悪人も、生きていたからこそ歴史を動かしえた訳で、死ぬことを義務付けられた僕らにはあまりにも時間がなさ過ぎる。

――さあ、ゲームを始めようか。

 蛇が笑った。

 あの日、仕留めかけた命。もう一度かけあおう。

 僕らはいつでも命がけだ。生きるか死ぬか。それだけを欲し、必要としている。

 手の中の銃を握り締めた。力強く熱を送り返してきた。

 ――お前の名は何だ?

 ――奴らの名は何だ?

 ――この世はいったい、何なのだ?

 口元の笑みが歪む。

『亡命、テロリスト』

 頼ることも許されず、夢見ることすら叶わない。それでいて、強大な何かに翻弄されて、皆一様に自分が愛する国家の手から離れていった。

 結局、やっていたことは同じだ。それぞれの祖国を裏切り、孤立無援で己のテロリズムを遂行していただけではないか。

 生きるという、反逆を。

 闇の奥がどろりと波打った。