暗闇の中、連静は胸中の違和感に顔を顰めた。視線の先には、一人の小男が無遠慮な振る舞いでソファーに腰を下ろしている。

『で、国家間の調整は順調なのだな』

 耳障りな濁声に不安が変質するのを感じながら、ええと答える。男は、これまた下品な笑い声を立て、唾液を飛ばしながら満足げに膝を叩いた。

『いいぞ、そうか後の不安の芽は、あの人柱のことだけか。クソが、単なる平民の分際で、足掻きやがるから面倒になるのだ』

 男は、どこから見ても純粋なアジア人の様相をしていた。黒い髪に同じく黒い瞳。彫は浅く、肌は黄色がかっている。身長が低いのは彼のせいではなく、単に家系だと聞いている。

そして彼女は、初めてこの人間に対して生理的嫌悪感を覚えた。

――奴があんなことを言うからだ。

 嫌悪を感じている自分に腹が立つ。ため息を一つつき、苛立ちを吐き捨てると目の前の男に視線を向けなおした。そう、これが。すっかり色あせてしまったが、この人こそ、わたしが長年信じてきた唯一の存在だ。

 吐き気がこみ上げ、不思議そうに覗き込んできた男には、具合が悪いのだと説明する。

『ほう、そうか。まあ、そういう時は休むがいいさ。お前にはまだまだ働いてもらわなければならんからな』

 私はそれだけの存在なのか? すっと目を細め、彼女は彼を見つめる目の奥で己の腹の底を見る。あの人間によって植え付けられた疑念や不信が、めらめらと音を立てて燃えていた。私は、単なる駒の一つなのだろうか。

その奥では、主のように陣取っている黒い大蛇が獲物を狙う血走った眼を向けている。彼女に、ヤレ、殺してしまえと説き続ける。

 彼女は必死でその姿から目を向けた。私の中には、こんな物存在しない。だが、その行為は結果的に彼女が長年尽くし続けてきた主から目を背けることにもなった。

『それで、対米対策の方はどうですか。旨くいっているんですか』

『おお、そうだ。旨くいっているぞ。それもこれも、わが愛しい愛娘が自ら敵地で信頼を得てくれたおかげだな。うむ、感謝している』

卑屈な目が見上げてきたが、無視した。本気でそう思っているのだか知れない。なにせ、私は産まれてこの方、この男が親らしいことをしてくれたという記憶がないのだ。それでも一応、礼儀的に感謝の意を述べる。男は満足げに目を細め、明らかな自己満足の余韻に浸っている。

彼と私は、一応親子ということになる。彼は中国で一大企業を経営している、いわゆる裏と表を知り尽くした経済の操り主だ。国内をほぼ手中に収めた彼は、新しいフィールドを外国に求めた。彼の目に留まったのは、世界有数の工業大国アメリカ。そしてその、政界への進出だ。

そのために私は送り込まれた。政界ともパイプを持つ、国有数の企業に技術職として潜り込み、一族の株を上げてから父の野望の一端を担う。そのためだけに、生かされてきた。

『まあ、日本の子会社が予想外の失態を侵すというイレギュラーは起こったが、それでもそれ以上の収穫はあったな。北の一派が独断で行ったこととはいえ、あっちの首脳部の狼狽の仕方! 裏との繋がりも作ることが出来たし、北の一部指導権というおまけまで付いた。お前に対する信頼は増し、結果的に国は我々に対して好意的な態度を示しつつある』

――あんただって被害者だ。

 頭の中を、余計な言葉が過ぎる。間違っている。私たちが、彼が間違っていると?

――人間は生きている限り、少なからず他人に影響を及ぼす。お前が動いたことで、それ以上の人間たちに死を与えていることに気づかなくちゃいけないんだ。

――死だってな、目に見えるもんだけじゃないんだよ。

 そんなこと分かっている。偽善も甚だしい。だけど、

本当にそうなのか?

 私は、本当に己の手で人を殺していたのか……?

 そう考えると、ぞくりと恐怖が駆け巡った。覚えていない。殺した感触を、覚えていない……。

――それはそうだ。

 にやり。

 知らない言葉。知るはずの無い声が、黒々とした蛇から吐き出される。

――お前は、本当のお前ではないのだからな。

 炎の中、大きな身を悶えるようにして這い出てきた蛇が笑う。無数の鱗が地面に擦られ、擦り付けられ、不快な不協和音を奏でる。

――その理屈で言うと、お前はあの日《死ンデイルコトニナル》。

死んでいる? 私が?

 その時、唐突に気づいた。この炎は、壁だ。私を疑念から守る壁だったのだ!

 ずるり、ずるり。蛇はその中を平然と這い、辿った跡には赤黒い血の染みが広がっていく。

 いやだ、やめろ。やめてくれ!

――さあ、思い出せ。お前が誰なのか、どんな仕打ちを受けてきたのか。

 やめろ! 覚えている。嗚呼、今でもはっきりと思い出せる。だからやめてくれ。傷口をこれ以上抉るのは耐えられない!

――覚えている? なら、認めていないのはお前の方なのだろう。自らも認めず、大切な者からも認めてもらえない。認められようと努力したところで、結局はいい手駒のひとつなのだろう。よほど奴らの方が人間らしい。ほら、認めてしまえ。己が何者であるのかを!

「やめて!」

 叫び声を上げた。

 同時に、それまで沈黙していた扉が開き、煌々と灯された明かりの中、絶望の象徴のように伸びる無数の人影が床に縫い付けられた。

「警察だ、騒ぐな!」

 怒鳴り込んできた男達が室内に散開し、取り囲むように円を描く。

 驚いた男は、無様にも『何だ? 何なんだ!』と金切り声を上げている。分からないのだ。日本語は、彼が侮蔑の対象としたものだったから。

 長く伸びる影の集団の中央を悠々と歩んでくる者があった。それなりに作られた体の線に、高い身長に見合う長い足。伸びた影は誰よりも長く、恐怖を煽る。ボタンが留められていないのだろう、スーツの裾が風に揺れ、緩く結び付けられたネクタイが影に色を投げかけていた。

「やあ、オ・ヨンスク外交担当。いや、王連静技師と言ったほうがいいのかな?」

 六実は、あの独特の壮観な笑みを湛え、影の中で鮮やかに立ち止まった。

「日本政府としては、あなた方に聞きたいことが山と積まれてしまいましてね。お手数ですが、ご同行願えますか?」

 六実の目が細められ、鋭い光が宿る。「なぜ?」と問うと、困ったような笑みを浮かべる。

「うーん、正直なところ、あなた方が何を考えているのかは、憶測を出ていないんですよ。国の意向としては、一応別件で引っ張っておいて、埃が出るなら出そうってことで。あ、言っておきますが、情報を持ってきたのは所轄の一巡査部長です。一応ね」

「ふうん……私たち、売られたってこと」

 そうでなければ、国は――強大な何かが守ってくれるはずである。卑屈に笑い返すと、六実の笑みが歪む。猟奇的とすら取れるそれで、「まあ、そう取っていただいても結構です」と続けた。

 人柱。誰が言い出したのか、彼ら背後で手を引くものたちにしてみれば、下等市民のソン・アンナムが負わされるはずだった鉢が、トカゲの尻尾に回ってきたわけだ。

 彼女は笑った。諦めたように。

 ゆっくりと足を踏み出した彼女の背後を、二・三人の男達がついて来る。逃亡を阻止しようと、その瞳はギラギラと光っていた。

 ソファーで腰を抜かしていた男も、二人の警察官に腕を取られ、両脇から抱え上げ立たされる。無理やり足を動かされ、それでも抵抗を繰り返していたが、日本語を理解しない彼にもようやく事のあらましが理解できたらしい。

 まるで汚れたものでもみるような形相で、その血走った眼を、血の上った顔を上げ、娘を振り返った。

『お前か、お前の差し金か! よもや、育ててやった恩も忘れ……結局はお前も、汚れた《ニホンジン》だったということだな、坂東静江エェ!』

 王連静――坂東静江は静かに目を伏せ、ふっと悲しげに微笑んだ。

『もうやめましょう。お義父さま。あなたがやっていることも、同じなんですよ。あなたが心から嫌う日本人と同じなんです。戦争は終わったのです。私たちのような不幸な子供を残したまま、戦争は終わったのですよ』

 男はなおも喚き続ける。かわいそうに、彼は一生己の間違いに気づかないのだろう。

 被害者は、加害者に回った時点でお仕舞いなのだ。

 ここは彼女の血の根源である《異国》で、なにより有数のスパイ大国と化して尚、盲目的美しさを失わない国、日本だ。結局、私にとっての異国・彼にとっての蛮族に、比類なき過信と歪んだ負い目に裏打ちされて見事に足元をすくわれたのだ。

 静江は六実に向き直り、光の宿らない視線を上げた。生理的に信じられない笑顔が目の前にあった。

「なに、あなたが罪すら償ってくだされば、あなたを中国残留孤児の一人として迎える用意があります。安心なさい」

「いいえ、いいのです」

窓から差し込んでくるパトランプのアカが、まるで血に染めるようにあたり一面を濡らしていた。

「……もう、どこかに属するのには疲れた」