深い闇は、街に降り立ったものか、はたまた人間がかもし出しているのか、もはや分かりようもない。足元に絡み付いてくる疑念や不信も、形を取っているようでいて恐らくは幻なのだろう。

 アンナムは、べた付く空気を必死で振り払いながら、その背を見つけた。

「シウン!」

 彼は僅かに振り返り、一瞬驚いたようにその大きな瞳を瞬かせたが、すぐさま普段の無表情に戻って肩にかけた銃を持ち直した。

一目で事の成り行きを知ったのだろう。シウンは背を向け、歩き始める。それは、アンナム自身が立ち止まることを許さない絶対的な拒絶にも、信じるものが崩壊した者の末路を直視したくない人間らしさにも取れた。

感情の中に巣食っていた絶望の羽虫が、ふと笑い声に似た音を立てて飛び立つ。

フラッシュバックした記憶に心臓を突き刺され、赤黒い血が滴った気がした。

――何だ。お前は結局取り返すどころか、全てを失ってしまうのか。自分の愚かさゆえに目を瞑り、全部を殺してしまうのか。

違う。そんなこと……!

――現にそうじゃないか。お前が何を守れた? 全部死んじまった。お前が殺したんだ。

血は広がり、寄り集まって薄っすらと人型を成す。それはヨンスクのようで、実の父のようだった。

鈴の鳴るような声が響き始める。

――アンナム。一つだけ、一つだけあるでしょう? アナタガマダ、コワサレテイナイモノガ――

 コワサレテイナイモノ?

 そこだけ明確に形を帯びた人型が、口元を歪ませる。

 彼も無意識に、その言葉をなぞる。

「ソンジュ」

 目の前の青年が、一瞬ビクリと身を強張らせた。

 まるで、それが悪魔の言葉のように。

 めったに崩れない顔が、驚愕を隠せぬまま振り返る。幾ばくかの恐怖も混ざっているようだ。

 その口元が、引きつりながら言葉を紡ぐ。

 人型が笑った。

 どう反応していいのか分からないらしい。負の感情が凝固して、結果的に笑みの形に落ち着いたようだ。似ているな、とかすんだ頭の隅で思った。

「何をおっしゃって……」

「もういいだろう、ソンジュ」

 わたしは、それでも止めを刺した。

「わたしは、疲れた」

 目の前の存在は、怯えた子猫のように身を引いた。

「何をおっしゃるのですか! 僕はカン・シウンです! ソンジュなどと……」

「嗚呼、捨てたのだったな。女であることも、わたしたちの家族であることも」

 彼の瞳の中で、何か絶対的なものが砕けた。ぐっと唇を噛み締め、俯く。肯定以外の何であろうか。

「ソンジュ」

 語りかける。この、目の前の男の中に存在する小さな少女に。

「ソンジュ……もう、わたしに残された家族は、お前しかいないんだ」

 ソンジュは美しい少女だった。拾い子という負い目すら払拭させるほど、他人の中にもよく馴染んだ。ぜひ息子の嫁にと言う声も後を絶たなかったほどだ。

 しかも、見目麗しいだけでなく彼女は驚くほど聡明だった。生い立ちゆえの影は時に現れたが、それでもわたしたちにとって大切な存在には違いなかった。

 ヨンスクによって淡い濃淡を与えられたわたしの世界は、彼女が加わったことで明確な色を得た。極彩色で彩られた幸せは、それでも長く続くと信じていた。

 だが、それはやはり、暗いモノトーンの闇で押しつぶされてしまったのだ。

――ここはどこだ?

――暗い。

――病室? 嗚呼、病室か……。

 ぼうっとした思考で考える。何処までも続くのではないかと思わせる、奈落色の廊下。目の前に立ちはだかるのは薄い病室の扉だ。

――薄い? そんなわけないじゃないか。こんなにも重く、締め切られているのに。

 永遠に開かないだろうと思わせる扉の窓は、そこだけ白く抜き取られ、強すぎる日の筋の中に薄ぼんやりと人影を映し出している。まるで夢うつつのようだ。

 うっすらと目を細めようとしたとき、わたしは手の内の暖かさに気がついた。しきりにもがくそれは、束縛から逃れようと必死で泣き喚いているようだ。

 わたしには、その声が聞こえなかった。すぐ側で上がっているというのに、この悲痛な叫びが届かなかったのだ。次第に闇がくっきりと色を濃くしていく中で、わたしの耳にもその声が届き始めた。

『お母様、お母様はソンジュのために御怪我なさったのでしょう? ソンジュが何も出来なかったから、大怪我をなさったのでしょう!』

 泣きじゃくる声は、ようやくわたしの記憶を明瞭に呼び起こした。

 そうだ、これは過去だ。わたしは、細君となるべき存在を二度も守りきれなかったのだ。

 わたしは過去、同じ場面にあっている。あの時は、実父に責められ自害するしかなかった。それをヨンスクが婚約というかたちで救ってくれたのだ。

 デジャヴ? いや違う。

嗚呼、思い出した。これは二度目だ。わたしは二度、同じ過ちを犯している。

 背筋を、悪寒に似た恐怖が走った。自分への失望が、体温を奪っていく。

 手の中の小さな存在を一度押さえ込み、しゃがんで向かい合う。目線を合わせると、今まで狂ったように叫んでいた少女は、元来の聡明さで悟ったのか急に口をつぐんだ。

 目元は涙で濡れている。噛み締めすぎたのか、唇には血が滲んでいた。

『ソンジュ、よく聞くんだ』

 少女はこくりと頷いた。

『お母様は、立場上身を狙われやすいんだ。国の中には、派閥っていうのがあるからね。ソンジュのおじい様の地位を狙っている人たちが、時にはお母様の御命を狙う。分かるな』

 目に溜まった涙が、落ちることなく量を増した。追い詰められていることが痛々しいほどに分かる。

『今回のことは事故なんだ。いいかい? 犯人は捕まった。すぐにも誰の差し金かはわかるだろう。お母様が御怪我をなさったのは、事故なんだ。お前は悪くない。その場にいなかったお父様が悪いんだ』

 言いながら、胸が痛んだ。嗚呼、そうだ。わたしが悪い。情勢が逼迫していると知りながら、一時でも側を離れたのが悪かった。だが、そう言葉に出すのは重く、身を切り刻むような苦痛を伴った。

 わたしが悪い。その場に居合わせただけで、なぜソンジュが責められようか。責められるのはわたしの方だ。なあ、ソンジュ。なぜそんなに気に病む? そんな小さな身で、なぜにそこまで自分を責める?

 訥々と語るわたしは、自分を痛めつける自分の言葉にのみ意識を向けていたのだろう。目の前の少女は、いつの間にか声を上げて泣きじゃくっていた。

『ソンジュが悪いのです。本当のお父様もお母様も、姉さまも村の人たちも、皆皆ソンジュが何も出来なかったから殺されたのでしょう。その上、新しいお母様までソンジュのために御怪我をなさった。ソンジュが弱いから!』

 雷に打たれた気がした。

この子の闇はこんなにも深かったのか。

この子がこんなに自分を責め続けるのは、過去全てを失ったせいなのだ。だが、なぜこんなにも幼い子が自らを追い詰めねばならない。明らかに自分に責がなくとも責め続けなければいられないのは、純粋であるがゆえなのか。

『いいんだ。いいんだよ、ソンジュは女の子だ。お父様がもっと気をつける。気をつけるから、ソンジュは悪くない……!』

 少女は、焦れたように病室の扉を振り返った。相変わらず、天の岩戸のように沈黙している。

『銃を持ったら強くなれるのでしょう? 皆を守れるのでしょう? ソンジュは皆を守れるようになりたい。女だから銃を取れないのなら、私は女であることをやめます。正真正銘の男になれば、皆を守れるようになれる……っ』

 ずるりと、影は少女を飲み込んだ。

 後に天の岩戸は開かれ、大事無かったヨンスクがけろりとした顔を見せたのだが、それでもこの小さな身が出した結論が揺らぐことはなかったようだ。ヨンスクが、その小さな口から考えを聞いている間中、わたしは身動きすら出来なかった。息をすること自体はばかられる。それだけ危うい空気が満ち満ちていた。

 そう、と彼女は呟き。よく考えて決めたことならと微笑んで見せた。

『あなたがそういう結論を出したならそれでよいでしょう。それは、あなた自身の問題です。あなたがお決めなさい。ですが、もし本当にその道を取るのなら……私はお父様を怨まねばなりません』

 少女の表情が一瞬、凍ったように固まった――。

 そして今、同じように驚愕で凍った目を向けたまま、青年はアンナムを見つめているのだ。部下であるシウンと、幼い少女の中で漂っていた意識が、どうやら傾いてきたらしい。

「ですが、ヨンスク様はもう……」

「ああ。みんな死んでしまった。わたしが守れなかったのだ。どう足掻いたとしても、わたしは変われなかったんだな。はは、ソンジュ。お前の方がよっぽど利口だったようだよ」

 わたしはあの日から一歩も動けてはいない。結局、砕けた過去をかき集めて生きてきた結果がこれだ。

「だからソンジュ。もういいだろう? ヨンスクもきっと許してくれる。もう一度、家族に戻ろう。もう一度、わたしたちの娘に」

 シウンの顔が歪む。その目には、すでに鋭利な技術を持った殺人者の面影はない。

 涙が溜まり始め、溢れようとする感情を堪えるように食いしばられた口元は、時は経っているがあの日と同じだ。失われていた少女は、完全に息を吹き返した。

 赤茶けた色で占められていた視界が、クリアになる。驚いた少女は、きょろきょろと辺りを見回した。全部が違う。死の臭いをかぎ分ける以外、完全に死んでいた嗅覚も、冷淡な音しか拾い上げなかった聴覚も、全てが。

 少女は戸惑った。

 戻れない。戻れるはず、ないではないか。現在の自分は、過去の積み重ねによって生み出されたもの。意図的にシウンとして生きてきた時間が、それを許すはずはない。細胞に叩き込んだ兵士としての慣習が、後ろ手を取る。お前は誰だ? ここまで生きてきて、戻れると思っているのか。ははは、結局お前は弱さに逆戻りか。何も守れず、何も得られず、尻尾を巻いて逃げ帰るのか。

 多重人格であれば、いくらかよかっただろう。すぐさま過去の自分すら捨てられたはずだ。だが、自分にはそれが出来ない。男として生きることを決めたのは、他でもない自分自身なのだ。耳を塞いだ。目をぎゅっと瞑った。反動で、涙が一粒零れ落ちた。

 迷いを察したのか、目の前に手が差し出される。

 困ったような顔で見上げる。その姿が、我ながら幼く思えた。

 嗚呼そうだ、僕は――私は、ここから動けてはいないのか。成長してはいないのか。

自らに縛られ、窒息していたのか……。

 目の前、絶対的指揮官から父親に戻ったアンナムが、何事か口にしている。

 ずるり。光が。

 次第に思い出し始めた一人間としての感情が、空っぽだった胸の中を浸していく。

 手を伸ばそうかと躊躇い、肩にかけた銃が落ちた。金属的な音が響いた。

 キラリ。

 ソンジュが、腕から滑り落ちた銃を目で追ったとき、その背後で何かが光った。

 アンナムの脳裏に嫌な予感が煌めいた。本能的に察知する。

 アレは、

 狙撃銃の、

『……っ!』

 咄嗟にその身を引き寄せ、背に庇うと鋭い発砲音の後で視界が一瞬真っ赤に染まった。

 問答無用で狙撃せよ――非情なアンドロイドは、何の感情もなく、ただ目標をみつけたから狙撃したのだ。ピタリと固定された銃口から発射された弾丸は、だが反射的に体勢を入れ替えた存在のために僅かに軌道が反れ、そのわき腹を抉った。

 背に隠れたソンジュが、驚愕に目を見開く。

赤だ。人間として忌むべきアカだ……!

 半ば放心したような少女を引っ張り、近場に詰まれた木箱の影に転がり込んだ。それでも、諦めない弾痕は縋るようについてくる。

 止むことのない発砲音の中、妙に寒々と感じ始めた体を覆いかぶさるように丸めた。血が流れる。止まらない。痛みは彼の抵抗を嘲笑うように断続的に続き、残された体力すら容赦なく奪っていく。ソンジュが手にした銃のストラップには、アンナムの血が染み始めていた。

 どっちにしろ、状況が変わらなければここから逃げられないだろう。角度から考えると、正々堂々応戦体勢を整える前に、こちらに照準を合わせられる。このままやり過ごせるとも思えない。そんな暇があれば、仲間を呼ぶだろう。となれば、反撃のチャンスは今しかない。敵が単独である今しかない!

『ソンジュ』

 嗅ぎ慣れた硝煙と血の臭いに、笑みの形に口元を歪め卑屈に笑った。ああ、そうだ。それがいい。コレガ、楽デハナイカ。

光の宿らない瞳をクルクルと瞬かせていたソンジュの手を取り、思い切り抱き寄せると銃口を握り締めた。

『このまま撃て』

 ソンジュが弾かれたように覗き込んだ。ドラグノフ狙撃銃の銃口を胸元に持っていき、にやりと笑って見せた。

『この角度からだと、お前が狙いを定める所など見えない。私の影に隠れれば、あっちには手も足も出せないんだ』

『でも……』

『やれ。仲間を呼ばれると面倒だ。今のうちに』

 チャンスは一回だけだと続け、握った銃口を腕と横腹の間に挟み、しっかりと固定させた。銃口は確かに相手を捕らえている。だがきっと、あっちからは影となって見えないはずだ。

 それでも尚、首を振る少女に、アンナムは鋭い視線を据えた。

コンクリートについた手に、粘着質の生暖かい感触が伝わってくる。出血が酷いのか。

『二人して犬死する気か』

――ヤレ。

 カチン、

 ソンジュの中で何かが嵌った。そうだ、私はソンジュ。カン・シウンという諜報員の洗練された記憶と、技術を持った者。それ以上、何が必要だろうか。

 ゆらりと銃口がゆれ、殺人者の瞳を取り戻したソンジュが僅かに伝わってくる気配に目を凝らした。

照準を調整するスコープが、キラと光る。それだけで十分だった。

獲物は見つかった。

彼女は、瞳の色を一層険しくし、伝わってくる息遣いすら頭の外に追い出して、ただ手の中の存在と一つになった。

ただ引き金を。

嗚呼、なんと簡単なことか。これだけで旨くすれば人が一人死ぬのだ。

顔を狂気に微笑ませ、躊躇うこともなく引き金を引いた。長い間技能を叩き込まれた体が、反射的に動いていた。

ほぼ同時に相手方でも閃光が弾け、目の前で、

砕けた。

確実に当てた感触はある。手の内、熱した鉄の塊と一体になった視覚が、確かに捕らえたのだ。一瞬の驚愕と、翻された銃が煌めくのを。一瞬だけ、息を呑むように放たれた呻き声を。

だがしかし、シウンと同化したソンジュはすぐさま眉を顰めた。あの角度では、打ち抜いたのは、精々腕の一本か脚だ。ちっと舌打ちが漏れかける。

突如としてかけられた重みが増した。不服をかき消され、滑り落ちそうになった体を何とか支えようと背に手を回す。

ぬるりと、生々しい手触り。ようやく人間味を思い出した頭に、空白の時間が振り落ちた。

抱え切れなかった肉体は、ゆっくりと地面へと横たわる。思わず息を呑んだ。

やってしまったのだ。

僕は――私は、残っていた最後のものまで殺してしまった。

荒い息を繰り返すそれの背には、あまりに小さな銃傷と、あまりに大量の鮮血が。

 照準を合わせられていたのだろう。ほぼ同時に打ち出された銃弾は、狙撃手の狙い通り、目標の息の根を奪おうと飛来したのだ。

 僕がもっと気を配っていれば!

 広がっていく血溜まりを瞳に映し続ける。停止した脳は情報を受け取ることすら出来なくなり、ただ事実だけが音もなく流れるスクリーン映像のように続いていく。

 混乱を悟ったのか、出血で霞み血走った眼を傲慢に動かし、アンナムは唯呆然と立ち尽くす愛娘を見上げた。顔は蒼白で、血の気どころか表情すら失っている。

 寒い。体温を奪われ始めたのか。

 彼は、ふと旨く機能してくれなくなった筋肉を騙し騙し、何とか笑みを形作る。眉間には皺がより、どちらかというと困ったようなそんな微笑を。

 橙に近い色が、伸ばした掌に見えた。それが己の血だと分かる前に、少女の手に握られた銃口に這わされる。

 痛みなど、腐るほどに耐えてきた。寒さもどうということはないはずだ。だが、今はどうだ。まだ限界など来ていないようにも思えるが、腹の中は煮えくり返り、どんな雪の中よりも体は容赦なく冷え切っていくではないか。四肢がばらばらに切り裂かれたのではないかとすら思う。そうだ。わたしは死ぬのが怖い。自分が行ってきたことなど棚に上げ、容赦なく死を迎えることが無性に怖い。それに何より――

 ――お前にまだ何も、してやれてはいないじゃないか。

 目の前の瞳に、みるみる涙が溜まっていく。また泣くのか。はは、お前は泣き虫だなあ。そうやって、人が死ぬたびに泣くのを我慢してきたのだろう。辛かったか? 苦しかったかい。もういいよ。お前は、お前は。

『……ウテ』

 ――イキテイルノダカラ――

 見開かれた目から、色が失せるのが分かる。

 それでも、長年叩き込まれた番犬の血は従順に反応した。

 目の前の男は、少女としての感情を一掃させ、あの時と同じ、命一つを奪うには軽すぎる引き金を、

 ただ無感動に、

 

 引いた。