都内方々に散っていた同志が集められ、全技術、人脈、能力を持って捜索は行われた。当初はもちろん、ヨンスクの父オ・ヨンチョル中将に極秘で連絡を取るだけであったのだが、数日後、事態は急変する。その数日というブランクを、優秀と見るか否かすら見失うほど突拍子もない事態だ。

 アンナムは沈痛な面持ちで人間たちの住まう足元を這った地獄を歩いていた。足元の非常灯のみが光源だ。久しく入れ替えていないのだろう、不快な湿っぽさの中に、鼻を突く黴の臭いがした。

 無言で一つの部屋に通されると、不吉な音を響かせながら頑丈な鉄扉が開く。そこから先は、まさに異世界であった。空気が変わる。重く暗く、皮肉で、気味が悪いものになる。憎悪すら抱きうる臭気がぐにゃりと歪み、ようやく開かれた逃げ道へと殺到してくる。

思わずたじろいだ。見開いた目に、あまりに鮮やかな青が入ってきた。濃厚な闇とコンクリートの灰色、影だけが存在する室内で、それだけが異端だった。

部屋の中央、まるで手術台か祭壇のように置かれた長机。その上には、薄汚れたブルーシートがかけられている。

大抵のものは気づくだろう。この異常な臭気は、このシートの下から発しているのだ。

大抵のものなら気づくだろう。あのシートには、所々赤黒い染みが見受けられるのだ。

ごくりと唾を飲み込む。酷使され続けた喉が痛んだ。

息を止めるように意を決すると、室内に足を踏み入れる。わき目も振らず、近付いていった。

ああそうだ。これは嗅ぎ慣れた臭い。《人トシテ嫌悪スベキ臭イ》だ。予感はことごとく的中していく。ああそうだ。これは見慣れた水溜り。《人トシテ憎悪スベキ液体》だ……!

息が荒い。考えたくない。だが言葉とは裏腹に、暴走を始めた脳は止められず、最悪の状況ばかりが浮かんでは、足を、全身を重くしていく。彼は知っていた。自分を追い詰めるこの悪い想像も、ほぼ全て当たるだろうことを。

唾を一つの見込み、薄汚れたブルーシートに手をかける。震える指の下、ブルーシートが僅かに捲れ、彼が最も見慣れていた色が僅かに覗いた。

嗚呼、神様。

彼は無心論者だ。絶望の淵の綱渡りを繰り返してきた身には、そんな存在を信じる繊細さなど端からありはしない。それでも尚、呟きたかった。口にしたかった。

神様、

我々は、

『地獄は何処まで続くのですか……?』

 目の前の物は、死後時間がたちすでに腐り始めている。義父となるはずだったものにシートをかけなおし、目頭を押さえた。泣くだけの精神も持ち合わせてはいなかった。ただジンと、針で突かれたような鋭い痛みが走る。

 押し黙り、室内を出た。ちらりと視線をくれた部下の顔は、苦悩に顰められている。君の方が大変だっただろうに。あんな死体を運ぶなど骨が折れるはずだ。わたしなど、取るに足らん。わたしは唯、事実を告げられ、ここに来て去っていくだけだ。君たちのように危険を冒してもいない。

 ずるりと、ついてくる影が重くなった。足は無意識に、一人の存在を探していた。

 

 半ばヒステリックに怒鳴り散らし、連静は自室から部下を追い払った。それでも指示はしっかりと行ったのだから、むしろ褒めるべきだろう。

「目標発見次第、すぐさま撃ち殺しなさい。捜査員も増やして。徹底的にやるの!」

 深いため息を一つ、座り心地のいい椅子に体を沈める。不眠不休で篭って、どれほど経っただろう。時間の感覚などもはやない。

――早くしないと、お父様に怒られてしまうわね……。

 焦りで腹の底がふつふつと沸く。しかしよく目を凝らしてみると、彼女の怜悧な脳は対照的に冷え冷えと冴えている。自分の感情が二つに割れたような奇妙な感覚に半ばうっとりと目を凝らしながら、思い切り足を投げ出した。平生なら叱責される行いだろうが、なに、ここは異国で、彼女が恐れる絶対神も睨みを効かせてはいない。

 凶暴な人工の明かりに目を瞑り、むしろ心地よくなった疲労に浸ろうと大きく息を吐き出した。意識的に酸素を入れ替えることで、細胞が生まれ変わっているのではないかという錯覚を覚える。

 だが、それも長くは続かなかった。筋肉の緊張もほぐれ、ようやくうとうととまどろみ始めた矢先、長く沈黙を守っていた電話のベルが、けたたましく鳴った。私が手に入れられた唯一の幸せは、一瞬にして打ち壊され霧散してしまった。

 さすがに殺意すら沸き起こる。だがそこは、気を抜いてしまったために先ほどとは桁違いに重たくなった体が、余分な動きを制し思いとどまった。伸ばした手先で冷たい感触。

 受話器を取ると、はた迷惑な相手に呪文のように言った。「はい、第三司令室」

 電話口ではっと息を呑む。焦った足音と何か大きなものが崩れる音。電話口に響いてくる遠い喧騒を拾い上げようと耳を凝らしていた身には、ぶつっと何かが切断する音はあまりに大きく聞こえてきた。

 悪戯?

 今度は明確な殺意を感じながら、受話器を耳から離そうとした。その時、聞こえてきたのだ。何だか妙に緊張感のない声が。

『あーあー、もしもーし。入ってるよね……うん、よし。たぶん大丈夫だろ』

 それは、唯の独り言にしか聞こえない。だが、耳に覚えのあるその声は、次の瞬間、明確に電話口の彼女へと語りかけてきた。

『お久しぶりです、と言ったほうがいいんですかね、王連静さん。一応、はじめまして。わたくし、あなたの下で働いております……コ・スンファン大尉と申します』

 凍った。思わず受話器を凝視する。

『お前……っ』

『あ、話しかけようとしたって無駄ですよ。現在、俺は確かに死んでいるはずですから。あなたも身にしみているでしょう。俺を殺すのはきっとあなた自身だ。はは、だからって亡霊だとか怨念だとか非科学的なことは無しですよ。俺、結構そういうの弱くって。初めに言っておきます。これは録音です。このテープは、我が舎弟、ジンイルに託します。彼は正義感が強いから、きっと約束を果たしてくれるはずです。ねえ、聞こえてますか? 俺はここです。今、過去からあなたに話しかけます』

 懐かしい声だ。いつも少し上の位置で聞こえていた、体の奥に響く低めの声。彼は、一息つくと朗々と語り始めた。死ぬ間際と同じで、嫌に落ち着いた声だった。

『俺の演技はどうだったでしょうか。少しは信じてもらえていましたかね。ここまでやって、死に際が無様じゃ割に合いませんから……。うん、それはまあいいや。すでに終わったことだろうし。えっと……俺は、全部知ってます。悲しむべきことだけど、この業界長いんです。大体の概要は掴むことができました。あなた方が困った状況に追い込まれていることも何となく知っています。だが、それに個人を……僅かとはいえ、個人を巻き込むのはいただけません』

『あの野郎……きれいごとを……』

『俺だって、個人が集団を形成し、一部の個人を犠牲にすることで、集団の秩序が保たれることは分かっています。ですが、だからといって黙殺する理由にはならない。愚かだと嗤ってもらっても結構。だが、いくら夢物語であれ理想を持たず、黙殺するのでは世界は変わらない。あなたもそうだ。犠牲を犠牲として諦め、黙殺する。思考を止めることこそ最大の腐敗である。餓鬼臭い理屈だと言われようと、俺はそんなあなた方を断固拒絶する』

 絶対的な冷たさで、ずぶりと突き刺された。骨の髄まで凍らされたのではないかと錯覚する。冷や汗が頬を伝う。何だ、何だ、おまえは何が言いたい?

『諦めと自嘲の篭った嘲りから作り出された感情が大人である証拠なのなら、俺はそんな物いらない。性悪説など支持しない。夢を見ることの何が悪い。戦争はなくなると信じて何が悪い。世界が平和になると信じて何が悪い。初めから諦めてかかっている人間に比べれば、よっぽどその方がまともだ。よっぽど希望が持てるじゃないか。諦めた時点で、その未来は永遠に手に入らないんだよ。だったら、夢を持ち続けてさえいれば例え数パーセントでも実現する可能性があるじゃないか。子供だって出来る計算だろう。足掻いて何が悪い。みっともなくて何が悪い。初めから他人からどう見られるかなんて、考えちゃいねえんだよ。あんたは嗤うかい? 博識気取って未来諦めてる奴らと同じように、馬鹿だ愚かだ子供の理屈だと俺を嗤うか? 端から幸せ諦めて、自分が生きるために周りの人々に絶望しかもたらさない神にすがっているよりはマシだと思うがな』

 服の裾が急に引かれたような気がした。乾ききった瞳が震えながら動き、それを追う。錯覚だと分かっていながらも、薄ら寒い風が皮膚を冷やす。体内は火傷するのではと思うほど熱く感じられるのに、表面だけは妙に冷たい。

 幸せを諦め、絶望しかもたらさない神にすがっている――これは、私だ。

 どこか次元の違うところで、しかし生々しいほど近い世界でどろりとした赤黒いものが揺らめいた。ああ、これは私だ。幼い頃から否定し続けた、私なのだ……!

『俺は、彼らにヒントを与えた。あんたが何者か、何処に属しているのか。表立っての経歴をね。それだけで十分だ。裏に隠された血生臭いものなど見なくとも、それだけの要素で真実にはたどり着ける。今度はあんたが追い込まれるぞ』

 今まで耳にしたことのない卑屈な笑い声が響いてくる。その声が大きくなるごとに、得体の知れない黒いものは濃度を増して、私が閉じ込めた闇と今にも同化しようとする。私にはそれが、愚かな私を嗤っているように思えた。

 それでも、私は逃げられない。この状況が悪だと、間違っているのだと言われたところで逃げられるわけがない。あの方が許さない。逃げられないじゃないか!

『あんただって被害者だ。俺はそう思う。だけどな、被害者は加害者に回った時点でお仕舞いなんだよ。あんたが特定の人間を信仰するのは勝手だがな、人間である以上、欲も出るし間違いも犯す。その全部を肯定しちまったらお仕舞いだ。あんたが鼻で笑う旧制帝国主義と同じなんだよ。あんたは義務感で側にいるみたいだが、それは違う。人間なんて結局は一人だ。やろうと思えば親子だって、兄弟だって縁を切れる。けれどそれでは悲しいから、他人と寄り添うことで絶望しそうな世界を生き抜こうとするんだ。あんたは無理だと思ってるかも知れないがな、縁は切れるんだよ。世界にゃ大小数え切れないほどの神が存在してる。地球にいる何億って人間が思い思いの宗教を持ってるんだ。そう考えりゃあ、そう難しいこととも思えねえだろう』

 間違っている? 間違っているというのか。私が、あの人が。

 五月蝿い、そんな精神論聞いてるだけ無駄なんだ。

『俺に従兄弟がいたことはあなたもすでに知っているはずだ。俺はそのために動いていたんだから。どうだい、俺はしっかりと死んだのかい? そうなると、少なくとも二人の人間がこの世から消えていることになる。それも、肉体的なものだけではなく、全てを包括した死という観念で、俺を殺すことで少なくとも二人が死を得ると言っているんだ。

あんたは人間とはたった一つの固定された存在であって、それ以上でもなければそれ以下でもないと考えているだろう。確かにそういうのならその通りだ。人間はどう願ったところで他の存在にはなれないんだからな。今日の俺も過去の俺の積み重ねで、切っては切り離せない。だが、それと死とは同じにしちゃいけない。

生まれ変わった、って表現は本当にあるんだよ。あるときから感情が百八十度変わってしまう。良くも悪くもだ。だとしたら、肉体は生きていたとしても過去との死別だといえないだろうか。

先に俺は言ったな。あんたが俺を殺すことで、少なくとも二人の人間が死ぬって。一人は俺が愛しんできた女性。アレは脆い。後追い自殺をするやもしれない。いや、たぶんするだろう。それを食い止めるためにジンイル本人に仕向けたが……期待薄だろう。二人目は俺の従兄弟のジンイル。彼も少なからず過去には戻れなくなる。過去の精神の死別だ。

しかも、これは俺が死んで死ぬものたちの数字だ。人間は生きている限り、少なからず他人に影響を及ぼす。お前が動いたことで、それ以上の人間たちに死を与えていることに気づかなくちゃいけないんだ。死だってな、目に見えるもんだけじゃないんだよ』

初めから諦めてちゃ、叶うもんも叶わない、と呟いて音は途絶えた。後に残るのは、耳障りな雑音だけだ。

受話器を離せなかった。いつの間にか雑音も消え、回線も切断されたのか無機質な電子音が等間隔で響き始めている。

間違っている? 私が?

被害者だと?

はっ、戯言を。何が神だ、何が死後の世界だ。勘違いもはなはだしい。

「はは……ははははっ」

 乾いた笑い声が零れる。受話器を握る手はその形で固まったまま、ピクリとも動こうとしない。

 だが、なんだ?

 何かが不自然だ。何かが違う。

 ナニカガ、タリナイ。

 脳がようやく紡ぎ始めた否定の言葉も、そう問いかける声にかき消された。

いくら取り繕ってみても、腹の底に沈殿した黒い物体をかき回された事実は、もはや拭いようのない違和感と疑念を彼女の中に滲ませていく。

 何故?

 なぜ?

 ナゼ……?

――カチッ。

 再生停止ボタンをゆっくりと押し込み、真一は深く深くため息をついた。

 部屋の入り口で人影を警戒していた熊が、おっと驚いた目を上げた。

「終わったのか?」

「ええ。無理をきいていただいてありがとうございました」

「何て言ってたんだ」

「さあ……。僕が分かるのは日本語だけですから」

 黒光りする機械の中からカセットテープを吐き出させ、大事そうに仕舞い込む。端に薄っすらと朱が引いているのは、ふき取り忘れて固まった血糊だろう。

 テープケースには、一枚のメモが挟まっていた。従兄の字だ。

――ジンイルへ。

   本当なら己でやらねばならないことを託す。俺にはもう、時間が残されていない。

   このテープを手にしたら、ある人物のもとへと電話をかけてほしい。

   相手が何を言ってきても、答えてはならない。唯黙って、このテープを流すんだ。

   忘れぬよう、頼む。直通番号は――

「備品、使わせてもらってありがとうございました。僕らの手持ちじゃあ、機器が足りない上に、どうしても極秘だったので」

 あの日、熊に出した条件にはこれがあったのだ。頭を悩ませた熊は、自分が当直の時に目を盗んで忍び込むことで同意してくれた。「俺は何も知らんからな」が優しさだとは馬鹿でも分かる。その証拠に、結局はこうやって手引きするのだ。

 

 ひとりになった熊は、デスクにあった一枚の書類を拾い上げる。そこに書き付けられていたのは、真一が手にしていたカセットテープと同じ筆記。

 余計なことは知らなくていい。この事実が上に通れば、あいつは逃げる必要がなくなる。

 だからこそ、あえて逃がしているのだ。面倒ごとは、無実が証明されてからで十分。