人の煩悩、穢れを飲み込んだ都市の闇は深く、薄汚れている。

 熊は、排気ガスや人いきれの混ざった空気を思い切り吸い込み、見誤ったかとため息をついた。こっちの道を通るんじゃなかった。

 どこからか小さく電話のベルの音が聞こえてきた。雑踏の中、騒音を掻き分け、視線をめぐらせる。店先にひっそりと立つ古ぼけた電話ボックスに目が留まった。確かにベルが鳴っている。

 誰も出る様子のないことを確認し、電話ボックスに入って受話器を手に取った。

「桂木巡査部長?」

 聞き覚えのある声だ。一瞬真っ白になった頭をフル回転させて、「間宮か?」と吹き込むと、嬉しそうなはしゃぎ声が電子音となって届いた。

「ああ、よかった。分からなかったらどうしようと思ったんだ」

「おい、お前今何処にいるんだ? もし俺が出なかったらどうする気だったんだよ」

「今? 今ですか、近くにいますよ。とっても近くに。だから、出なかったらってのは無しです。巡査部長が通ったのを見計らってかけてますから。もし違う人が出たら、切ればいいことですしね」

「お前なぁ……こんなことしてていいのかよ。俺は警察だぞ」

「僕は元、警察です。巡査部長だったら、電話切ってまで捕まえようとしないでしょう」

「……肝座ったな」

「おかげさまで、社会に揉まれましたから」

 受話器を握りなおし、長電話を覚悟した。

 本来なら、すぐさま応援でも何でも呼んで身柄を確保すべきだろうが、そうしたくない理由が鞄の中で息を潜めていた。ついさっき届いた封書には記名がなく、それでも彼自身を納得させるだけの証拠とやらが丁寧に収められていた。

「で、何の用だ。捜査情報なら漏らせんぞ。腐ってもお役所勤務なもんでな」

「そんなんじゃありませんよ。ああ、もしかすると少し引っかかるかな。教えてほしいことがあるんです。協力してくれます?」

「……内容による」

「あ、じゃあ一応言いますね。日本勝浦のことを教えてほしいんです。出来れば、親会社からなんで独立したのか、どんな罪を犯したのか」

「そりゃあお前、横領だって……」

「それが少し違う可能性が出てきたんですよ。たぶん、本当の罪があるはずです。さすがにそこまでは調べられないでしょうから、《日本勝浦がやっていた商売はなんだったのか》を調べてほしいんです」

「……お前なァ」

「大丈夫、追われる前に知っていた情報だと言い張ります。皆に害が及ぶことはありません」

 へらへらと笑い声が聞こえてきた。それ以前に捕まりませんがねえ、というのは、今になっても仲間を気遣う己への照れ隠しだろう。

「うまくいけば、僕の冤罪を証明できるかもしれない」

 熊は、どんよりと闇の垂れ込めた空を仰いだ。濃厚なそれは、今にも腐臭が臭ってくるのではないかと思わせる色で、流動していく。星はない。人間たちの芥に食い殺され、怯えて逃げてしまった。あるのは唯、悲しい人間たちが一時の享楽のために作り出した数多のネオンだけだ。

「……分かった。一応調べてみる」

「やった。連絡はこちらからいたします。あ、逆探知はしないでください。僕はあくまでも、桂木巡査部長と個人的に落ち合っただけですので。巡査部長だったらそんな野暮、しないとは思いますがね」

 屈託なく声を響かせ、真一は己を隠す闇を見上げた。生ぬるい闇に彩られた空。気味が悪い。所々ライトアップされ、反吐が出そうな色だ。

「後、もう一つ。お願いがあるんです」

 これは個人的な上、少し困難なんですが……。熊は町の片隅で、受話器から漏れてくるあの世からの交信へと頷いていた。

 

 疑問を持った警察側と、逃亡者の極秘の接触は、翌日の深夜行われた。熊は、しょぼついた目を擦り擦り、受話器を肩で押さえた。書類ケースから取り出したクリアファイルには、彼らが担当していた事件で調べられた事実が載っている。老眼が入り始めた目を細め、書類を持った手を伸ばせるだけ伸ばして、文字を追った。

「あー、日本勝浦な。やっぱ汚職事件だわ。横領に汚職。ろくなもんじゃねえ」

「職種は?」

「色々だな。主に工業関係をやってるみたいだが、急成長してからは、製造・販売業・果てにはブティックまで」

 真一が顔を顰める。

「ヒントはなさそうですね。表立って調べるのには限界があるってことか」

「そうだな……。少し気になることがあるにはあるんだが」

「何です?」

 電話口の熊は、僅かに考えをめぐらせ、口を開いた。電子音が言葉という形を成して漏れてくる。

「お前、K&Iについても気にしてたろ。だから一応、そっち関係で調べてみたんだ。日本勝浦は、戦中はアメリカにある本社の子会社の一つだったが、戦後になって未開の地である日本にやってきたらしい。その理由なんだが、少し不穏でな」

「不穏……ですか」

「ああ。実は、本社と他企業との間に問題起して、それで勘当寸前で追い出されてきたらしい。派閥問題やら他にも要因はあったみたいだが、日本勝浦仕切ってた社長が悪かったみたいだな。それで、日本に来た」

 派閥争い……と小さく呟いて、真一は考え込む。それなら、あの王連静なる女はどうだったのだろう。生き残った側の人間だったのだろうか。

「で、技術もない、後ろ盾も何にもなくなった日本勝浦が取った方針が」

 一呼吸置いて、続けた。

「両国の政府筋を相手にした、軍事産業だ」

「軍事産業?」

「ああ、初めはパート雇って弾丸の火薬つめなんて、チマチマしたみみっちい仕事だったらしいんだが、んーと……あれだ。朝鮮戦争に自衛隊配備まで重なっただろ? それで一気に急成長したらしい。今じゃ表立っては離れてるらしいが、今でも技術はぴか一だそうだ」

 真一は、耳に当てた受話器のマイク部分を手で覆い、「だ、そうです」と後ろを振り向いた。時折蛾が飛ぶような音を立て揺れる蛍光灯の明かりの下で、アンナムが難しい顔を虚空に向けていた。背後に歩み寄ってきたシウンが、小さく耳打ちする。

「K&I方面で調べたところ、王連静なる人物は、日本勝浦担当役だったようです」

「当たりかも知れんな」

 パイプ椅子を軋ませ、真一が身を捩らせる。

「じゃあ、王連静はK&Iの関係者と見ていいんですね」

 シウンが頷く。

 熊の話では、軍事産業を支えていた日本勝浦が急成長したのは、朝鮮戦争の特需がきっかけらしい。それでも何かが引っかかる。感覚的な何かが、違うんじゃないかと叫んでいる。

「日本勝浦と、K&Iの仲はよかったんですか?」受話器に吹き込む。

「あまりいいとはいえなかったようだな。勝浦にしてみれば、あっちは暴力的権力者で、自分たちを追い出した張本人だ。K&Iにしてみても、自分の顔に泥を塗った恩知らずだろうし」

 恩知らず――。

「じゃあ、日本勝浦はアメリカ自体を怨んでいた可能性もあるんですね。K&Iは政府の中枢にも食い込んでいましたから」

「そりゃそうだが……それがどうした?」

 訝しそうに答え、熊は問いかける。だが、真一は耳を貸さなかった。

 追い出された企業、新天地での不安、親会社への怨みつらみ、朝鮮戦争の特需、俺が日本勝浦の立場だったらどうするか……?

――か――く――唇が勝手に紡いでいた。

 脳裏に鮮やかに蘇った血の色。それ以上に鮮やかな唇は、何かを紡いでいた。その時は分からなかった言葉が、急に音として像を持つ。

――カ、ク――

「そうだ、核だ。日本勝浦は、その筋では最高の技術と人員を持っていた。材料さえ調達できれば、作ることは出来たんだ!」

 言葉が、決壊したように溢れ出した。思い始めれば、そうとしか思えない。

 アンナムの表情が、驚きで固まる。粗末なパイプ椅子から立ち上がった真一は、詰め寄るように駆け寄った。

「正確に言えば、核兵器ではありません。放射線物質を使った、核兵器もどきを作るのです」純粋な目がキラリと光を湛え、頬は興奮で僅かに赤らんでいる。

「日本勝浦なら作れる。いや、作るはずなんです。事件に携わっていた時、上層部の関係者に会ったことがありますが、皆一様に技術者や研究家肌だった。試さないはずがないんです。人間は好奇心には勝てませんから!」

一瞬面食らったアンナムが、咥えていた煙草を落としそうになった。

「だが、材料はどうする。核弾頭に使う材料など、そう簡単に調達できないだろう」

「ありますよ。日本国内でも、ひとつだけ」

 真一は不敵に笑うと、大きく右手を頭上に伸ばし、天を指した。目で追うが、赤錆の浮いた鉄骨とトタン屋根ばかりが目に付き、めぼしいものは見当たらない。

 一瞬の沈黙に眉を顰め、口を開きかけたが、その耳に信じられない音が届いた。潮騒の奥、遠い人間の住む場所で、それは迷惑極まりない騒音で怒鳴り上げていた。

 はっと顔を上げる。シウンもその存在に気づいたようだ。

「原子力発電所か……」

 満足げに真一の顔が歪む。小さく届いてきたのは、反原発運動の宣伝演説だ。

「放射性廃棄物をミサイルに載せることはできますか?」

「まあ、出来ないことはないが……」シウンに視線を移す。

「核分裂は起せませんが、火薬による爆発を伴えば、一帯を汚染することは可能でしょう。発電に使われるウランは、濃度こそ違えど核兵器に使われるものと同じ、ウラン235……。せいぜい二パーセント程度の低濃度のものから作られる物質にどの程度の効果が見込めるかは不明ですが、しかし相手に対する精神的圧迫と混乱は見込めます」

「僕の上司に、十一年前、発電実験に使われた放射性物質の紛失事件に関わっていたものがおります。公文書は、書き換えられたんだ。放射性物質は、確かに減っていた。口裏を合わせたのか、単に知らなかったのか。確固たる証拠は残り、曖昧な証言は一蹴された。国内にも手を汚した者がいたようですね。恐らくは利権目的でしょう」

「だが、もしそうだとして、なぜわたしたちが巻き込まれる必要がある?」

「そうですね。最もです。ですが、こうは考えられませんか? 日本勝浦は、自分たちを追い出した親会社どころか、アメリカ自体を怨んでいた。そこに、好奇心で作り出した俄か核兵器が存在する。しかもここは、非核三原則を持つ核アレルギーの国民の国だ。見つかってはいけないですよね。秘密裏に処理したいはずだ。でも、起爆させて処理するには世界情勢はデリケートで、足もつくだろう。相当金もかかっている。元手は取り返さないと癪に障る。だが、当のアメリカには渡したくない。自分たちは怨んでいるし、何より絶対権力の親から糾弾されるのは嫌だった。子供心に、親を困らせるには……」

「……敵対国に売り払う」

「ご名答」

「そうか、それで北が選ばれたんだな。アメリカと完全に敵対して、それでいて、当時最も存在しても不思議じゃない場所だ」

「はい、それが一企業であったのか、国家ぐるみであったのかは分かりませんが。自分たちは厄介物が消える、北にとっては撃っても良し――証拠が消えるわけですからね――、脅すも良し。金も入るしバンバンザイだったと。恐らく、アンナムさんはその場……もしくは関係者に僅かでも接触されていらっしゃったのではないでしょうか。それで、アメリカに感づかれた日本勝浦が、自分は知らないと無視を決め込み、追い詰められた北は人柱を立てることにした」

「それが私か」

「そう考えると、彼らの動きも分かります。感づいた大国、親に睨まれ半泣きの子供、できれば水に流したい小国……。彼女が派遣されたのも、一つは技術職で一部にしか存在を知られていなかったこと、二つ目は腹心である島国に騒がれたくなかった大国の利益と、小国の利益が合致したこと。それさえあれば、彼女が存在する理由もある」

 結局は、反乱を恐れ牙を抜いた猛犬である日本の世論に噛み付かれるのを恐れたのだ。非核三原則を喜び受け入れながらも、当の大国のために民族は極度の核アレルギーに陥っている。そんな彼らの手のものが日本のお膝元で、偽者とはいえ核兵器を作った。事態が公となれば、企業どころか国家の品位に関わる。下手すると、対共産主義国家との最高の砦である彼の地を、追い出される可能性すらあるのだ。

 納得したように呟いたアンナムを目に、真一は電話に向き直った。一種の高揚感が室内に渦巻いている。

「だったら、ヨンチョル様に一度接触してみた方がいいかも知れんな。あの方は恐らく、事実を知らないか操られている可能性が高い。もしかすると、協力を仰げるかも」アンナムは一人頷いた。

方針は決まった。国外逃亡と平行して、あらぬ疑いである諸悪の根源を潰す。

外部放送のスイッチを切る。受話器の中に流れ始めた声は、これで真一だけに対するものとなった。

「それで、もう一つの件ですが」

「ああ、それは少し待ってくれるか。さすがにこればかりはどうにも……」

 分かっています、と応じ、真一はこっそりと微笑んだ。