警察に見つからぬよう、慎重に進む必要があった。
恐らく今回の出来事で、警察も何らかの手を打とうとするというのが三人共通の見解だ。
「だからとりあえず、マスコミが騒いでくれているうちに逃げ出せるようにしないと。警察も結局の所サービス業的なところもありますから、今は民衆の批判を抑えるので大変だと思うんです」
真一の意見に、彼らは行動を開始する。とにかく今のうちに合流地へと急ごう、という結論に落ち着いたのだ。もちろん、指名手配などの方策を打ってくることは目に見えているので、隠れながら急ぐ、というもの無茶なだったが。
交通網は、軒並み抑えられている。宿谷家とシウン、まだ各国の手に落ちていない双方の人脈を使う以外は、徒歩での移動だ。
薄暗い路地裏を慎重に這うように進みながら、彼らは方々に目を走らせていた。突き出たパイプが、時折音を立てて雫を滴らせている。足元をさっと過ぎったのは大きなネズミだろうか。
真一は、目の前の二つの背に漂う覇気を感じながら、なぜあんなに元気なのだろうとため息をついた。体に圧し掛かっていた疲労が倍加した。
古びた建物群を抜け、目の前が開けると同時に、シウンが物陰に隠れて辺りを窺う。目の前に広がったのは、人っ子一人いない鮮やかな青だった。漣が遠くからも聞こえていたが、建物に阻まれていたらしく、まさかこんなに早く海に出られるとは思っても見なかった。
「うわぁ……!」
思わず感嘆が漏れる。慎重に辺りを窺っていたシウンがふとため息をつき、緊張で顰めていた顔を緩めた。唸るような波の音とウミネコの声だけが耳を打つ。
「ここから先は、今までより楽になると思います。あと少しの辛抱です」表情も変えずにシウンが言う。しかしその声は、一際大きく崩れた波と、千歳の嬉しそうな叫び声でかき消されてしまった。
「うわあ! すごいすごい、海って本当に陸をつないでるんだね! 兄貴が言ったとおりだ!」穏やかな海を見る機会が少なかったのだろう、いつにないはしゃぎようだ。
思わず呆れた顔をした二人は、我知らず顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
「あーっ! 何で笑うのよー。ひっどーい」
「だって、そんなクサイセリフ……!」
「昔兄貴が言ってたんだよぉ。陸は海で繋がってるんだって!」
「うわあ、イメージが違う……!」
ふて腐れた千歳が頬を膨らませる。その顔があまりに幼くて、さらに笑った。笑いながら、真一は涙の滲む目で横に立つ人物を窺う。彼もまた笑顔で、からからと喉を鳴らしている。
普通に笑えるんだな。
妙な感慨に浸り、胸中がほんのりと暖かくなる。そんな自分がおかしくてまた笑った。
視界の端に何か黒っぽいものがうごめいた。正体は分からないが、嫌な予感を感じた真一は、しかしそれより早く表情を固め、反射的に飛び掛ったシウンに先を制される形となった。人型のそれを押し倒し、うつ伏せになった背に膝を当てて腕を捻り上げる。
黒々とした影の中、シウンに押さえつけられた影は、それでもなお逃げ出そうともがいている。シウンの瞳からはすでに柔らかさは消え、必要あれば躊躇せず殺すという殺人者の色が煌めいている。
影が何事か叫んだ。真一には旨く聞き取れなかったが、シウンと千歳には耳慣れた響きだ。『ちょっと待って! 私は敵じゃない』
女の高い声が何度か同じ言葉を繰り消すと、一瞬顔を顰めたシウンがその背からどいた。すぐにでも飛びかかれる距離を保ち、鋭い目を向け続ける。
影はふうっとため息を吐くと、光の下に姿を現した。
動きやすいが美しい刺繍を施した服を身に着け、黒い髪はよく手入れされているのか光沢がある。
『お目こぼし、感謝いたしますわ。私はジンヒ。今事件の本国本部要因、コ・スンファン大尉より情をかけていただいた者です』
本国側の人間の名に、シウンが身を硬くする。手が銃を握る形になっているのは、すぐさま取り出し引き金を引けるようにだろう。
『ふふ、警戒なさらないで。スンファン大尉は、あのジンイル様の従兄ですわ』
視線を向けられた真一が、よく分からないと首をかしげる。彼は故郷の言葉を知らないのだ。
『大尉は、彼を逃がすため本部内で秘密裏に手を尽くしておいででした。しかし、これ以上は手を出せないと私めを使わせたのです』
『それなら、なぜ、自分の部下を使わない。お前は素人だろう』
『あら、分かってしまいました? 大尉がおっしゃるには、情報局の息のかかったものでは、第三者に漏れる危険がある。私なら、その手のスキルもありませんし、相手が冷静ならすぐ殺されることはないだろう、と』
『だってさ、シウン』千歳がにやっと笑った。声を駆けられたシウンは憮然としていた。
『大尉は今、命すら危険にさらしておられます。もし万が一自分に何かあった場合、極秘に調べた情報をあなた方に渡すよう申し付けられましたの』
女は、肩からかけていた鞄から、A4サイズの茶封筒を取り出した。
「それって、オッパは死んだってこと?」
不意に声が上がった。千歳から彼女の話を掻い摘んで聞いた真一だった。千歳が、その通りに訳す。
『……仕方ありません。あの方はそれでいいとおっしゃっておりました』
僅かに顔を俯けたジンヒの仕草から感じ取ったのだろう、真一が目を見開いた。
『彼は常々、もしあなた方が逃げ出せたとしても、あの女があなた方を追う根本的な理由を取り除かねば、何処までも追うだろうと申しておりました』
茶封筒の中から、一枚の書類を取り出した。
差し出されたそれには、一人の女の写真と履歴書のコピーが。
『今、北を軍勢を率いているのがオ・ヨンスクの偽者だというのは知っておいででしょう。この人物が、彼女の本来の姿です。ですが……我々にはこれが限界でして』
『目的は分からなかったと』
『おっしゃるとおりで』
シウンは一瞥をくれ、茶封筒を重ねた書類を受け取った。目を通しつつ、目の前の女にも隙のない目を向けている。
『これ以上は、我々には動くことが出来ません。いや……すでに我々といっていいものか』
『信頼度は』
『高いと思われます。申し訳ありません、これ以上はなんとも』
シウンは一瞬顔を顰めたが、書類を封筒に戻しながら呟いた。『感謝する』
ジンヒと言った女は、にっこりと笑みを浮かべると、踵を返した。建物の森へと帰っていく。
だが、その手にキラリと輝くものを見つけ、魂を抜かれたように放心していた真一が走った。彼女の手を取ると、小型の剣が握られていた。
「死ぬ気ですか!」通じないことを承知で怒鳴る。
ジンヒは、怒鳴られた意味は感じ取ったのか、困ったように微笑んだ。
『今更私を止めるの?』
「死んだって何の特にもならないじゃないか。オッパはきっとそんなこと望んでない」
『この世には、あなたみたいに強い人間ばかりじゃないのよ。日本は自由かもしれないけれど、私たちは違うの。私には彼しかいなくって、その彼が死んだ後なんて』
「生きていれば、きっと何かいいことがあるって、よく言うじゃないか」
会話として成立してはいないが、真一の目は真剣だ。その目を覗きこみ、彼女の愛するものに似た輝きを見つけ出して口角を上げた。
『優しい子……あの人が家族になりたがった理由、わかるような気がするわ』
でも、と唇が紡ぐ。
握られた手を思い切り振り払い、振りかぶると己の胸に煌めく刃をつきたてた。
優しさだけでは、人は救えない――。
あの人もそうだった。優しいがゆえに、この少年を助けるため、自らを犠牲にしてしまったのだ。わたしのことを案じながらも、優しさゆえに身を滅ぼしてしまったのだ。
ずるりと壁伝いに重力に引きずられた体を、焦った真一が支える。
荒い息の中で、驚くほど重くなった瞼を開いた。刃がぶれたため即死には至らなかったが、血管を傷つけたらしく心臓の律動と共に、赤黒い液体が身を伝っていく。
目の前の男を霞がかかった視界で眺めながら、ぼんやりと思った。わたしのことも考えては下さらなかったの? と問いかけて問い詰めてやりたい。この子はわたしたちとは違う。世界が一つの存在でしか支えられていないわたしとは違うのに。
驚いて駆けつけたシウンと千歳に、血走った眼を上げる。
「ねえ、助けてあげてよ! このまま死んでいい人じゃない!」
その惨状を目に、千歳は痛みが手に取るように顔を歪め、上から覗き込んだシウンも表情を翳らせ首を振った。肺を傷つけたらしく、ジンヒが咽るとあまりに鮮やかな赤色が吐き出された。
それでもなお、救いを求めるように二人を見上げていた真一の頬に、生暖かい感触が滑る。血みどろの荒い息を吐きながら、ジンヒが手を伸ばしていた。柔らかい頬に触れ、うっとりと目を細める。辛うじて肉体に繋ぎとめられている彼女の目には、他のものが映っているのだろう。血が滴った口の端には、美しい朱色が泡立って気泡を成していた。
彼女の目には、真一に宿った僅かな面影が見えている。消え入りそうな声で愛しい名を呼び、震える指で頬をなぞると鮮血が尾を引いた。
朦朧とする意識の中、唯一つだけ愛するものとの約束だけが、彼女を今この場にとどめている。血が伝う指で、どこからか一本のカセットテープを取り出した。朱色の走るそれを真一の手に渡し、硬く握らせる。
そっと口を開く。記憶に残る彼はあまりに哲学的であった。そんな彼が彼女の前で使った唯一の日本語。意味を分からずとも、伝えてくれと託した言葉の螺旋を、浮遊した感覚で辿った。
「マミヤ……シンイチ」
真一の耳に、初めて理解の及ぶ言葉が滑り込んでくる。時折血とも唾液ともつかない液体を飲み込み、彼女は震える喉を絞り出した。蚊が飛ぶようで、か細く力ない。
それでも尚、必死に伝えようとしている姿に、真一は彼女の口元に耳を寄せた。
一つ喉を降下させる。
「か……」
震える口元が、もう一つの言葉を形作る。だが、それ以上声は出てこなかった。黒く大きな瞳に宿った光が不意に消え、手にかかる重みがほんの少し増した。
路地裏の饐えた人いきれと、尚止まらない血の臭い、潮の香りが混ざり合い沈殿し、そこだけ世界から切り離されているようだ。
渡された書類は、一人の人物に対する徹底的な調査報告だ。合流したシウンから手渡された真新しい血の滲む紙の束を、アンナムは一通り眺め見る。真一と千歳が、背後から興味深げに覗きこんでいる。
《王連静》と書かれた履歴書と、添付された写真は、間違いなくアジア人のそれだ。
「おう、れんせい?」
「ワン・リァンジンだな」かけていためがねを上げ、片目を上げたアンナムが言う。指で示された場所には、国籍・CINAと書いてある。
「アメリカ企業のK&Iフィジカルコーポレーションの、技術職だそうだ」
「何でそんな人が?」
「さあ、知るか。これが、ヨンスクと成り代わった奴の正体だと言ったのだな?」
シウンが頷いた。
アンナムは長い長いため息をつき、書類を投げ出そうと手を伸ばす。その手から慌てて書類を引き抜くと、真一は何か引っかかるといった風に唸った。歪められた口からは、反芻された言葉たちが踊る。
迎えの船を待ちながら、廃倉庫の隅に作られた元は事務所として使われていたであろう建物を拝借している。遠くに、大型船の汽笛が聞こえてきた。潮風に晒され錆びた鉄筋は血の臭いが鼻につく。
「で、そのコ・スンファンは確かに本部にいたのだな」
「ええ、正確には過去形でしたが。僕が探りを入れた時点では、すでに反逆罪で始末されておりました」
「ふむ……」
面倒なことになった、と顔に貼り付け、腕を組んで考え込む。体重を預けるパイプ椅子が、ぎっと心もとない音を立てた。
「あ!」
何度同じことを繰り返しただろう。同じ問答に落ち着こうとしたとき、背後の真一が声を上げた。
「思い出した! K&Iフィジカルって、俺たちが調べてた事件で重役検挙した、日本勝浦精機工業の元親会社だ」
そうだ、そう考えてみると連静という響きにも納得がいく。テレビのニュース、検挙されていく重役の一人が叫んでいた言葉。狐塚と論争を繰り広げたそれは、何のことはない、人名だったのだ。
「日本勝浦の人間が叫んでたんです。自分はあの女に騙された、連静のクソヤロウ、って」
「日本勝浦?」
「ええ、知ってます? 大手企業の汚職事件。何だかよく分からない事件だったんですよね。本当なら本庁の二課か、俺が属する知能犯係ってのが引っ張り出されるところなんですけど、何処からか分からない圧力がかかったらしくって、各係から捜査員かき集めて臨時の係が作られたんですよ」
「一大センセーショナルになってた奴だよね。そう言えばあれ、続報ないなあ」
「アメリカが連れて行っちゃったんですよ。重要参考人全部。系列とはいえ、完全に手を切ったに近い外国企業相手に、大げさすぎるって同僚と話していたからね」
でも、何でそんな会社の社員が、こんな思いもかけない場面で浮かぶのだ?
それまで肩眉だけを吊り上げ、憮然としていたアンナムが、重々しく口を開く。
「……もしかしたら、その事件と何か関係があるかも知れんな」
「その線は大いにあると思います」
「仕方ない、そこからアプローチしてみるか。追われる根源を立たねば、面倒なことにもなりかねんしな」
「では、僕は日本勝浦の方面から調べてみましょう。そちらは、裏からお願いできますか」
「そりゃあ構わんが……当てでもあるのか」
「掛け合ってみます。察しのいい奴らですから、何かが起きていると気づいているかも」
訝しげに眉を顰めたアンナムが、まあ気をつけろと呟いた。室内に、奇妙な沈黙が舞い降りる。居心地の悪さに顔を顰めると、皆がそうなのだろう、何処からともなく長い息が漏れた。
「そういえば」埃の舞うソファーに身を預けていた千歳が、重い口を開く。
「兄貴はどこなの?」
真一の中に、一つの答えが弾き出された。そうだ。こんなに沈むことなど、今までになかった。そうなる前に、気の利く男がケラケラと笑いながら他愛もない会話に引きずりこんでいた。こんな沈黙など体験したことがない。
「嗚呼そうだ、宿谷さんがいませんね。散歩かな」
「兄貴は散歩なんて柄じゃないでしょ」
千歳が振り向き、笑った。その後ろで、俄かにアンナムの表情が引きつった気がする。思わず目を眇め、そちらを注視してしまった。千歳の笑いが消え、不思議そうな視線がそれを追う。
アンナムは、身動きもせずにそこにいた。しかしその身はさっきまでとは打って変わり、影に沈んでいるように見える。
「聖は」
僅かに言いよどみ、目を伏せる。落ちる影が濃くなる。
「死んだよ」
空虚。
零れ落ちた予想外の答えに、俄かに時間が止まったと思う。風も死んでいる室内では、澱んだ澱さえ、たゆたうことなく本当に時間が止まったようだ。
アンナムは、喉にへばりつく異物感を飲み下しながら、さらに続ける。もはや自分の腹の中を切り刻むようで、言葉を紡ぐだけだというのに拷問に近かった。
「俺たち――いや、正確には千歳、お前だな――を逃がすために、どうしても同業の目を逸らさねばならなかった。あいつは、わざと奴らの前に身を晒すことで……」
「何で」応じた声は震えていた。
「何で、兄貴が出しゃばる必要があるのさ。また皆でやればよかっただろ。警察を惑わせたみたいにさ」
「君も分かっているはずだ。あんな猫騙しが成功したのは、警察が我々にとっての素人だったからだ。同業は違う。端から殺す気で来るだろうし、なにより自分の命すら厭わない」
「でも、それでも皆で協力すれば……!」
半ば叫びに近い。アンナムは静かに首を振った。
「奴が自分で望んだことだ」
千歳の頭に血が上る。体温も二、三度上がったのではないだろうか。とにかく千歳の理性は許容量をはるかに超え、感情だけが体を動かした。勢いよく立ち上がると、隣の部屋に駆け込む。閉じられた扉の音が、空を引き裂いた。
理性を失ったか。
宿谷兄妹の性質を理解していたアンナムは、むしろ冷静すぎるほどにため息をついた。だが、事実だ。事実は曲げられない。
思わず追おうと腰を上げかけた真一を制し、建物の影に声をかける。シウンは、影に徹していた身を身じろがせ、静かに瞼を開いた。一部始終を承知していたこの男は、一つ会釈を残し、うんともすんとも言わない扉に声をかけ、足を踏み入れていった。
「あいつの方が、千歳も説得しやすかろう」
我々では駄目だ、と言ったアンナムの目は、罪悪感で薄っすらと翳っていた。
室内に足を踏み入れると、そこは漆黒の闇であった。窓もトタンやベニヤでふさがれているらしい。扉を後ろ手に閉める。
床に視線を落とし、白々と積もった埃をかき乱してみると、戸口に身を潜めていたらしい千歳姿を現した。
千歳が彼の胸倉を掴む。
――信じられるか。
身も世もない怒りと混乱を溶かし込んだ混沌の瞳を見つめながら、彼は首を横に振った。
膝が折れ、力なくへたり込む。見開いた目は純粋に何も何も映していない。
「嘘だ」
「信じたくないのは分かります。ですが、それを彼の与えてくれたチャンスを潰す理由にしてはならない」
「あんたに何が分かる!」
千歳が俯けていた顔を上げた。般若のように歪められた顔がそこにあった。
「……あなたは兵にはなりきれなかった」
シウンはポツリと呟いた。
「想像することは出来ます。あなたは完全な兵士にはなりきれなかった」
傷口の開いた腹を庇いながら、シウンは千歳に背を向けた。手にした銃を肩にかけなおす。用心のため、彼だけは常に銃を離さなかった。
「あなたは、痛いと言った。苦しいと言った。だったらどうです? 今ここで、死にますか?」
千歳の瞳に影が差した。
無理だ。自分は人を撃ったことも殆どない。
何より、
「兄貴が、悲しむ」
シウンが肩越しに視線を送ってきた。
「そうですね、聖様は許さないでしょう。それだけあなたを愛していたから」
彼は、重い口調で告げた。
「この世には幾つかの人間がいます。その中でも我々の住む世界には、大きく分けて三通りの人間がいる。一つ目は、絶対的冷静さで戦況を導く指揮官。二つ目は、何より人らしい人間。そして最後。それが我々に残された唯一の道、完全なる兵士になることです」
張られたトタンがそこだけ切れているのか、部屋の一部だけがスポットライトのように明るくなっている。彼はその下に歩み出た。肩からかけられた銃が、鈍く煌めいた。
「状況が過酷であればあるほど、集団は二極化します。絶対的力を持った指揮官と、その下で動く兵士。そして彼らの存在は互いにつりあっていなければならない。あえて言うのなら、偶像崇拝に近いものである必要があると言っていいでしょう。ですが、そのためには指揮官はより冷徹で優秀に、兵士は己を殺した機械に近くなくてはならない。それが究極の強さであるからです」
千歳は、鋭い視線そのままに当たり前だと顔を顰めた。
「我々は、物心ついたときから己の役割を分かっていました。自分は最高の指揮官の下で、究極の兵士として、《人》という感情を捨てねばならない。事実そう教育され、そうあるべきだと努力してきました。僕の、アンナム様やオ・ヨンチョル様への忠誠は、その延長上に存在する。彼らが僕にとっての指揮官であり神であるからです。主がために生き、主がために死ぬ。その感情に矛盾など存在しません。だからこそ、己が神を失えば簡単に命を絶てます。その必要があれば、僕は何のためらいもなくこの身を殺すでしょう」
だけど、と押し殺した声が続く。
「あなたは違う。あなたの感情は、我々のように簡略化された単純なものではない。あなたは、兵士になりたがった。兄である聖様を指揮官に、役に立つ兵士になることを望んだのでしょう?」
「……うん」
「だが、我々とあなたとは違う。あなたの指揮官は、冷徹になりきれなかった。己が兵士としても行動することで、あなたを決してこちらの世界に踏み込ませなかった。だからあなたは自分の命を絶てない。指揮官が、あなたを一人の人間として愛していたから。守り、慈しみ、全てをささげてきたことを本能的に知っているからです。それはもうすでに兵士ではない。あなたは、兵士にはなりきれなかった。なによりも人らしい感情を抱えた人間だ」
「人間……?」
「そう。僕は兵士であることを誇りとしています。アンナム様という指揮官の兵士であること、それだけが僕に残された存在意義です。だが、あなたは違う。初めから兵士として生きてはいない」
「生きてきたよ! 兄貴の手となり、足となって活動してきたじゃないか!」
「それは違います。あなたがそう思っているだけだ。だったらあなたは《意識して》人を殺したことがありますか?」
千歳が力なく首を振る。
「じゃあ、兵士の仕事とは何です」
そんなもの、世界共通、ただ一つだ。
「だったら生きるしかないじゃないですか。人間は生きることそのものが存在意義です。聖様はあなたの生命を守った。兵士は人間と違い、死ぬことが仕事です。殺し、死ぬことが仕事なんです。あの方は、有能な指揮官でありながら、兵士としての最後を選んだ。それが最良の方法だと知っていたから」
「だったら、僕の存在意義って何なの。兄貴に全部捨てさせて、殺しちゃった僕の存在意義って何」
消え入りそうにか細い。
シウンはふと表情を緩め、彼女に歩み寄った。力なく項垂れる肩に手を置く。
「その死が結局は決められたものだったとしても、その命を指揮官として延ばし続けてきたのは紛れもないあなたなのです。兵士は、人間を、指揮官を守るために死ぬのです。あなたはそれすらも無駄にするのですか? 兵士と人間との曖昧な狭間で、大切なものが残したものすら、自ら手放してしまうのですか?」
シウンの驚くほど整った顔が、俯いたままの千歳を覗き込んだ。鍛えてありながらすらりと細い印象を受ける彼の姿は、独特の戦闘服に身を包むと滑稽なほどつりあわない。
彼は、千歳の手を取り引き立たせた。
「行きましょう。聖様のおかげで、我々に対する包囲も解けたはずです。今のうちに逃げるんです。生きるために」
最後の一言が引っかかった。千歳は全てを、彼女を作りうる世界の全てを失った。だったらこれ以上、どうやって生きればいいというのだ?
千歳は問いかける。「君は、何のために生きるの……?」
黒い瞳を細め、シウンは言った。
「最高の兵士であるために」
窓に手をかける。窓といってもガラスであるはずの場所に、錆びて鉄臭い臭いのするトタンがはめ込まれているだけだ。
背後では扉が締め切られたのか、一瞬だけ差し込んだ人工の光が掻き消えた。
不穏な音と共に、軋み、閊えながら埃の積もった窓は開いた。室内が急に明るくなる。眼前に、あまりに大きな月が浮かんでいた。
千歳は目を細め、魅入るように見上げた。人工の刺々しい明かりとは違う、美しい自然の光が立ち込めていた。空気も若干温度が下がったように思われる。遠くに潮騒が響いていた。
カチン。何かが落ちた。足元へと視線を移し、しゃがみ込む。月明かりの下、映し出されたのはあの木彫りの兎だった。
急に冷えた血液が逆流する。目頭が熱くなり、盛り上がってきた涙のカーテンが風景を歪ませた。
広がるのは雪原。雪の合間に見えるのは、大きな大きな青い月。少女は、駆け回るのが好きだった。雪が止んでは、兄にせがんで家の近くの雪原に繰り出して回った。
「ほら千歳」
少女の大きな瞳がきょとんと見開かれる。目の前に差し出されたのは、小さな木彫りの兎。
「もらっていいの?」
黒目がちな瞳は、月明かりが反射してきらきらと輝く。自分よりずっと背の高い兄を振り仰ぎ、手を差し出す。
「当たり前だろう、お前のために作ったんだから」
兄は笑っていた。千歳の両手を取りそれを握らせると、柔らかい雪に寝そべった。千歳もならうように転がる。目の前には、あの大きな月だけだ。
「日本の兎は、月まで跳べるらしい」
月の青を目に映しながら、兄が呟く。
「日本って?」
「お前の祖国だよ」
「そこく」
「そう。帰る場所のことだ」
「ちとせの帰る場所はここじゃないの?」
上体を起した兄は、困ったように笑った。
「千歳の祖国は、日本。ここからずーっと東と南に行ったとこにあるんだ」
「東と南って?」
「地図で、右と下のこと」
「右と下!」千歳の顔が華やいだ。見知らぬ土地への憧れがあるのだろう。
「うん。日本は一年が四つに分かれてて、とっても暖かくてきれいなんだって。千歳、今の季節は?」
「ふゆ」
「そう、冬。日本では冬は一年の四分の一しかないんだ。その代わりに、こっちでは短い季節がもっと長い。冬の次は何が来る?」
「はる! お花が咲く!」
「そうだね。春の後は、夏。とっても暑い季節が来て、皆で海に行くんだ。秋はこっちより遅くて長い。しかも、日本では冬でも食料があるから秋に冬支度をしなくていい」
千歳はしきりに関心の声を上げ、月を眺めている。
「兄貴は物知り」
「はは、ありがとう」
「ちとせが帰るのが日本なら、兄貴も一緒だね。いつ行けるのかなあ」
兄の表情が一瞬凍る。だが、無邪気に空を仰ぎ続ける千歳は気づかなかった。
「……うん、一緒ならいいね」
いつにない声に振り返った千歳は、初めて兄の悲しげな表情を目の当たりにした。笑っているはずなのに、どことなく表情を作りそこなったそれは、幼い少女の胸に一物の不安を残すには十分だ。
「千歳、お前は日本から来たんだ。日本の兎は月まで跳ぶ。そんな国から来たんだよ。お前の前では、国も海も何もかも関係ない。ひとっ跳びで渡れる。国境も、何も関係ない」
――大丈夫、跳べるよ。
僕には無理だ。兄貴が望んだほど国は低くなく、海は広大で深い。奈落のように僕の前に広がっている。それに対して僕の何とちっぽけなことか。月まで跳ぶどころか、人の心すらつなげない。そうだ、そうだよ。僕は小さな世界しか望んでいなかったんだ。月まで跳ぶどころか、国を持つことすら望まなかったじゃないか。僕がいつ、自分に驕った? 他には何も望んでないのに。
「遠すぎるよ……!」
跳べるわけないじゃないか。
例え月まで跳べる月兎だって、あの世までは跳べやしない。
大きな月は、あの時程冷たい空気を纏っていない。握った手をさらに硬くした。手の中で、年月を経た兎が、温かい木の感触を示し続けていた。