暗闇の中、彼は爬虫類のように這い進んだ。誰にも見つかってはいけないという脅迫に似た感情が、ギリギリの綱渡りを可能にしていた。

 ずるり。足を引きずり手を差し出すと冷たい感触。そのままデスクの上に体をのし上げ、暗闇に慣れた目をきょろりと回した。

 受話器を取り、リダイヤルを押す。

 コール音を数えながら、早鐘を打つ胸のうちでグルグルと取り留めなく渦巻く言葉たちを順々に並べていった。

――本日午後、定例会議が行われた。極秘裏のものだ。皆が沈黙と「進展なし」の一言をつないでいく中で、一つ大きな事実が決められたのだ。

『太平洋側に位置する、小型漁船程度しか収容できない規模の小さな港からの監視を解く。その分の人員を他国まで操業可能な船が行き来する港、空港へと重点的に配備』

 通る声がいつも通りよどみない言葉を紡ぎ、解散と告げられたのが九時間前のこと。

 彼は、すでに慣れ始めた妙な緊張感を落ち着けるためか、舌なめずりをした。手は妙な汗でじっとりとぬれていた。

 ぷつっと、繋がった気配。

 彼ははっと顔を上げ、口を開こうと目を輝かせた。

 しかし、それまで。

 突然、それまで沈黙していた明かりが煌々と灯り、彼は思わず身をすくませる。身を隠したい衝動に駆られたが、張り巡らされた電灯の下では隠れる場所もない。

 コツコツと、ヒールが床を叩く音が次第に近付いてくる。

 その時、彼は気がついた。彼が急激に体温を失った手で握り締めた受話器からは、人の声どころかコール音さえ聞こえてきていない。

 血液が体内から消え去った錯覚を覚える。

 見つかるなと思うと同時、彼は自分にとって最も酷な事実に思い当たってしまった。

 見つかるも何もない。ハメラレタ……!

 色を失った顔は蒼白で、それでも諦めに近い感情をたたき出すと、すっと立ち上がって受話器を置いた。

 不敵な笑みの前には、あの冷徹な顔が。

 よもや自分に向けられるとは思っていなかった。

「アナタが裏切り者だったの」

 彼女は汚いものを見る目を細めた。

「スンファン大尉」

 スンファンは微笑んで見せた。彼独特の柔和なものだ。

 一瞬彼の目が煌めき逃走を図ろうとしたが、扉から駆け込んできた狙撃手に闇に溶け込んだ銃口を向けられ、笑みが自嘲に変わった。

 彼の女上司は一呼吸置くと、敵意の塊の視線を向けてきた。

「で、あなたが情報を流したの」

「何をですか」

「決まってる。日本の左翼過激派に、宿谷聖の居場所を流したわよね?」

「……身に覚えがありませんね」スンファンは悪びれず答えた。

「いいえ、そうだわ。あなたならそれが出来るもの。そして今回は何? ソン・アンナム側と連絡を取って、逃亡の手助けでもしようとしたわけ?」

「さて? だったらこちらからも質問をさせてください。なぜ、私が左翼団体に情報を流す必要があったんです? 対象者を逃がすのが目的なら、独自に手を回せば済む。わざわざ彼らを傷つけ、リスクの高い道を選ばせる根拠は?」

「それなら簡単だわ。あなたは、ぼんやりと全貌を掴んでいる。そして何より、私が何者か知っている。そう仮定すれば、おのずと《本当の軍人による統率権の回復》という目的が浮かび上がってくるわ。あなたは国粋派として有名だものね。事実、私たちはこの事件のおかげで動きづらくなってる。人員が削られたところに、正真正銘の日本人が巻き込まれたことで事件は事故として片付けられなくなってしまった。対岸の火事じゃなくなった日本国民が騒ぎ出し、唯でさえ深手を負った私たちも、頭を押さえつけられ自由に動けなくなる。後は――」

 私たちの正体と目的を引きずり出して、権威を失墜させ指揮権を得る。自ら手を汚すよりよっぽど簡単な方法だわと、彼女は告げた。

 スンファンは、ふと表情を失ったように真顔に戻る。何度か視線を泳がせ、なるほどと頷くと、再びにっこりと微笑んで満足げに手を叩いた。

「お見事です。あなたの見解どおりですよ」

「目的は何? あの、カガ・ヤマトとか言う男とクーデターを起すつもりだったの?」

「あらら、そちらの方は外れです。加賀君とは、国の潜入員を総括する意味で、彼が属する左翼団体とのつながりで知り合っただけ。結局は組織同士の割り切った関係ですし、彼らの国家改革が成功しようが失敗しようが俺には興味ない」

 彼はそれだけ言うと、貝のように口を閉ざしてしまった。加賀でないなら、何のためなのだ?

彼女の中に、一つの単語が浮上した。

「間宮真一?」

 彼が僅かに目を開いた。しばし沈黙を守っていたスンファンは、さすがに堪えきれなくなったのか無邪気な笑い声を上げ始めた。

「ジンイル。それが彼のもう一つの名前ですよ」

 彼は在日韓国人です、と続けクツクツと喉を鳴らす。

「俺の従兄弟だ」

「でも、あなたは北の軍上層部の人間よ。在日なんかと……」

「俺も日本育ちなんですよ。日本から祖国への引揚者だ」

 床にも構わず腰を下ろし、覚悟を決めたように胡坐をかいた。

「一家で引き上げてきたのかしら。それとも、まだ日本に」

「死にましたよ。みんな」

 瞳に一瞬影が差した。

「先の大戦で、家族は皆殺しになりました。生き残ったのは俺一人。幼かった俺は、故郷を捨てなければならなかった兄夫婦について日本に渡った」

「同情はしないわよ」

「いいですよ、期待していませんから。戦争ではこんな事ザラだ。珍しくもない。だから俺は祖国に戻ったんです。日本は自由だ。自由は生きにくい」

「……そう」

「あ、まだ不思議って顔してますね。当てましょうか、あなたは、俺が何故捨てたはずのジンイルを手元に置こうとしたのか分からないでいる。どうです?」

 彼はため息をついた。自分の中のハードルを乗り越える合図のようだ。

「不安だったんですよ。俺も僅かばかり日本という国にいた身だ。あそこに充満する《自由》が、どんなに排他的なものかくらい知ってる」

苛立ちと不安に板ばさみになった。長らく孤立していた島国が、いかに閉鎖的なのかを知っている。昨日まで敵だった人間に、喜んで尻尾を振る愚かさも肌で感じていた。だからこそ、彼はあの地を捨て、再びの戦乱に身を落とさんとするかつて祖国であったものに帰ったのだ。

だが、真一はまだ幼かった。妹一家の末路を知る兄夫婦も、度重なる心労で疲れきり、危険を伴うかもしれない場所にあえて踏み出す勇気がなかった。

 一人で泥水をすすり、血を被ってのし上がったスンファンは、彼らを呼び寄せようと必死になった。そんな彼の言葉に対する答えはただ一言、《無理》だ。彼らはすでに、彼らを追い詰めた張本人――そして今もその体質はかわっていないであろう日本に帰化しており、その答えは彼の大切な従弟・真一にしても同じだった。

 雛のように後ろをついてくる姿しか知らないが、それでも彼にとって見れば守るべき存在以外の何者でもない。かけられる電話が日本名になり、彼の声が低く変わってもそれは変わらなかった。

ソン・アンナムに関する謀を操りはじめた矢先、それは青天の霹靂のごとく彼の前に姿を現した。日本側に彼の名を見つけたとき、心臓が止まった気がした。どのくらいの不幸と苦しみを背負ったのだろう、胸は詰まったが、写真の中の少年の面影残る姿には、純粋でまっすぐな輝きが宿っていた。

「育ててもらった恩もある、俺だってこのままだと寝覚めが悪い。だから機会を窺っていたんですよ。息子が人質に取られれば、彼らもこちらに来る外にない」

 ちょっと強引な手ではありますがね。若干声が沈んでいる。彼は目の前の銃口を気にすることもなく、ポケットから質の悪い煙草を取り出した。火が灯ると思い切り吹かし、肺に煙を回す。満足げに白煙を吐き出して、にっこりと微笑む。

「さあ、殺すんじゃないんですか? 俺を見逃すほど生易しい人ではないんでしょ」

 自嘲的な口調にむっと顔を顰め、彼女は抑えた声を出す。

「スンファン大尉は、我々に不利益となると知りつつ情報を隠匿し、流用していた。十分死に値する罪。もちろん、許すことは出来ない」

 彼はその言葉さえも神妙に、むしろ楽しげに受け取った。

 彼に向けられた銃口が上げられ、海鳴りすら聞こえてきそうだ。

 嗚呼、と彼が呟いた。怯えた様子は一切ない。

「この後、この世界はどうなるとおもいますか?」

 問われた意図が分からず、彼女はきょとんと目を瞬かせる。

「俺はどうやら、先の世界は拝めそうにありませんからね。あなたならどうなると思います? せめてジンイルには、幸せな社会であってほしい」

 そう言うと、口を噤む。死刑間際とは思えないしっとりとした沈黙の中、吐き出される白煙だけが時間をゆっくりとかき回している。

「……混乱するでしょうね。アメリカとソヴィエト、二代強国の衝突は必至だもの。彼らは端から共存する気などない。一度でも直接的な戦火が開かれれば、両国だけではない。砦として使われている日本も、ユーラシア大陸さえ巻き込んだ最悪の闘争となる」

「そうですか。俺もそう思いますよ。信じたくはないけど」

「仕方ないわ。もし今度大戦が起これば、人類は間違いなく滅亡する」

「ですねぇ。日本も安穏とはしていられないか……。俺たち大人の間違いを、彼らは背負わされる」

「……そうね。でも安心しなさい。世界が滅亡する前に、あなたの守ろうとした者たちもそっちに送ってあげる」

 彼は困ったように笑った。

「残念ながら、俺は大人しく殺されますが、あの子は簡単に殺されませんよ。なにせ世界の暗部を知らない生まれたての国、日本で育った《日本人》ですからね。俺たちみたいに限界を知らない。恐怖を感じれば、遠慮なく足掻きます。限界を知らない人間は、下手すると俺たちより強い」

 目を瞑る。瞼を通して眼球を刺す明かりの冷ややかさを感じながら、彼は口元を吊り上げた。俺は馬鹿だ。馬鹿だが、どうしてこんなに不器用だと分かっている生き方しかできないのだろう。だが、その答えは長年考えてきたことが嘘のように、すんなりと彼の中に染み出してきた。

 嗚呼そうか。俺はこんな生き方しかできない人間なのだ。

 瞼を覆い、頭を抱えるようにひとしきり笑うと、すっと瞳を開く。今まで見たことのない鋭い光が灯っていた。

「最後に一つ、忠告しておきましょう。俺の従弟はニホンジンです。あなた方は平和に誑かされた愚民だと侮っておいでかもしれないが、限界を知らぬものは我々の想像を超える。彼は見つけますよ。流されてきた全ての血を超えて、その先にある、あなたがひた隠しにする真実に」死をも恐れぬ強い言い方で、捲くし立てる。

 彼女は焦った。これ以上見たくもない腹の底を探られ、引きずり出されるのは嫌だ。

『撃て!』

 半ば悲鳴のように叫ぶ。コンマ一秒遅れて、幾つもの銃声が室内を抉った。

 耳を聾する爆発音も、すぐさま感覚という器官を根こそぎ奪われた彼には、なんら感情をもたらさなかった。