さすがの警察も、ようやく表立って腰を上げることになる。

 本来なら裏で各国と調整のうえ、秘密裏に片付けるべきところなのだが、今回は少し勝手が違った。過激派とはいえ、邦人が巻き込まれたのだ。

 マスコミも騒ぎ始めた。初めは「調査中」だとか「そんな事実は確認できない」との見解を発表するに留まっていたが、ハイエナのように嗅ぎまわっていた一社が、その疑惑を事実として伝えてしまったのだ。ご丁寧なことに、大きく乗せられた記事には、巻き込まれた邦人の名、写真すら添えられていた。非難は、事実を隠そうとした日本政府に向けられることとなる。

被害者の親族は、自分の血縁が行った数々の非道を棚に上げ、涙ながらに訴えた。「政府はなにをしていたのですか」「警察は、市民のためにあるのでしょう」と。

 こうなってはさすがのお役人も腰を上げねばなるまい。自体の全容を知るものは渋々と、知らないものたちはここぞとばかりに立ち働き、大掛かりな捜査本部が立てられることとなる。

 事実上、現場の指揮権を得たのは、時を前後し訪れていた本庁管理官、六実啓介。彼は、突如降って湧いた人事にさして驚きもせず、それどころか独特の薄笑いを浮かべながら、その任を受けた。本庁の捜査官どころか、所轄の人間からも不満は漏れなかった。何せ彼は優秀だった。彼らは、先の事案で彼の手腕を目に焼き付けていたのだ。

「今回は特例で、外部からの協力を要請した」

 長机の上で腕を組み、言った。人形のように貼り付けられた表情は、そよとも変わらず、彼は顎を軽く動かして、隣に腰を下ろした部下に戸を開けさせる。

 その先には、一人の女が立っていた。とても美しい容姿に、すらりと長い手足。まるで西洋人形を見るような目を、その場に居合わせた者は向けた。外国仕立てらしいスーツをびしっと着こなし、働く女独特の隙のない身のこなしで彼女は六実の隣に並んだ。

「ヨンスク外交担当だ。今回の事件は北からも被害者が出たということで、急遽来てもらった。これからは、彼女の意見も十分に取り入れるゆえ、よろしく頼む」

 彼女が公の場に姿を現すなど有り得ないはずだ。だが、現に彼女は表に出てきている。裏だけでは対処できなくなっているのだ。

 彼女は軽く目礼し、目の前の椅子に腰を下ろした。隣の男に気づかれぬよう、観察の目を向ける。

 何を考えているのだ、この男は。初めて見たときからズルズルともち続けている感情を、何度目か反復する。

 繕い方が旨い。それでも、天性の勘で彼が腹の底に一物抱えていることは感じ取れる。

 得体の知れない男。

まあ、私も目的を達するよう身分を偽っている身だし、放っておいても害はないだろう。

 一同に目を向けていた六実が、ヨンスクへと視線を移す。一瞬視線が合ったが、彼女は気にすることもなく、彼女が作り上げた偽りと真実が巧みに混ぜられた事件背景を話し始めた。

 

 狐塚は渡された受話器を悪びれない顔で受け取り、べたっと耳に付けた。このときに、もう少し慎重に応じておけばよかったと後で後悔したが、なにせかけてきた相手が相手。無害だと信じ込んでいたのだ。

 狐塚がおちゃらけた声を吹き込もうとしたとき、相手が先を制し、プロボクサー並みの先制パンチを繰り出してきた。

「狐塚あぁっ!」

「ひゃいぃっ!」

 鼓膜を劈く怒声に、思わず裏返った悲鳴が間抜けだ。何事かと疑惑の目で見つめてきた看護婦の一人に手を振って応じ、狐塚は思わず引きつった顔をさらに引きつらせた。人間は想定外の大音量を耳元で聞くと、耳を通過して反対から出て行く感覚に陥るのだとはじめて知った。

 電話口、しょっぱなから声を荒げた浜ちゃんこと、浜田政次は一つ間を置いて己を落ち着かせてから、それでも苛立ちの言葉を吐いた。

彼がかつてここまで取り乱した場面を見たことがない。

「狐塚……てめぇ、面倒なこと頼んでくれたなあ、えぇ?」

「え? 何。俺、何かしたっけ」

 浜田は電話口で沈黙を守り――こんな沈黙を作り出すときはきっと、この電子機械の向こうでは、笑みとつかせぬ凶悪な表情を浮かべた彼がいるだろうことも、狐塚は承知している――口元をヒクつかせた。彼が現在の状況に陥るきっかけを丸投げした当の本人が、何も覚えていないことが癪に障ったらしい。

 狐塚が大げさなほどポンと手を打ち鳴らし、「ああ!」と声を上げた。電話だというのに大きすぎた取り繕いは、目の前の白衣姿の疑惑を色濃くさせるだけだ。

「電話と住所!」

「アホ! 自分で頼んだことくらい覚えてろ」

「それで、どうだった? 女の家、男友達、それともバーかディスコか何かか?」

 単純に好奇心丸出しの狐塚に、ため息をついたばかりの浜田の声が一つトーンを落とした。

 その声は、死を宣告する医師か、子供に怪談話を聞かせる大人のような声色を保っていた。

「ありゃ、そんな生易しいもんじゃねえ」

「は、何か問題でも?」

「もしかしてお前、知らンと俺に調べろと頼んだのか?」

 すでに呆れに近い。狐塚は、何がそんなに気に障ったのかと不思議顔だ。

「あれはなぁ、俺たちの仕事じゃない。本庁の、公安の仕事だ!」

 馬鹿が! と叫ぶ声は、停止した脳には入ってこなかった。

 

 情報が錯綜し、比例して怒声が上がる室内で、彼女は苛立たしげに足音を響かせていた。

『だから、何が起こったの!』

 思わず上げた金切り声で、喉が痛みを訴えた。

 傍らで立ちすくんでいた大柄な男が、ビクリと身を震わせる。恐怖に塗り固められた表情と、しょんぼりと丸められた背が、イメージに合わず滑稽だ。それすらも彼女を苛立たせる要因になった。

『はっ! 本日未明、目標と思われる集団の痕跡がつかめまして、一班を送り込んだのですが、敵の図中に嵌りほぼ全滅に近い様相です』

 声が震えている。彼女は唇を噛んだ。

『何でそんなことに……っ! 私のところまで情報が上がってきていないわ。止めたのは誰?』

『スンファン大尉ですっ……!』

 足が止まった。余分だった血液が脳から急速に引いていく。

 顔色を窺おうと身を硬くする部下を振り返り、冷えた声をかけた。

『コ・スンファンが……? 何故』

『未確定情報でしたし、一度現場の状況を調べようということで、情報を止めておられたようです。派遣されたのも一斑ですし、状況から見て結果的に被害は抑えられたと……』

『そんなことは聞いていないわ。あの子……っ、彼に関する情報は全て私に挙げるように言ってあったはずなのに』

 零度を下回ったと思われる残酷な温度を保った瞳が、再び前に向けられる。

 彼女は、一つ扉を潜ると喧騒から切り離された。彼女の部下に与えられた部屋は整頓され、無機質なほど質素だった。生憎スンファンは不在だ。

『状況は』

 彼のデスクに歩み寄り、適当にあさり始める。手は止めなかった。

 馬鹿正直に朗々と語ろうとする部下に怒りを覚え、『要点だけ!』と怒鳴る。昨今の諜報員は、報告すらまともに出来んのか。

 彼女は彼が止めていたと思われる事案関連の書類を引っ張り出し、しげしげと眺める。

 その中から、一枚のメモ用紙が舞い落ちた。

『はっ、あまりに突然だったとのことで、殆どのものが重症。辛うじて話せる程度まで回復した班長に話が聞けましたが、なにやらよく分からないことを言っておりまして』

『分からないこと?』

 それを拾いながら、部下の顔に視線を戻す。飾り気も糞もない紙には、流れるような日本語で、人名が書かれていた。首をかしげる。確か、この名前は……。

『はい、それが……アメリカがいた、と』

『それなら不思議じゃないわ。きっとあっちも疑心暗鬼で私たちを見張っていたはずだもの』

 手にしたメモ用紙を書類と一緒に部下へと渡す。調べて、と釘を刺すのを忘れなかった。

『いえ、それだけじゃないんです』

 眉間に皺が寄せられた。早く言えと、まざまざと語っている。

『宿谷聖――ノ・テウォンが引き金を引くきっかけとなったのは、我々でも彼らでもありません。同じ穴の狢であれば、皆己の身を守るためにアンテナを張っているものです。もう一つ、素人然とした集団が銃火を切ったのだ、と……』

 彼女は、今までまじまじと見たことのなかった部下の顔を凝視した。

 目の前の男は、自分でも旨く把握していないのだろう、何事か言いよどみ、観念したのか粛々と口を開いた。

『我々には、よく分かりません。班長が言うには、《ヒガシアジア、ハンニチブソウセンセン》とかなんとか……』

 日本語を使えない彼は、時々発音が曖昧になりながら、聞いた限りの音を再現して見せた。

 彼女には、それが何なのか分かった。分からないはずがない。

 東アジア反日武装戦線。

 日本中をかき回している社会主義団体の過激派、その名を知らぬはずがないではないか。

 

 小ネズミは、病室の扉からひょこりと頭を覗かせると、丸く大きな瞳を輝かせた。だが、その場所から離れはしない。ただ室内を覗き込んでいるだけだ。まるで、親の許可を待つ子供のようだと、妙に冷静な思考の一端で思った。

「先輩、おひさですぅ。お加減いかがですかぁ?」

 不必要なほど伸びやかな言葉遣い。普段不快に思うか心地よく思うかのどちらかでしかなかったその口調も、今日に限っては取ってつけたように違和感を感じてしまう。

 ああ、と曖昧に返事を返した狐塚に構わず、部屋に入ってきた加賀はいつも通り、小さな動きでチョロチョロと歩き回った。

「うへへ、捜査、ちょっと進展しそうなんですよぉ。本庁の人たちも、たくさん、たっくさん来てくれましたしぃ、人手も増えてバンバンザイだって、皆大喜びなんですよォ」

 彼はまた、うへへと気の抜けるような笑みを浮かべると、思い立ったように花瓶の花に手を伸ばした。

「あーっ、先輩お花萎れかけちゃってますよぉ。かっわいそー、水替えてあげましょうよぉ」

 不平を零しながら、色あせてしまった花弁と葉をむしり取る。こうしたら花が持つというのは、この間死んでしまった祖母の口癖だった。

 狐塚はそうだな、と小さく返し何気ない動作で新聞を手にした。新聞の一面には、あの爆破事件の記事が大々的に報じられている。

「なあ、大和」

「なんですぅ?」

「なんか、大変な事件起こったみたいじゃねえか」

「らしいですねえ、僕は知らないんですけどぉ」

 新聞から目だけをそらし、ちらりと覗き見た。文字を読もうなど、端から思っていない。

「日本人も何人か巻き込まれたとか」

 そしてその日本人は、全て過激派のやつらだった。

「……そうでしたっけ? あはは、最近世情に疎くて」

 彼は本当に困ったように苦笑した。手元では、萎れくすんだ花弁が几帳面に一箇所に集められている。

 喉の奥が熱い。腹の底で、黒い靄が固まって、次第に形を持ち始めるのが分かった。それは静かに伝い、滴っては染みを広げていく。何かに背を押された気がした。恐らくそれは、自分の中の恐怖や疑念、そんな物の集合体だったに違いない。

 狐塚は勢いよく立ち上がると、手にした新聞を放り投げ、ベッドの上に仁王立ちになった。

「お前は誰だ?」腹の底から声が響いてくる。自分の声じゃないみたいだ。

 振り向き、きょとんと目を瞠ると首をかしげた。「なにが?」と問いかける。

 それでも狐塚は目に宿した敵意を緩めない。

「分かってんだぞ。お前は誰だ。加賀大和は本当に実在するのか? そもそもお前は何者なんだ」

「何の冗談ですか? あー、もしかして僕を脅かそうとしてぇ。駄目ですよーだ、残念ながら騙されません」

「答えろ。お前は何者だ」

 狐塚は引かない。さすがの加賀も尋常ではない雰囲気を感じ取ったのか、顔を引きつらせる。

「何ですか……? 僕は加賀大和です。公務員で、警察官で……」

「過激派指導者の、か?」

 加賀の瞳が翳った。

 その変化を見、ふっと息を吐いた狐塚が「全部分かってんだよ」と絶望の色をひしひしと感じさせた。

「初めは一課の暴行事件だ。この前桂木警部補が「一課が酷い暴行事件抱えてる」って零してた。その時はなんとも思わなかったけど、一人のときに考えたら妙に引っかかるんだ。まあ、暇な入院生活、時間だけはたっぷりあったおかげでな。その違和感もわかったよ。その暴行事件の発生時期は、丁度間宮が捕まって拘留されていた辺りだ。お前は言ったよな?」

 彼の脳裏に、あの日の光景がセピア色の映画のように蘇った。なにより俺は、記憶力がいいのだ。

――聞き込みしてたら、そういう商売の人にしつこく声かけられるわ、ヤクザさんに絡まれるわで大変だったんですから。まあ、下っ端みたいでしたから、お友達に来てもらって、しかるべき処置の上丁寧にお帰り願いましたけどぉ――

「あれが、お前だったんだな。お友達ってのは、お前の腕っ節の強い左翼仲間かい?」

「何言って……!」

「また、被害者が発見されたのは、商店街を一歩入った人気のない場所。そしてこの商店街は、地元の人間しか知らない辺鄙な場所に位置している。地元に根ざした所轄勤務ならではの選択じゃないか」

「僕がしたって言うんですかぁ? 何のために。僕はあそこに行く必要もないですよぉ。だってあのとき、僕は間宮先輩のアリバイ探して聞き込みに……」

「ああそうだな。間宮の実家に行ってたんだって? それでどうだ? さぞ早くついただろう。あの商店街は、車では入れない近道だったからな」

 加賀の顔から血の気が失せた。

「そして二つ目」狐塚が指を立てる。

「お前が落とした住所と電話番号。お前が雲隠れしたときのために、行きそうな場所のひとつでも知っておこうと調べてみた。そしたら、何が出たと思う? はは、笑っちまうぜ全く」

 半ば焼け気味に笑った狐塚の声が落とされた。鋭い眼光が、加賀を捉えて離さなかった。

「東アジア反日武装宣戦の拠点のひとつだってな」

 加賀が憔悴して俯いた。肩が小刻みに震え、今にも涙が滴るのではないかという表情だ。傍から見ると疑われた怒りと、屈辱が余すところなく表出したようだ。

だが、狐塚は目を離さなかった。否、離せなかった。

彼はすぐに俯けた顔を上げたのだ。涙の溜まった目と、噛み締めた唇。言い尽くせない怒りで顔の筋肉は引きつって――いるはずだった。

「なあんだァ、バレてたんだ」

 それまでとは別人だった。目の前の男は少年の体を脱ぎ捨て、一回りも大人びたかと思う程、図々しいほど堂々とした態度をとり始めたのだ。

「だったら、取り繕う必要もないっすね。あーあ、うまくいってたと思ってたのにな」

 思い切り伸びをして、不敵な笑みを宿す。

 狐塚は目の前の男の豹変に、思わず苦虫を噛み潰した。

「お前……」

「あ、投降しろとか言うつもりですね? 嫌ですよォ、だれが腐ったクズの集まりなんかに捕まってやるか。鬼ごっこで、待てといわれて待たないのと一緒でしょ」

「情報流してたのもお前か。最近、警察が過激派に出し抜かれてるのもそのためだな」

「それはそっちが無能なせいだろ。俺は知りませんよ。ま、警察がどんなところ重点的に調べて、どこなら計画が実行できるか判断してたのは確かだけど」

 加賀は、さも楽しそうにケラケラと笑った。

「でも、それもこれでお仕舞い。くだらない《おままごと》には飽きちまった」

 口元を歪め、胸元に手を入れる。再び日の目を見た彼の細い手の中には、黒光りする鉄の塊があった。

 咄嗟に狐塚が飛びかかろうとしたが、加賀は引かない目で狐塚に銃を向け動きを制する。

 防弾チョッキすら軽く貫通する、トカレフの銃口が彼を見据えて離さなかった。

「はは、飽きちゃったんですよ。汚れた人間という生き物にも、そんなものが作り出した壮大で馬鹿馬鹿しいシステムにも」

「何でそんなことしたんだ。お前は警察の人間だぞ!」

「ケイサツ? あは、何馬鹿なこと言ってるだい。そんな物、何の役に立つ。結局はみんな死んじまう世界で、警察が誰かの命を救ったとでも?」

 彼は喉を鳴らし、意地悪く声を立てる。

「俺、被爆二世なんですよね。両親はそのせいで俺が小さいときに死にました。俺を引き取ってくれた祖母ちゃんも、ついこの前」

 狐塚が眉を顰めた。

「あ、それがどうしたって顔ですね。そうだよな、あんたは平和な家庭でぬくぬく育ってきたんだっけ。でもね、この世には謂れの無い理由で不当に扱われたり、傷つけられる人間がいるんですよ。

 俺が通っていた小学校には、特別クラスってのがありましてね。知ってます? アメリカが日本のお膝元で大手を振って人体実験してたの」

「人体実験?」

「ええ、そうです。俺たちが同じ学校の奴らに何て呼ばれてたか教えましょうか。《原爆学級》ですよ。面白いでしょ。被爆した子供と、健康な子供を半々集めて一つのクラスに押し込めるんだ。あっちの学者とか医者がズラズラやってきてさ、一月に一度、クラスの餓鬼どもを検査する。原爆が人間にどんな影響を及ぼすか、経過はどうなっていくのか、データを取って喜んでるんだ。他のクラスの奴らから白い目で見られて、いつ死ぬかいつ死ぬか子供ながらに怯えてる俺たちを使ってさ!」

 彼の口元が引きつった。感情が高ぶり、決壊して結果的に笑顔になったようだ。

「いつでも俺たちは被爆者で、腐った人間どもは俺たちを実験台か、何か恐ろしいものでも見るような目で平然と弾き出す。ほら、分からないでしょ。この苦しみは、受けたものしか分からないんだ。嗚呼、間宮さん。あの人はよかったなあ、きっと俺の痛みを分かってくれる」

「だからって、あんなことして、どうなるか分かってるのか……? もしここで事件を起せば、お前どころか全体が一くくりにされて、状況は悪化するかも」

「ふふ、そうですねえ。ええ、そうでしょうとも。よく分かってるじゃないですか。人間は、何か自分に不都合が起こりそうになれば、不都合を与えた人間、与えようとした人間が属した社会をも糾弾する。うん、知ってるよ。俺だって、そうやって育ってきたんだ」

 初めは単なる恐怖からでも、張り詰めた空気に小さな風穴を開けるだけで、負の感情は倍化し、関係のない人間すらをも巻き込み拡大する。

 だったら何か? 何の不都合も存在しない、社会全体の大多数を占める健常者に、ハンディを背負った自分たちの方が怯えながら、身じろぎもままならず生きていかねばならないのか? それが道理だと笑い飛ばしてみせるのか。

「俺が過激派に属したのも、警察に入ったのも俺自身の自由で行ったことだ。もしそれを、被爆者だ警察官だと一くくりにして危険物のレッテルを貼るのなら、それはそれで滑稽じゃないか。人間は結局、愚かで進歩のない下等動物なんだよ。いや、類を見ない知能がある以上、もっと悪質だ」

 だから、加賀は許せなかった。人が優秀であることを妬み、あら捜しをしては劣等のレッテルを貼って社会から弾こうとした、人間という生き物自体が許せなかった。

「俺は変えたかった。俺の頭脳を持ってすれば、社会を変えられる。社会主義と俺が手を組めば、腐った民主主義から人間たちを開放してやれる」

 だが、その考えは甘かった。彼が戸を叩いた組織は、確かに美しかった。理想高く、優秀な彼の実力を認め、共に成し遂げようと誓い合った。

 しかし彼は気づいてしまったのだ。そんな甘い言葉を囁いているこの組織も、結局は無能の集まり、自分にふさわしい存在など一人もいないということを。現に彼らは手にした情報を流し、結果的に組織を窮地に陥らせてしまった加賀を、トカゲの尻尾を落とすがごとく切った。

「有能が無能に食いつぶされない世界。それが必要なんだよ。この世はみんな腐ってる。腐った中で、腐った人間たちが動かして、一握りの優秀な人間が殺されている」

 だけど、間違っていた。全てが腐っていたのだ。救う余地もなく、全て腐りきって、取り返しがつかなかった。もうお仕舞いだ。彼は諦めた。唯でさえ暗かった未来が、未来永劫の光を失ったようだった。

「今は驚くほどすっきりしているよ。こんな腐った世界、関わること自体が馬鹿馬鹿しいことだと気づいたからね。目の前が開けた。今までこんなくだらないもののために、死に物狂いで働いてやっていたのかと思うと、馬鹿馬鹿しくて笑いすら出てくる」

 加賀は銃口を上げた。ぽっかりと開いた穴が、狐塚の額を捕らえて動かなくなる。

「もう俺には何もないんだ。全部捨てた。全部悟った。今の俺なら、ここで起こったことで、腐った人間たちが集団にレッテルを貼って差別したとしても、それは愚かとしか思わないね。ああ、何て脳が発達していないんだろう。罪のない正常な人間を差別しても、自分たち自身が腐ってるんだから、今度は自分たちの集団から殺人者が現れるというのに。そうしていくと、何が残るんだろうね。丁寧に人間を細分化していって、結局は自分以外は劣等だという結論にたどり着くのかな。そしたら、後は簡単だ。周りは皆自分より劣っているんだから、その劣っているものを殺しても構わないだろうという思考が働き出す」

 加賀の目が陰り、急に真剣な表情を浮かべた。彼は冷徹よりも圧倒的な冷たさで、狐塚の先にある彼が憎む社会を見つめた。

「だから、俺は全部終わらせる。こんなくだらない世界、何の意味もない」

 引き金にかけられた指が、硬く強張っていく。

 狐塚は震えを感じた。それは紛れもない、殺人者の目だ。

「せいぜい無様に踊っていればいいさ。汚れた人間どもめ」

 ゆっくりと銃口がずれ、狐塚の心臓の上に差し出された。

 次の瞬間。

 加賀はすばやく銃口を己のこめかみに当て、引き金を引いた。

Good night.

 鋭い音が、白い病院の中で共鳴した。