人波の中、ゆらりと影が蠢いた。分厚いフード付のコートを着込んだそれは、明らかに異質であった。

だが、人々は気づかない。彼が立ち止まり、尋常でない視線を上げていても気づきはしない。唯人波は流れる。まるで止まると死んでしまう回遊魚のような強迫観念に突き動かされ続ける。

彼は見つめている。

灰色の波間に、唯一色を持った二人を飽くことなく見つめ続けている。影のかかった顔の奥で、爛々と光る鋭い目を向け続けている。

耳元で、雑音交じりの音が鳴った。

彼は走り出す。初めは小走りに、次第に速く。

――シュクヤチトセに、マミヤシンイチ……。

彼は心臓の音を聞いた。波間をかき、鮮やかに灰色の集団を避けながら社会の狭間を掻い潜っていく。

そのスピードが最高に達したとき、彼は目の前の細い腕を掴んだ。

驚いたように振り返ったチトセが、小さく悲鳴を上げる。見上げると、フードを目深に被った異質な目がちらりと彼女を見下ろしてきた。

「あんた、何……っ!」

 ガキンッ。

 火花が爆ぜる。遠くない。いや、彼がチトセを引っ張ったから目標を失ったのだ。

 それまで無関係を盾にしてきた人波が、悲鳴と共にパニックを起す。

 コンクリートの地面に穿たれた弾痕を見つめ、彼はすぐさま身を翻した。

 彼の足元で再び閃光が瞬く。

『来い!』

 千歳が反射的に真一の手を取り、彼の背を追った。

 食い下がるように幾つもの弾丸が四方から降り注ぐ。

 馬鹿が。一般人を巻き込むつもりか。

 断末魔の悲鳴が上がるたび、罪悪感が募った。

『見境もなくなりやがって……! だから、秩序を失った組織は嫌いだ』

 彼は吐き捨てるように呟いた。

 頭の中に、敵方の配置は入っている。人数的に考えると、恐らく彼らはこの一帯にしか配置されていないはずだ。

 血の上った頭を軽く振り、道を逸れた。細い裏路地に逃げ込むのだ。

 不意に、右わき腹に鋭い激痛が走った。熱された剣で腹の中を切り裂かれたような苦痛だ。突如として起こった痛みに、彼は混乱した。

 整っていた息が突然上がり、不規則になる。心臓も重く鈍い。足が絡もうとするのを何とか立て直し、それでも彼は足を動かした。

 額を伝う汗が尋常ではない。昔はこのくらいどうということはなかったというのに、やはり痛覚が尋常ではないのだろう。滴った脂汗が目に入っては、彼の足をさらに重くする。

 動け。

 動け。

 動けよ……っ!

 背後からの足音は二つだけだ。ちゃんとついてきている。心拍が響くこめかみが熱くなり、安心で足がもつれそうになった。

 駄目だ、こんなところで。

 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!

 それでも体はついてこない。

 彼は溜まった唾液を飲み込むと、目の前の廃屋の窓枠に手をかけ、盛大に飛び込んだ。

 旨く受身も取れず、衝撃が全身を突きぬけ、腹に集結した感覚が全身に跳ね返る。

 それでもすぐさま体勢を立て直し、コートの下に背負っていた銃を取り出した。弾丸の装填音が辺りに響き渡ると、彼を追ってきた二人もひらりと室内に飛び込んでくる。着地をした千歳が真一を引きずって彼に習うように窓辺の壁に張り付いた。

 息が荒い。ぜいぜいと不穏な響きを帯びている。彼はもう一度唾を飲み込み、痛む喉を潤した。

 遠くから怒声が響いてくる。殆どがパニックを起した一般人の声であったが、そのうちの幾つかが彼らを追って駆けてきた。

 息を止め、出来る限り気配を消した彼は、室内に目を移す。ガラスどころか窓枠の取れた窓から差し込む光が影絵となり、時折表を通っていく男達の姿を克明に映し出した。黒く塗り潰された手には銃らしき物体が握られている。

 そのたった数分間、彼は生きた心地がしなかった。

 鈍痛の続く腹は脈打って、唇を噛んでいないと悲鳴を上げそうだ。

 頼む、行ってくれ。僕たちに気づかないでくれ。

 祈るような気持で影の数を数え、最後の影が通りすぎると、用心のために数分を同じ姿勢で消化する。痛む場所から生暖かい感触が広がり、太ももをゆっくりと伝っていた。

 時間が緩い。いくつまで数えたか、忘れてしまう。

 クラリクラリ、世界が軋む。

 自分に課したカウントを数え上げ、ぷつりと糸が切れたように壁伝いにしゃがみ込んだ。

 緊張によって無理やり押さえ込んでいた痛みが表面化し、思わず呻き声を上げた。

 千歳が駆け寄ってきて、不信と心配を足して二で割ったような表情を浮かべる。

 彼は深々と被っていたフードに手をかけ、汗の伝う顔を外気に晒した。光沢のある髪の毛がふわりと風に舞った。

「あんた……!」

 千歳の顔が驚愕で歪む。

 彼は構わず顔を顰め、己のわき腹に手を添えた。

「シウン、生きてたの……?」

 コートの裾を開き赤黒く染まった服を捲ると、真新しい傷口がぱっくりと口を開けていた。粘着質の液体がとめどなくあふれ出し、服を肌に張り付かせながら下へ下へと伝っている。

 服の裾を裂き一本の長い布を作り出すと、不衛生だと分かりながらも腹に巻きつけ始めた。

 なぜか溢れ出てくる唾液を何とか飲み下して、シウンは上がった息の中、口を開く。

「アンナム様は、あの後何かが起こることを分かっておられました。だからこそあちらとも繋がっていた僕を利用されないよう、北との接点を完全に切るために一度死んだことにされたんです。弾は意図的に急所を外してありました。そのことに気がついた同志に秘密裏に運び出され、手当てを受けておりました。畜生……血が止まらん。たった一つの商売道具だってのに……」

「それってあんたは初めから死んでなかったってことよね。じゃあ、あんたの死体は? 北が見つけたって……」

「あれは、聖様に倒されたものの中の一人です。完全に身元が判明しないよう手を打って、僕が死んだように見せかけたのでしょう」

 苦しそうに顔を顰め、布をきつく巻きつける。

 クスリが切れたかと内心呟き、汗の伝う額を拭った。

 弾丸の収めてあるポケットを探り、無雑作に注射器を引きずり出した。小振りな試験管を取り出すと、中の液体を移し変える。針を上向かせ、空気を出してからわき腹に針を刺した。透明な液体は、ゆっくりと体内に満ちていく。

「それって」真一が訊く。恐らく、麻薬だと思っているのだろう。

当たらずとも遠からずかと自嘲気味に嗤い、口を開く。事実、クスリに頼る時期は過ぎている。単に《液体を投与した》という事実に、精神的に安心するというだけだ。

「おまじないのようなものです」

 空になった注射器を捨て立ち上がると、耳元に手を当てた。

 雑音、慣れた言葉の中に一つの言葉を探し出す。

――対象自滅、被害は目下調査中――

 顔を上げ、急がなきゃと呟いた。

 

 同日、一人の人間が見捨てられた。

 彼はかつて仲間であったものから一方的に切られた電話を前に、呆然と受話器を握り締めていた。

 氷結していた感情が溶け出すと共に、絶望感と悲壮が身を支配する。だがそれも一瞬のこと、すぐさま溢れ出てきたヒヤリとする感情は凶悪な怒りへと変わり、彼は無機質な音を流し続ける受話器をきつく握り締めた。

 五月蝿い。お前たちなんか、結局は社会のゴミじゃないか。俺以上に組織を、この国のことを考えていたものがいるわけがない。無能が馬鹿みたいに囀りやがって。責任を俺一人に押し付けるだけで満足か、結局はどんな理想を掲げたところでお前たちも俺を蔑視していたのだろう。

 唇を噛んだ。怒りの裏には、世界と繋がる唯一の糸が切れたような絶望感が嘲笑しながら存在していた。目の前にいない人間たちを罵倒しながら、諦めに似た世界が己の中に広がっているのを感じた。

 嗚呼、やはり世界はこの程度か。一部の有能な人間が、大多数の無能に食われ、世界は荒廃していくばかりで一向に進歩を見ない。こんな世界、もう嫌だ。こんな汚いものたちと同じ空気すら吸いたくない。そうだ、やはりやろう。全てを終わらせよう。腐った社会も、全部ぜんぶ。

 胸元を探った。固い感触に行き当たり、ほっと安堵が零れた。