人の往来激しい中を旨く掻き分けながら、彼は目の前の背を追っていた。

 下町の風景は、雑多な人の波と相まってどこか懐かしさを感じさせる。真一は、ぶつかろうとした子供に微かに笑いかけ、再び人波をかいた。

 ずんずんと進むのは、千歳の小柄な背だ。

「何だか、懐かしいですねぇ」

「は? 何か言った?」

 人波で振り返った千歳が、訝しげに眉を顰めた。この喧騒の中では、声を張り上げねば意思疎通どころか居所も見失ってしまう。

「懐かしいと思いました」

「ああ、そうなの? 何、この辺の出身?」

「いえ、違うんですけど、何だかこの雰囲気が祭りに似てるなって」

「祭り?」

「うん。近くに大きな神社があって、一年に二日だけ、祭りがあるんです。今みたいに人が溢れてて、出店もずらっと並んでてね」

「ふうん。いい思い出なんだ」

「あはは、そうでもないですけどね。朝鮮人ってだけで祭りでも結構疎まれてましたから。ほら、こんな風に母親の背を追いかけてて、はぐれたら見つけてもらえないんだもの」

「僕は君の母親じゃないぞ」

「当たり前でしょ。僕もそんなこと思ってないです。景色が似てるなあって言っただけで」

 むっと顔を顰めながら返すと、千歳が微かに口元を緩めた。空を見上げ、遠くに飛び立つ鳩の群れを見つめ、目を細める。

「僕は区切られた空か、一面の雪か、飢えて人がばたばた倒れてる道くらいしか覚えてないな」

 はたと思い立ち、言葉を重ねる。

「あ、でも雪は好きだぞ。真っ白で、こう……屋根より高く積もるんだ」

「へえ、それはどこで?」

「ソヴィエト。北も、そこまではなくとも雪は積もる」

 千歳はへへへと言葉濁すように笑った。クルリと踵を返し、再び人波に逆らって歩き始めた。

「そんなに積もるんですか。それはそれで楽しそうだな」

「でしょ。きれいだよ。星みたいにきらきらした固まりが、ずっとずっと落ちてくるんだ。道も畑も全部埋まっちゃうから、一面の雪原で、月に照らされるとほのかに青くて、とってもきれい。しかも、そういう時の月に限ってすっごく大きくてピカピカしてるんだ。金色のコインを磨いたみたいにさ」

 鳥が囀るごとく笑い、千歳が空を見つめた。その先に何があるのかと、真一も思わず視線を辿っていた。

「日本では、雪降らないの?」

「地域によっては降るところもありますが、東京はあんまり降りませんねえ。降っても、黒ずんであんまりきれいとは言えません」

 真一は一瞬、なぜ彼女がこんなに冬が好きなのだろうと思った。真一にとっては、寒さは強敵であり、出来れば来てほしくない部類に入る。

「いいですね、楽しそうだ」

「そうだね」

「うーんでも、本当にそこに住めるかといったら難しいだろうなあ。うん、どうにもならない暑さより調節が利くからどちらかと言うと寒い方がいいけど、やっぱり俺は寒いのは苦手だし」

「ふふ、やっぱ日本人は打たれ弱いよねえ。僕らとしては、日本の暑さのほうが辛いけど」

「例えば、どれくらい寒いんです?」

「睫が凍る」

「うわあ、究極!」

 ケラケラと笑った。

「雪のどんなところが好きなんですか?」

 少女が、えっと驚きを漏らした。雑踏が二人を避けるように流れていく。

 雪が積もりだす。

 窓枠に小さな身を乗せて、ずっとずっと、飽くことなく眺める。

 青と黒、それに一面の白の中、子供は小さな心を抱え、ずっとずっとソレを待っている――。

「そうだね……雪が、降ったら――兄貴が帰ってきてくれたからかな」

 孤立した村の入り口。豆粒のように小さな人影が見えた。

 子供は、ぱあっと表情を華やがせ、分厚いガラス窓を持ち上げ、開いた。重たい雪がばらばらと散って、頬に降りかかったが気にしない。

 子供は手を振る。窓枠から転がり落ちるのではないかというほど身を乗り出して、大きく大きく、相手に見つけてもらえるよう、ずっとずっと手を振る。声を張り上げる。

 雪は好きだ。雪が降れば、冬が来る。冬が来れば、交通が途絶える。

 そうすれば……一人の少女を心配して、唯一無二の彼は帰ってきてくれる。

 なかなか帰らなかった分、一日中一緒にいて、食事をして、他愛ないことに大声で笑う。いくら寒くとも同じベッドに潜り込めば温かかったし、何より自分の隣に家族という絶対的な繋がりがあることが、幼い少女の一年を支えていた。

 雪が降れば、兄は帰ってくる。

 雪は、兄の帰還を告げる唯一の使者だ。

 思い出して、むっと顔を顰めた。鼻の奥にツンとした痛みが走る。泣いた後に近いものだ。

 日が明け、避けるように町に繰り出して半刻。自室に蟄居していた兄とは顔を合わせずに済んだが、一夜明けた悲しみはむず痒い怒りに変わって、沈黙を守る扉を視界に入れるだけでふつふつと煮えたぎるのだ。

 アンナムは哀れみの目を向けてきたが、取り合わなかった。あいつは兄貴の手のものだもの。

 少女は雪が好きだ。

 手の中で兎が跳ねた。雪の降る地を駆け回った飴色は、兄が一人待つ妹へと与えた唯一のものだ。

 

 聖の立つ影よりも濃い闇色を溶かした男達の横で、彼らとはまた違った一団が駆け込んできた。

 明かりの下照らし出された彼らは、咄嗟に飛びのいたアジア人に構うこともなく見上げた。

 肌も髪も、瞳の色さえ違う様々な人種を寄せ集めたその中で、先陣を切り、一際息を切らす男の姿を見つける。

 輝くようなブロンドの髪、背は高く、すらりとした無駄のない体型。彫が深く整った顔は、今は本人ですらどう表現していいものか戸惑っているのだろう、奇妙に引きつっていた。

 聖は満足げに口元を歪めると、新しい客人に礼儀を払うがごとく、ゆっくりと日の下へと歩み出た。

Nice to meet you. My dad?

 滑るように唇から紡がれる。何年も何十年も待ち望んだ言葉だ。

目の前の男が目を丸く見開き、『お前は……』と震えた声を絞り出した。

彼の目には、いつだったか日本で見たままの男の姿が映っていた。立ち居振る舞いには一種の厳格さと崇高さが加えられ、単身戦場に送り込まれた猛将のごとき威圧感を与えてくる。

「タカツ……!」

 聖の口が、嘲笑で歪む。目を細め、出来得る限り最上級の侮蔑の眼差しを送ると、真っ白な犬歯をぺろりと舐め上げた。

「だれですかねぇ? ああ、そうそう。タカツ、マサオミ……彼は死んだはずですよ。俺は、理性を食い殺した人間だ。自分の中に一人格を作り上げ、不要となればすぐさま捨てる、そのくらい容易です。それよりも、なぜその名を呼ぶのか。あなたも俺の本当の名くらい知っているはずだが」

クツクツと喉を鳴らし、いつと続くか知れない身を今まで隠れ続けてきた太陽に晒す。直接的な光線にされされた身は、じりじりと温度を上げ、どろりと溶け出してしまうのではないかと錯覚する。

「聖と呼べよ。お前の子供なんだからさ」

 男の目が、カッと見開かれた。本能的な恐怖と焦り、相手に罪のない怒りに惑わされ、逆上の一歩手前で辛うじて踏みとどまっている。

 しかし聖は、彼が己を支えきれず崖下に落ちるのを待たなかった。

 何度も舐めた辛酸、苦渋、ありったけの恨みと侮蔑を込めて、脳細胞に記録された残酷な言葉を選び出してはパズルのように巧みに組み上げていった。

 もし、この場この立場でなかったなら、目の前の男も、その弁達さへ素直に敬意を覚えただろう。

「あんたは地位も名誉も命すら保障された場所でぬくぬく暮らしてたかもしれんがな、あいにくこっちはそんな甘っちょろい育ちしてねえんだよ。あんたに分かるか? 年の半分は雪に閉ざされ、零下四十度もざらだ。栄養失調と過酷な労働、先の見えない不安からの心労で何人も何十人も倒れ、希望なんてこれっぽっちもない。一度埋まると、圧死するか凍えるのが早いかという量の雪が堆く積もった極寒の中での重労働、物資も限られ、皆骨すら凍らせ砕けそうな独房、同じ部屋の奴らには混血児として爪弾きにされ、アジア民族からは日本人だと追いやられる。食べるものもほんの少しで、寒波を凌ぐための服、靴の類は生命線だ。横行する略奪から逃れようと疑心暗鬼にもなるさ。靴を失えば、その人間は死ぬしかねえからな。衰弱しきった者の数が日増しに増え、死んでいくんだ。それはそれは素敵な光景だったぞ。聞こえてくるのは病人の唸り声と、肺に響いた重症の堰、日増しに大きくなって、今日は何人死んだ今日は何人倒れたという数字だけが残っていく。病院にはなかなか入れてもらえず、皆手遅れになって死んでいくんだ。腰を痛めたものは体が二つに引き裂かれる苦痛を味わいながら悶死し、肺を患ったものは血反吐を吐きながら体温を失って凍え死ぬ。しかもまあ、埋葬しなけりゃならん死体は増えるが、降り続く雪は行き場を失って積もっていくばかりだ。仕方がないから谷に投げ捨てる。そりゃあもう、物のようにね。アレは最高だった、自分の末路を見てるようで、最高に死にたくなったよ。この死体が氷の中冷凍保存されて、きっと、はるか遠い未来発掘されたとき、マンモスがそうだったように世紀の発見だとさらし者にされるんだ。肉付きのいい親子がその前を通って楽しそうに言う。ほらみて、あれがずうっと昔戦争で負けた国の人間よ。勝った国に連れて行かれて、散々働かされて死んじゃったのね。小さい子供に語りかけるんだ。働かされるって、働きたくなかったら働かなきゃいいのにね。今じゃ四六時中働くなんて考えられないわよ、アハハ……ってね」

 聖の目がキラリと輝き、今にも食って掛かりそうな殺気が狂気に混ざる。

「お前たちはそっち側の人間なんだろう? 守るべきものを己が富のために踏み潰して、あれは愚かだこれは馬鹿だと嘲ってちっぽけな自尊心を満たしている。戦争に勝ったって驕っちまえば皆同じなんだよ、下衆が」

『貴様……っ!』

 庇うように男の周りを囲んでいた輪が思わず歯を食いしばり、駆け出そうとする。

 だが、その流れも聖が右腕に握ったものを掲げたため、止められてしまった。彼の手に握られていたもの、黒光りする簡素なスイッチからは大きくコードが伸び、黒いそれを目で追っていくと、一番大きな火薬瓶に続いている。

 広い室内に聖の哄笑が共鳴し、爆発的に響いていく。

 たじろいだ男達が身を引こうとする。聖の手が突き出され、その動きを制した。

「おっと、変な気を起すなよ。一人でもここから出ようとしたら、容赦なく押す。そうすれば仲間と一緒にドカンだ」

「聖……っ! そんな馬鹿な真似はやめなさい。な、今ならまだ国が保護してくれる。何ならわたしの下に組み込んでもいい。ああそうだ、妹さんがいたんだったね。もちろん君も君の妹も最高の待遇を保障しよう。誓うよ、決して君たちに危害は加えない。私も出来る限り政府に働きかけてみるから、もう一度家族に……」

 聖の表情が曇った。違う。曇るというより、温度が下がったように冷淡さを増したのだ。事実、聖は腹の底で感情の温度が下がり、全身の血管が脈打ったのを感じていた。

「家族? 俺たちがいつ家族だったというのです」

「私と君は血が繋がって……」

「はっ! 合理主義社会の手先が、最もくだらない理屈を信じているのか。一つだけ教えてやるよ。血は人間を縛らない。所詮は分類上、進化論上の単なる記号と数字の羅列だ。いつだってそうじゃないか、ギリシア神話から始まり各地に残る伝説・昔話に至るまで全ては争いの歴史だ。考えても見ろ、その中に、親子が争い殺しあった戦争がいくつあったと思う? 親が子を、子が親を殺した事件がいくつあったと思うのか。結局は血のつながりとはその程度のものでしかない。人間は弱いから血の繋がりなんて根拠のないものを崇拝して、絶対だと無条件に肯定したがるが事実は違う。結局はDNAに刻まれた塩基の羅列でしかなく、進化のために用意された生殖の仕組みも、起こりうる現象から身を守るため、オリジナルとなる何かから抜きん出る手段の一つでしかない。それに、今更俺を引き取ったところで、あんたにはすでに家庭があるだろう。種としても高位な、幸せしか知らないぬるま湯みたいな家庭が」

 男が苦渋の表情を浮かべ、言葉を飲み込んだ。

 そうだ、あんたと俺とは元々交わらない存在だった。血の繋がりが何だ、俺にとっては血が繋がっていようとあんたの命に何の価値もない。死のうが生きようが、不幸になっていようが幸せになっていようが、興味などないのだ。

 なのに、そうやって生まれてこの方平坦な道を進んできた人間は、俺たちにとって見れば他愛ない凹凸をまるで急勾配のように避けたがる。丸め込み、隠蔽し、初めからなかったことにしたがるんだ。

 そしてそんな人間たちは、俺たちのような本当の困難を経験した人間をすぐさま切って捨てる。生きる資格すらをも剥奪する。

「俺はな、おまえには今更何の期待も持ってねえんだよ」

 そう、今更目の前の人間のクズに、希望も何も持っちゃいない。俺の生きてきた道は生ぬるい人間たちが演じる芝居じみた馴れ合いとは違って、信じられるものは己のみという極限の強さがあった。だから今更、格下のお前たちに期待するものなんて何もない。

「俺が手に入れたいのは唯一つ」

 そう、俺はこのためだけに生きてきた。この願いを果たすためだけに足掻き、裏切り、血に塗れて生きてきた。

「生きるということだけだ……!」

 それが全て。

「生きるために生きる。生きたいと願うのに、資格など必要か? 俺は生きたい、生きて生きて生き続けていたい。生きるという目的のために生きたい。唯それだけだ。なのにお前たちは、そんな俺たちの願いすら理解しようとせず、不要となれば殺すことしか考えていない。分かるか、この屈辱が。この絶望が! 俺はお前たちが何の苦労もせず手にいれ保障された生きたいと願うことを、勝手に命の価値を図られ、奪われるんだ!」

 憎しみが、今までにない濃度をもって溢れ出てくる。日に当てられた肌は汗ばみ、ジリジリと痛みを訴えていた。

「俺は全部が嫌いだ。嫌いで嫌いで嫌いで嫌いでたまらない! 俺が出会ってきた全てがそうだ。根拠のない純血の優位を盾に俺を卑下する人間たちも、みんなみんな馬鹿としか言いようがない。自分が惨めだとすら気づいていない愚か者なんだ。特に、大国が目隠しをしただけだということを知っているのに、もっと大きな真実から目をそらし、偽りの平和に浸りきって脳を侵された日本には虫唾が走るね。そうだ。俺はお前たちが俺を否定してきたように、俺の前に広がる全てを否定してやる。日本が、アメリカが俺の祖国だなんて信じない。俺に祖国なんかない。何が悪いと言うのだ。生きるために殺す。お前たちだってやってきたことだろう!」

 すでに自分自身、何を言っているのか分からない。ただひたすら、溢れ出てきた思いを、感情を、己の歩いてきた道――目の前の人間たちが、今にも全否定しようとしている自分の歩んできた人生そのものの軌跡――が聖の喉を震わせ迸っては獣の咆哮を上げていた。

 彼の父は、何も言えずただ絶望の淵で聞いているしかなかった。聖の言うことは、全てとは言わないが正しい。しかも彼のものは、悲鳴だ。彼の心が泣いている、泣き叫んでいるのだ。

 親に助けを求めるでもなく、問答無用で押し付けられる不条理を受け入れねばならないことを知りながら、それでもなお泣き叫んでいる。不条理を不条理だと最後の悲鳴を上げている。

 そのとき、彼は初めて目の前の男が子供なのだと知った。

 嗚呼そうだ、全てを受け入れる許容もなく、全てを否定する勇気もない。明らかに間違っていると分かっている道しか選べるものはなく、間違いを間違いとして正す存在すらをもいない。それでもなお、生きようと、生きたいと足掻いて、疲れきった中最後の力で親を呼んでいるような。

「聖……」

 思わず手を伸ばす。偽善でもなんでもなく、純粋に目の前の子供を“助けたかった”。

 風が泣く。空気が、建物が泣いている。聖の叫びを飲み込み、世界全てが泣いている。

 だが、彼の手が息子に届くことはなかった。

 突如として、銃声が上がったのだ。

 自分の身を抱きしめ、俯いていた聖が反射的に顔を上げる。

 男がそちらを振り返ったとき、気の抜けるような奇声と共に複数の弾丸が爆ぜた。

 ――まさか!

 並んでいたのは、彼らの知らない男達だ。プロではない。東洋人のようだが、その目には人殺し独特の血生臭い臭気が感じられなかった。

 新手――?

 引きつったような奇妙な声を上げ、彼らは狂ったように銃の引き金を引いていた。

 すぐさま破壊者の表情に戻った聖が胸元から銃を取り出すより早く、一発目の弾丸が彼の右腕を抉った。

 バチン! なにかがショートしたような音が轟き、鋭い衝撃が身に伝わってきた。何が起こったのかを冷静な脳が判断する。

 撃タレタ。スグサマ応戦ヲ。

 だが、彼の動きは一瞬の後に止まった。起爆スイッチを握った右腕を見る。その目にはあるはずのないものが映っていた。肘の下に、大きく赤い穴が穿たれていたのだ。

 突如として痛みが全身を這い登ってくる。血がとめどなく流れ、全身の骨が砕かれる錯覚をきたす。痛みという感情に慣れた脳がすぐさまアドレナリンによって痛みを紛らわそうと画策する。だが、それも殆ど無駄といっていいものだった。

 貫通した弾丸が、地面に転がり血の筋を引くのがわかる。血が滴って奇妙に生々しい様相の手から、プラスチック製のスイッチが地面に放り出された。

 空気が入れ替えられたようにのたうった。

『撃て!』

 男の背後で怒声が上がった。朝鮮語を話す一団が、一斉に銃撃を開始する。こちらは身震いするほどの殺人者の目だ。

「やめろ、撃つな!」

 男は叫ぶ。だが、彼の言葉は誰の心にも届かない。

 この部屋にいたのは、朝鮮語を操る北の腹心と、狂った日本人だったのだ。

 聖は全身を襲う痛みに反してカッと頭に血が上るのを感じた。ぺろりと唇を舐め、鋭い視線を眼下に投げかける。

 音はしない。銃撃音も人々の怒声も、皆怒涛のように押し寄せてくるはずなのだが、死ぬ前の心境か、彼にとって見れば世界はよそよそしいほど静かだった。

 予想外に心の中はすっきりと片付いていた。

 俺がやることは一つだ。

 彼は、今まである一定の法則でのみ動かしていた右足を思い切り蹴り上げた。

 時間、物資ともに不足。この火薬も殆どがダミーだ。

 いくらかはハッタリで通せると思っていたが、思わぬイレギュラーで計画は台無しだ。

 彼も、自分を撃ったのが正常な同業者ではないことに気がついていた。

細いワイヤーがキラリと光り、どこからか聞こえた金属の軽い音が彼の鼓膜を揺さぶった。

パチン。

ワイヤーの先で、括られた金属の輪が床を滑る。その輪からは一本の棒が突き出ていた。

嗚呼、これが俺と世界の繋がりだったとは。なんと簡単で、なんと空虚な。

本物の火薬は一箇所にまとめて置いてある。起爆スイッチはたった一つの手榴弾だ。

これが俺の取りうる最高の策。俺が考えうる最高の死。

手榴弾からは、肉眼でもよく見なければ分からないような細いワイヤーが聖の右足まで繋がっている。その先が、カラリと音を立てたのだ。

さあ惑え、混乱しろ。奴らが逃げ出せるだけの間な。

これが俺の、

生きてきた何十年という集大成、

唯一出した答え、

唯一の、

 

正義だ

 

かっと目の前が白く塗り潰されたと思った直後、盛大な爆発音が響き渡り、一瞬にして居合わせた人間たちを飲み込んでいった。