『居場所が分かった?』
思わず声を荒げ、目の前の部下が一瞬驚いたように目を瞠った。足音を立てつつ席を立つと、壁際にかけてあるコートに視線を走らせる。
『今まで決して尻尾を見せなかったのに』
何かが違う。
反射的にそう思ったが、興奮気味に顔を染めた部下が、インクやペンの散ったデスクにずいっと身を乗り出してきた。
『場所は、都内外れの森に面した廃ビルです。昔は、病院として使われていたようですが、集落と離れていることと、先の大戦で甚大な被害を受け倒壊の危険があるということで、今では人が入ることもありません』
『盲点を突いたか』
『どうしますか、ヨンスク様に……』
スンファンは、思案するように一、二歩足を進める。うぅむと声にならないよう唸り、腕を組んだ。
『いや、いい。その代わり、一人ほど現場指揮官を見繕ってほしい。その者に十人程度の兵を伴わせ、現場に向かってもらう』
コートに手を伸ばし、部下の肩を軽く叩くと、思わず緩みそうになった口元を無理やり引き結びながら『はいっ!』と明るすぎる返事が返ってきた。
彼は今にも駆け出しそうに、手足を落ち着きなく動かしながら退室すると、忍ばせることも忘れた盛大な足音が遠ざかっていく。
スンファンは、軍帽を被りなおし、唾に隠れた下で、鋭い目を室内の一角に走らせた。
視線の先で、影が柔らかい線を帯びてうごめいた。
キラリと光った瞳は、それまで隠れていたことを感じさせない、生々しいものだ。
――そろそろか。
『頼みたいことがある』
その影に向き直り、彼は己の最も信頼する人間を手招いた。
病室の中で、退屈を噛み殺していた狐塚は傷口がうずくのも構わす走り出したい衝動に駆られていた。入院して何日目だろう。早く早くと焦る気持ばかりが空回り、反対にまだ若い自負するこの身体は傷の直りが酷くスローモーだ。
頭を使うというよりもとりあえず駆け回り、とりあえず歩き回る性分故、いくら疲れていたとはいえ、身体はすでに、これでもかと与えられる余暇をむず痒いほどうっとおしく感じている。
走りたい、走りたい、現場にでたい。急がなきゃなんねーのに、ああもう、早く退院させろっての! あのヤブ医者!
それでも何とかその衝動を押さえ込めているのは、目の前の男――見舞いだとは口が裂けても言わない熊の、王者然とした貫禄のおかげだ。
熊は、ちゃちなパイプ椅子にどかっと腰を下ろすと、大きく鼻から息を吐き出した。
パイプ椅子が予想外の重さに耳障りな悲鳴を上げた。
すでに内部のことすら話尽き、状況はこう着状態に陥っていた。
「で、どうなんですか? その……新しく来た管理官っての」
「お、知ってたのか」
熊は、驚いたように片眉を上げた。
「まあ、出来る男であることは確かだな。今は俺らも闇雲に地どりするしかないから、強行犯係が抱える事件にも出張ってるみたいだが」
「強行犯? 殺しですか?」
「いや、一応まだ暴行だ」
相応に齢を重ね皺の浮き上がった太い首元を、ネクタイを緩めることで開放してやる。こうやって仕事以外の彼を見ていると、くたびれたオヤジにしか見えないから不思議だ。
自然に猫背になってしまうらしく、軽く腕を振り回すと肩の間接がバキンと不穏な音を立てた。
「まだ死んでない。半殺しの範疇ではあったがな」
「うわー、えげつねえ。で? 被害者はどこのどいつです?」
「いわゆるやーさんの使いっパシリだな。たちの悪い、不良崩れだ」
「へー、組は黙ってるんですか? 報復気にするなら、丸暴にも協力要請しなきゃでしょ」
目の前の巨体が、普通の二倍もあるのではと思われる腕を組み、唸った。猫が唸っているとしか思えないところが、何だかおかしい。
「まあ、関連っちゃー関連なんだがなあ。組も大して重要視してなかったみたいで、報復は気にしないでも良さそうだ。何より、本人が怯えて相手が何処のどいつで何人なのかすら喋らん。相手がわからねえと、いくら組でも手出しできんのだろう」
「あーあ、そりゃ大変だ」
ケラケラ笑って言うと、肩を竦めた熊は「だからこそ、管理官のお守りにぴったりだということだ」ウンザリと目を瞑った。
「こう着状態でなんともな。こっちも色々と多忙だが、あっちも若い衆が骨抜きになっているのを見ると、どうにも同情的にならざるを得ん」
「そうっすか。どこも一緒ですねぇ」
そういえば、あいつが見つかったのは間宮が捕まった辺りだな、と呟いた言葉はころりと転がり落ちて、無機質な床に目に見えぬ引っ掛かりを残した。
病室の扉が開かれる。ナース服に身を包んだ女が顔を覗かせ、狐塚に目を留めると手招いてきた。
――この命、お返しする時が来ました。
思い返せば随分と長く生きていた気がします。
全ては自分が生まれた責任だというのに、俺は自分の命に区切りを付けることすら出来ませんでした。
生まれてこなければよかった。俺の、根底に植え付けられた劣等感の叫びです。何度となく口にも出しました。
しかし、俺はこの世に存在意義を与えられてしまった。あなたという存在を守り、千歳という存在を導いてこそ、俺の存在は幸福と劣等感に勝る何かを手に入れることができたのです。
それでも……正直に自白しようと思います。
俺は今、自分が死ぬと分かった時点で何だか得体の知れない安堵感にのみ、身をあずけているのです。
あるべきところに収まったというか、心のどこかで望み、願っていた収束であると断言できるのです。
俺は死にたかった。だが、死ねなかった。
俺が生きることと俺が愛する存在を生かすことは全て同義で、俺は唯、《生かすために生き、生きるために生きていた》。
もし、この世に神という存在がいるとするならば、きっと千歳は銃をむけるでしょう。俺の運命を、生い立ちを、苦悩の全てを証拠として突きつけて、死という結末を覆そう、若しくは報復をと食って掛かる。もしそれで相手が傷つかず、自らの命を落とすことになっても、千歳はきっとやらずにはおけない人間です。
だって、それだけあいつの中で俺の存在は大きくなりすぎたと、自覚しているから。
それももう、これで終わりです。
俺は……俺は、『ニッポンジン』だ。
敵国から「戦術でない」と恐れられた特攻も、国、家族、己を構成する全てのためになら命を賭すものたちの血筋の者だ。
いくら俺が己の片割である日本人を憎み、どちらともつかない身を憎悪し、劣悪な感情の中卑下されようとも、決して失われることのなかった因果だ。
俺は、その全てが嫌いだった。生きる余地のない戦争、骨の髄から教え込まれた服従、奉公。盲目であることを美徳とし、一端の犯した馬鹿げた狂気にも、進んで乗り込む浅はかさ。
嗚呼そうだ。俺は日本人が憎い。その後に来た苦痛も、苦悩も忘れたふりをして、皮一枚でかろうじて繋がっているような偽りの平和を綱渡りで紡いでいく。絶対的な大衆性も、己以外には決して無頓着な国民性も、全て全て、全て!
だが、今ならその意味も分かろう。
ニッポンジンとしてではなく、一人間として。
聖は、暗いコンクリートの中を、靴音を響かせながら当てもなく歩いていた。鋭い光は熱を持って、室内を有彩色と無彩色にくっきりと色分けていた。
こつ、こつ、こつ。聖は歩く。光の届かない影を、ずっとずっと当てもなく辿っていく。
割れた窓ガラスは光を拡散するのも止め、通り過ぎる生暖かい風を直に感じさせている。
人の手も入らず木々が生い茂っているからか、何処からか鳥のさえずりが聞こえ、木霊しては首筋をこれが平和だと言わんがごとく舐めていく。
彼は、閉じていた瞼を薄っすらと開き、ピントが合わずぼやけた視界で、有彩色の世界を眺め見た。全てを貫き、暴き、照らしていく午後の光と、境界を失った色の洪水がとりとめもなく広がっては、彼の中、幻想世界をくるりと回した。
はるか昔に人がいたらしい気配の残る壁の滲み、ひび割れた壁際からは、何処からか種が飛んできたのだろう、蔦のような緑が這って風に揺れている。しかし、その先にはこののどかな光景に全くつりあわない物体の影が落としこまれており、その影は部屋一面へと広がっているのだった。
広い部屋を大きく眺め、息をつく。肺に長年蓄積されたかび臭い臭いが流れ込んだが、今はむしろ心地いい。
彼は、ゆっくりと目を閉じ、瞼の奥で、肌全体でこの場の全てを取り込もうと時間に身を任せた。日光に暖められた肌は上気していて、自分が植物にでもなったのではないかと錯覚を覚える。
目を開く。歪んだ世界が、再び確実な像を結び始め、絶対的な存在として目の前に広がった。
――サア、ハジメヨウカ――
獣は覚醒した。
ギラリと射る光を目の奥に、獰猛なそれを取り戻した身が、肌が、細胞単位で沸々と煮えたぎる。
遠くに小さく息遣いが感じ取れる。空気を震わせ、進んでくる気配を追って、猛獣は首を持ち上げた。響いてきた足音の数を数え、次第に大きくなるにつれ、彼の動作はゆっくりと、捕食者のそれに酷似していく。乾いた唇を舌で舐め、足首の間接を一つ鳴らして、手の中に握り締めた物体を確かめるように指で撫でた。
サア、
「地獄のゲームの始まりだ」
蝶番を跳ね飛ばし、蹴り飛ばされた鉄の扉が部屋の端まで飛ばされる。覗いた黒い銃口が、二つ三つと増え、黒ずくめの男たちがなだれ込んできた。
鋭い視線と同化した銃が、一段高い位置の聖を射程に収め、今にも火を吹こうと、虚ろな洞穴にとぐろを巻く闇色を濃くした。先制攻撃を刷り込まれた身はすぐさま反応を返し、思わず胸元のグロックに手を伸ばしかけたとき、悲鳴に似た怒声が幾多の銃の先端で沸き起こった。
『撃つな、やめろ! 待機だ!』
咄嗟に怒鳴ったのは、この場の指揮官と思われる大柄な男だ。先頭を切り戸を蹴り破った彼は、部屋に飛び込むや否や本能的な違和感を感じ、引き金を引かなかった。
苦々しく歯を食いしばった男の後ろで、幾つも息を呑む気配が伝わってきた。
無能な指揮官でなくて幸いだ、妥当な判断だな、と内心ほくそ笑みながら、聖は卑屈な笑みを浮かべながら劇場の支配人さながら優雅に腕を広げた。
「撃ってみろよ、さあ。俺は逃げないぞ。お前たちが殺そうとするのなら、死んでやる。どうした、怖いのか!」
目の前の集団が、ビクリとたじろいだ。その視線は四方八方に散り、部屋中を驚愕と共に見つめていた。
――サア、撃テ。撃ッテミロ――
「共に死ぬのが怖くなければな……!」
部屋の壁、天井、いたるところにびっしりと、火薬の束が、粉末が、ガソリンの袋が、重油のポリタンクが並べられていた。
まるで、蜂の巣に迷い込んだように幾多の禍々しい恐怖が折り重なり、この部屋の中全てから嘲りの視線を感じるようだ。