雨は絶え間なく降り続き、気分を重くしてはそ知らぬ顔で厚い雲を一面に垂れ込めている。湿り気を帯びた髪の毛が首筋に張り付き、ヨンスクはチッと舌打ちした。

 だから雨は嫌いだ。降るなら降るで、土砂降りに降ってくれればいいものを、こうも未練がましく遺物を垂れ流されては、たまらない。

 何が恵みの雨だ。単なる遺物じゃないか。

 彼女の顔を思い出し、喉の奥に苦味を感じて再び舌打ちをした。

 あの女、死ぬ間際まで強情な。

 自分は強いといってはばからない目を脳裏に描き、結露で曇った窓ガラスをかき消すように乱暴に撫でた。

 なぜこんなに腹が立つのだろう。奴はもう死んだのに。

 よかったじゃないか。もう一人の自分が言う。

 《成り代わり》は、社会に潜り込むために最も良い方法だ。それが権力を行使できる立場のものというのなら、尚更。死んでよかったのだ、奴は。《オリジナル》がいると、成り代わりは失敗する。ちょうど処分に困っていたじゃないか。ズルズルと生かしてきたことが、おかしかったのだ。くそっ、よく分からないが腹が立つ。全てあの女のせいだ。オリジナルは死に、私が残った。どこが不満なのだ?

雲は厚いなのになぜ、こんなにも空は明るいのだろう。

 ふと、冷静な脳が疑問を弾き出す。

 彼女は、白か黒か何事も極端でないと気がすまなかった。

 一か十。間の数字など存在しない。成功か、失敗か、ただそれだけ。

 雨を降らすなら、土砂降りで太陽さえ翳らせてみろってんだ。

 どうにもならないことに悪態を吐き、ヒヤリと熱を奪っていく窓ガラスの上でこぶしを握り締めた。

 不機嫌に歪んだ顔が、室内の明かりを映し出すガラス窓の奥で、恨めしそうに睨んでいた。

 軽い、ノックの音が響く。

 どうぞと応じて室内を映すガラスの上を視線が滑ると、実際とは反対に映し出された扉から一人の男が入ってきた。

 びしっと着込んだ軍服は幹部のもので、皺一つないのはそれなりの地位と名誉、金を手にしている証明だろう。肩で中将を示す星が煌めいた。

 目を上げた男は、射るような強い視線を彼女の背に向ける。

 ああ、奴と同じだ。吐き気がこみ上げてきた。

「お約束ですぞ」

 男は、恨めしげな声を出すと、室内でも脱がなかった軍帽の唾に隠れた目を爛々と輝かせる。

 駄目だ。嫌悪感が駆け上る。生理的恐怖と、本質的な憎悪。負の感情がいっしょくたになって、最終的には強大な劣等感となって胃を刺激する。そうだ、あの目だ。あの女と同じ。

「要望通り、我々は協力した。軍も貴公が望み通りに動かせる権限を与えたし、大切な義息を狩ることにも血を呑み目を瞑った。もう十分だろう」

 その瞳に陰りが浮かび、薄っすらと伏せられる。

 ヨンスクは、勤めて平静を装い、ゆっくりと振り返った。出来うる限りの微笑を浮かべて。

「だったら、どうして欲しいと?」

「ヨンスクを、我が愛娘を返せ」

 鋭い視線が走る。

 一瞬、室内の空気が凍りついたように止まった。

――さすがは、侵略・朝鮮戦争を渡り歩いてきたというところか……。

 指先が引きつった。

「お前に何の目的があって、我が義息を追うのかは知らん。だがな、私が協力したのは“ヨンスクが人質にとられたから”だ。そうでなければ、どこに娘の愛するものを間接的にも手にかけようとする親がいるだろうか」

「へぇ、初めから私が成り代わり者だと分かっていたと?」

「お前を娘と見間違えるどころか、面影を重ねたことすら一度もない」

「あら残念。私としては上出来だと思ったんだけど」

「男手一つ、何年共に過ごしたと思っている。似ても似つかんよ」

 全ては初めから相容れなかったのだと付け加え、男は眉を寄せた。

「ヨンスクを返せ。お前の目論見は失敗した」

 敵意の迸る姿を見つめる。ふっとため息を一つ吐いた。

「そう、だったら」

 獣の咆哮のような轟音が空を切った。

 鮮やかな赤が、視界に入る。

「会わせてやるわよ、今すぐに」

 男は、抉られた足を庇い、驚愕の目を上げていた。口は、まさか、の三文字を形作り、止まる。

 手の中の鉄の塊が熱い。

 彼女は、男の宿す光が再び息を吹き返す前に、引き金に手をかけた。

「さようなら、オ・ヨンチョル中将。あの世で娘さんとお孫さんによろしく」

 

 煙草をふかしながら、アンナムは空を見上げる。

 雨が止みやがった。

 紫煙を吐き出す。煙った視界に目が滲みた。

 ついさっきまで降り続いていた雨の名残か、そこここに広げられた水面の絨毯を遠慮なしに踏みつけ、人影が駆け寄ってきた。

 長年の腐れ縁は、気配で分かる。

 視線を背けたまま手を上げれば、にやりと笑う。

「おう、出迎えか?」

「馬鹿言うな。探したぞ。この状況下、行き先も言わずに出かけるか、普通」

「あー心配してくれたんだ、ラッキー」

「死体処理の必要性を危惧したんだ、馬鹿者」

 聖は足を止め、二人は車を挟んで対峙することになった。

 アンナムの背後には、今はもう使われなくなった廃墟が、今も変わらぬ威厳を持って佇んでいる。

「で、どうだった」

「んー、最悪の一言だな。航路も空路もめぼしいところは、ほぼ押さえられてる。裏ルートで何とかならんもんか探ってみたが、いかんせん、そっちは北かアメ公が潜んでやがる。万事休すだな」

「そうか。こっちは、ツテからの正式な答えで、受入国は何とかなりそうなんだが……」

 国を出られなければ意味がない。

「まあ、やつらも同じ穴の狢ってことだ。大体の行動は予想できるってクチだろ」

 仮のねぐらとして利用している廃墟に、聖が足を向ける。

 問答無用に寄せる齢の波に疲労を訴える身を思い切り伸ばして、欠伸を一つ。

 煙草をくわえなおしたアンナムの前を影が横切ろうとしたとき、かき消されるほど小さな、嗅ぎなれた臭いが漂った。

「テウォン」

「あん?」

 聖が振り返ると、真剣な目を細めたアンナムが、雨水に濡れた車に身を預けている。

「やりあったのか」

 忘れはしない。火薬の臭いだった。

「あ、バレた? あちこち見て回ってるうちに、あちらさんに見つかっちまってな。一応巻いてきたから安心しろよ」

 アンナムの口から、長い長いため息が零れ落ちる。煙草の煙で色づいたそれは、ゆっくりとたゆたいながら、濃厚な空の青に溶けていった。

「しゃーねえだろ。現役の頃は殆ど表に出なかったから、この顔で騙せると思ったが、俺の顔写真も捜査員に出回っちまってるみたいだしさあ。今でも二十八って言って通るんだぜ、一応」

「宿谷家の年齢不詳遺伝子も、面が割れれば形無しか」

 肩を竦めて見せた聖は、苦笑を顔に貼り付けていた。

 聖は混血のなせる業か、齢がうかがい知れない外見を有している。時には年齢より若く、時には齢相応に、時には実年齢より何倍も齢を重ねてみせる。それをアンナムは、若くして亡くなった彼の母親になぞらえ、宿谷家の年齢不詳遺伝子と呼ぶのだ。

 事実、この状況は忌々しいものだった。

 相手も裏の人間だ。相応の技術を用いて追ってくるだろう。生死を問わないどころか、死を前提にした逃走劇に、情の入り込む余地など存在しない。

 北の積極的関与という絶望的状況の中、この辺境の東の果てにいる必要すら霧散し身の安全を追求せねばならなくなったアンナムも、自身を含めた国外逃亡のため調整に走り回っていた。

「方法は、二つある」

 聖は、二本の指を目の前で立てる。アンナムの気難しい顔が、白煙の奥で訝しげな表情を浮かべた。

「一つ、ほとぼりが冷めるまで待つ。だがこれは、むしろ追跡の網を狭めつつある相手方に有利に働く確率が高い」

 二本の指のうち一本を折り、肩を竦める。

「必然的にもう一つに頼らざるを得ないわけだが、これが少し厄介でな。結果から言っちまうと、社会的、組織的混乱と打撃を加えること。やつらの理解の範疇を超えた事態で指揮権を一時的に麻痺させて、その間に脱出させる。ま、以前お前を都内から出したのと同じ原理だな」

「それはそうだが、今回は前と同じようにはいかんぞ。なにせ、大々的に《裏》が相手になる。以前のように甘っちょろいモンじゃ、目をくらますこともできん」

 アンナムの表情が、一呼吸の間を置いて硬くなった。不敵な笑みを崩さない聖に歩み寄る。

「君はまさか……」

「見回っている間中考えた結果だ。何も、安易に言っているわけじゃない。いや、違うな……ずっと考えてきた結果なのかもしれん」

 詰め寄ってきたアンナムに向かって、聖は清々しいほどの笑みを浮かべて踵を返した。

「代わりの切り札は用意してある。一応非公式で動いているとはいえ、もし俺の存在を知ったのだとしたら、あっちも裏で北の動向を監視しているだろう。北に情報を流し、こっちの舞台に引っ張り出したら、きっと芋づる式にあいつも深い穴の底から這い出てくる」

「確かに巻き込む人間は多いにこしたことはないが」

「俺たちがつくらにゃならないのは、《一時的でも収拾不可能な社会的混乱》だ。裏で息を潜めている奴らを、日の当たるところに引っ張り出してやるのが手っ取り早い。裏を知らん人間どもがぎゃあぎゃあ喚いてくれれば、保身と利益のすり合わせにしか目の言っていないふやけた日本人に何が出来る。本当なら、表の人間――そうだな、日本人が一番いい。よほどのことじゃないと対岸の火事でしかない民族だからな――日本人を巻き込みたかったが、仕方がない。それでも、自分たちが無条件の信頼を置いていた国の人間が、自分たちの膝元で事件に巻き込まれたとでもなれば、さすがのあいつらも騒いでくれるだろ。必然的に俺も身を晒すことにはなるが、まあその時はその時だ。せいぜい盛大な舞台であいつらを迎えてやるさ」

 そして、そのためには一つ、邪魔なものが存在する。

 その背が、洞穴を彷彿とさせる空虚な闇に飲み込まれていく。

 頑丈なレンガ造りの入り口を潜ると、闇の中に大きな吹き抜けが広がった。一階の巨大な空間と、かつて住居部分として使われていたらしい二階から四階までが、開放感とは程遠い重々しい沈黙に沈んでいた。

「千歳!」

 上空を振り仰ぎ、吹き抜けに向かって叫ぶ。コンクリートで作られた室内では、彼の声が共鳴され尾を引く。

二階部分から顔を覗かせた千歳が、手を振った。

屈託のないその姿に思わず安堵の笑みがこぼれ、そんな自分に苦笑すら覚えた。

背後から、アンナムがゆっくりとついてくる音が聞こえてくる。早足に階段を上がり、少女の前へと出ると、背後の男がわずかに目を細めたのが分かった。

 表情を引き締めると、不思議そうに首をかしげた少女が冗談交じりに声を弾ませる。

「どうしたの兄貴。硬いー、将来怒り皺できても知らないよ?」

「千歳、話がある」

 ふざけて眉間に手を伸ばしかけた少女を制して、かぶせるように低い声を出す。

 持ち前の直感で、すぐさま状況を察した千歳が表情を硬くした。

「お前には、亡命対象国に先遣隊として発ってもらう。該当国との調整、視察を含めた重要な仕事だ。対象国から命を狙われる可能性も否定できない。そんな状況にも、柔軟に対応できるものしか勤まらん」

「兄貴と? 僕、兄貴とだったら何処にでも行くよ」

「一人でだ」

 聖の口調が強くなった。

「俺は行かん。そろそろ、お前も自分ひとりで死線を掻い潜ってみせろ」

 千歳の顔から、血の気が引いた。

 腹の底で、巨大な漆黒の蛇が目を覚ましたようだった。

「なんで?」

 真紅の瞳が開かれ、千歳の血液が逆流する。後に、この得体の知れないものは、己の作り出した恐怖と絶望の化け物だったのだと知るのだが、脳に血の上りきった今の彼女には、この得体の知れないものを冷静に観察するだけの許容がなかった。

「何で? いつも一緒だったじゃないか。嫌だよ、僕は! 一人でなんて絶対行かない。行かないからね!」

「口答えをするな! お前も俺にばかり頼ってないで、少しは役に立ってみろ」

 千歳の口が、引きつり、怒りに唇を噛む。

 悔しげに歪められた表情を見るともなく、聖は足を進めると立ち尽くす千歳を追い越し、背を向ける。

 知っていた。自分は、いつまでも兄に頼りきりだ。足手まといだ。

 兄はそんな自分を容認し、受け入れ、その地位に甘んじてくれていた。

 役立たず――何度自分自身に投げかけた言葉だろう。そのたびに兄はそれでも言いといってくれた。生きていさえすればいいと、そう言っていた。

「いい加減、自分ひとりで生きてみろ」

 心が、凍った。

 漆黒の蛇がゆっくりと尾を上げ、目に見えぬ床に叩きつける。穴でも開いたのか、千歳の感情の端が綻び、どろりと黒々としたものが滴り落ちてきた。

 上体を起した蛇が、静かに舌を見せ、大きな咆哮を上げた。骨すらも揺さぶる声を合図に、千歳の中で何かが砕けた。

 勢いよく振り返ると、頑なな背を、きっと睨み付ける。視界は涙で潤んでいた。

「兄貴は僕が嫌いなの?」

 血の上った思考は、今まで言いたくとも言えなかった言葉を、たやすく紡がせる。

 傍から見ると短絡的なものだっただろう。しかし、彼女にとってその言葉は、生まれ物心ついてからずっとずっと抱えてきた自然なものだったのだ。

「僕が、兄貴と血が繋がってないから……!」

 恐怖に震え、痞えながら吐き出された言葉は、聖の胸をえぐった。

 違う。

 そんなはず、ないじゃないか。

 本当は、血が繋がらないという事実に固執していたのは俺の方だ。

血縁でさえ否定する俺を、血の保障すら見当たらない他人が受け入れてくれるわけがないと思っていた。だから、あの小さな子供が俺のことを兄と呼び、純粋無垢に慕ってきたとき、全てをささげようと誓ったのだ。地獄すらも這って見せたのだ。

母さん、なぜ俺を生んだんだ?

その疑問に、ようやく生きる意味が与えられ、同時に死ぬ意味を奪われた。

唇を噛み、振り返りすぐにでも弁明したいと叫ぶ己を押し殺した。

生きてはいけない。生きたくない、死にたい、死にたい、死なねばならない。俺は、俺は……!

「……そうだな」

 喉の奥、溢れ出る苦渋を飲み下し、違和感の残る口で呟いた。乾いた声が零れた。

 背後で絶句する気配が伝わってきた。

 崩れたと。いや、これでいい。崩さねばならなかったのだ。

 千歳のために。

 息が詰まるような音を立て、苦しげに飲み込まれる。千歳は走り出した。何処に行く当てもない、ただ衝動のまま足を踏み出しただけだ。

 その足音が遠ざかり、聖の姿も完全に闇に飲み込まれたところで、アンナムは静かに息をついた。

 背後の階段から、出る機会を窺っていたらしい真一が、恐る恐る顔を覗かせてきた。

「あの……二人は……」

「義兄妹だ。完全に血はつながっていない」

 目を伏せ、つま先をずらす。振り返ると、真一の不安そうな顔が見て取れた。

「千歳は、ラーゲリの日本人夫婦の間に産まれた子だ。幼いうちに両親が病と労働によって倒れて、二人と懇意だった宿谷マユに引き取られたらしい」

「そうですか……」

 真一の胸の奥に、冷たいものが滲んできた。

「ずっと……一人で劣等感抱えてきたんでしょうね」

 信頼していた家族とすら血のつながりもない。根拠はなくとも精神的なよりどころになりえる血のつながりという鎖さえ失って、彼女が抱えてきた苦悩はどれほどだったのだろう。

「あいつもな」

 遠い目を暗闇に向けるアンナムを見上げ、真一は居住まいを正した。あの時、宿谷聖が妹を突き放したときのような、絶望に近い色を見て取ったのだ。

「聖も、自分が純血でないが故に劣等感につながる。なにせ千歳は生まれは違うとはいえ、純血だからな。蔑視される自分とは違い、うまくすれば祖国に戻れるかもしれない人間だ。だから、千歳には事実上銃を取らせなかったんだろう。祖国に帰るのが、本当の幸せだというのは奴も分かっている」

「疑心暗鬼ですか」

「コンプレックスの塊みたいな兄妹だしな。実を言うと、ソヴィエト時代、あいつは何度か自殺しかけている」

 思わず顔色を変えた真一の前で、手首に人差し指と親指を当て、引いてみせる。

 アンナムすらも知らない、彼の人生の中で地獄の時代。

 彼は笑って話していた。端くれであっても《正常な日本人》だった自分が、いかにして理性を殺してみせたのか、その残酷な軌跡を。

「結果は……見ての通り死にきれず。しかも悪いことに、それを見つけたのが当時幼かった千歳だ。……最悪だろ」

 ため息をついた。

「一人間としての人格は出来ていたから、千歳も兄より弱い存在である自分が依存すれば、兄を死なせずに済むと学んでしまったらしい。血縁関係が薄い分、二人とも互いをつなぎとめておきたかったんだろう。聖も戦々恐々だったと思うぞ。あいつにとって、千歳は生きる目的そのものだったからな。あの子に捨てられたら、と思うばかりに過保護になりすぎた。母親が亡くなった時点で、千歳を自分の子供としてみていればよかったものを、下手に兄妹であり続けたのが間違いだったんだよ」

「兄妹って、親子とは毛色が違いますからね」

「ほう、分かるか」

 どちらかいるのか、と意味を込めて立てられた人差し指が、上下を示す。真一は首を振って、答えた。

「いえ。僕自身は一人っ子ですが、それらしい人がいたんです」

「そうか。まあ、とにかくお前が言う通り、何だか違うんだよ。親は子にとって恐怖であり、幼いときは絶対権力者に近いものだ。子供は、世界が狭いからな。親も、大抵が最終目的を子の自立に据えるから、遠慮のない叱責も施すだろう。だが、兄妹にはそれがない。喧嘩も行動も、序列はあれど親子に比べると平等だ。完全な強者と弱者が生まれ、均衡を保ち時には崩しながら存在している。だから、失敗するとあいつらみたいな完全相互依存状態が生まれることもある。

親子として過ごしていればいいものを、兄妹として側においてしまったから聖は甘やかし、全てを守り背負うことでそれを成そうとして、千歳は背を預け依存することで兄に生きる意味を与え、己の願いを果たそうとしたんだ。まあ、当時の精神状態と前後の状況を見れば、仕方ないとも思えるがな」

 ふと表情を和らげ、懐から煙草の箱を取り出した。

 驚くほどゆっくりと煙草に日をつけ、思い切り吸い込むと、ヤニの不健康そうな味がした。

 ――そりゃあそうだ。相手はその事実を知らないとはいえ、実の父に己の末路を嬉々として見せ付けられれば、己の命を絶ちたくもなるさ。

「よく知ってるんですね」

「事ある毎に、引き返せと銃を取らせるのを渋る兄と、少しでも兄と信頼関係を築いたものに嫉妬と恐怖から反発する妹だぞ? あんなにも開けっ広げなんだから、分かるも何もないだろう。わたしも、千歳の毒舌で散々噛みつかれた。ま、無害だと判断されたらしい今となってはいい思い出だが。これでも一応、派閥内では知将で通っていたしな」

 肺が痛み、腹の底にどろりとしたものが溜まるのを知覚した。良薬は口に苦いものだが、この不快感は絶対的な破壊からくるものだ。

「まあ、二人にとってはいい薬だと思っておけ」

 地獄は続くだろうがな、内心呟き、だがしかし絶望が決まりきっているのならその先を希望に変える努力だけはしなければと嗤った。