――シカシナゼ、内通者ガ、バレタノダ?
コール音。
こめかみの辺りがずきずき痛い。
相手が応じるのを待つ身は手持ち無沙汰で、窓に視線を移すと、何処までも重く濃厚な雨雲がどこまでも広がっている。大粒の雫が薄い窓ガラスを叩いては、その身を散らせていた。
「はい」
「あ、浜ちゃん? 俺オレ、狐塚。あのさー、突然で悪いんだけど、ちょーっとやってほしいことがあるんだよねー」
飄々と捲くし立てた狐塚の口調に呆れたのか、電話口の男は沈黙を作り出した。眉の寄せられたうっとおしそうな、迷惑そうな顔が脳裏に生々しいほど鮮明に浮かんだ。
「何」
「調べてほしいことがあるんだよ。住所と、電話番号」
「持ち主調べろってか」
「そ、若しくは住人か、企業ね」
再びの沈黙が紡ぎだされる。これはきっと、呆れというより軽蔑に近い絶句なのだろう。
狐塚の心のなかには残酷なまでの好奇心が渦巻いていた。彼女の家か、せいぜい友人の家、たまり場という場合もあるだろうが、奴の居所が一つでも知れるのはありがたい。
加賀は時々ふらりと行方をくらましてしまうことがあるのだ。
容易に窺える表情を払いのけるように小さなはめ込み式の窓に目を移す。雨は降り止むことなく、湿気を嫌う眉間がぴりぴりと痛んだ。
あんなに雲が厚いのに、何で空が明るいんだろう。
雨脚は決して強くない。名残惜しいように降り続いては、肌に伝わる物理的なものとの相乗効果で人間たちの気分を鬱々と湿らせていくのだ。
「俺の仕事じゃねえよ」
「そこを何とか。な、頼むよ。事件性は小数点の確率で、一応確認しておきたいだけだから」
ガラスに当たった雫が歪み、砕ける。重力に従い表面を伝っては、無数の尾を引いていく。
電話口の人物が、痺れを切らしたようにため息をついた。旨く言い含められ面倒を抱え込んだとき、頭を掻くのが彼の癖だ。きっと今も、諦めと苛立ちと、ドロドロと本人にも計り知れない無数の感情の中で、思わずそうしていることだろう。
「あーもう、分かった分かった。やってやるよ。それより狐塚、早く退院しねえといろいろと大変なことになりそうだぜ」
「大変なこと?」
彼は、はばかるように声を潜め肩を竦めると、電話口から耳を掠めるようなもどかしい声が届いた。
「本庁が腰上げた。さすがに失態が多すぎるってことで、お偉いさん送り込むらしい」
がたん。
浜田の背後で、戸が盛大に開かれる音がとどろいた。
驚いた捜査官たちが、手に持ったものもそのままに、勢いよく振り返った。刑事部、ガラス張りの出入り口。
駆け込んできた背広の男達は左右に避け、ぎろりと鋭い視線を向けてくる。
一人の男が歩いてくる。
黒いコートは既製品ではなく、あつらえたようにサイズもぴったりで手入れが行き届き、彼の威厳を象徴するようだ。
悠然と室内に足を踏み入れた男は、辺りをぐるりと見回し、にやと口元を歪めた。
視線の先には、額の辺りが心配になってきた課長の魂抜かれたような姿がある。
彼は目の前のデスクに歩み寄り、微笑んだ。
「凶悪犯逃亡の件で窺いました。本庁の一課管理官、六実です」
時が、
止まった。
しとしとと雨が滴り落ちる空を見つめ、まるで練乳みたいだと呟いてみる。
急激な状況変化。過去が足を引っ張ってきそうで、思わず足を速めていた。
駆け込むように電話ボックスに入る。肩や頭の雫を鬱陶しく落とし、軽く身を震わせると、彼は受話器を取った。
深呼吸を一つ。家庭用よりも重いそれを握ったまま幾つか硬貨を入れ、番号を数える。白い紙切れを確認しながら、一つ、また一つ。
コール音が受話器の奥で響き、彼は期待と不安の中で唾を飲み下した。
同日。
コ・スンファンは自身のデスクで疲労した目を揉みながら、手元に散った書類を床にばら撒いていた。あれから、彼らの足取りはつかめていない。女上司はたいそうおかんむりで、現場の人間を罵倒しては、スンファンに監督をしっかりせよと怒鳴ってきた。
正直、辛い。
断固とした目的のおかげで、何とかこの泥沼のような状況から逃げずにいられるが、三十を軽く超えた身に疲労は容赦なくのしかかってくる。
あの日、秘密裏に放っていた部下から受け取ったものは、引き出しの一番下、分厚いファイルの束が行く手を阻む二重底の中に保管してある。
あれが生かされるのは、もう少し先だろう。あれが意味を成すのは、最悪のシナリオに転がったときだ。
電話が鳴った。
今日は、かかってくる予定はなかったはずだ。
スンファンは、一瞬きょとんと目を丸くしたが、教えられたとおり三コールまでに受話器を取り上げた。
『はい、日本事務局第二事務室』
朝鮮語で吹き込むと、電子音交じりの女の声が応じる。
『大尉、外電です。お繋ぎしますか』
外電? 疑問に思いながらも、了承を出す。
僅かな不協和音の後、電子音の奥で雨の音がした。
雨の電話ボックスの中、彼の表情が華やぐ。握り締めた受話器を耳に当てなおし、恐る恐る口を開いた。
『オッパ?』
口慣れた言葉を紡ぐと、電話口が息を呑んだ気配。スンファンをそう呼ぶのは独りしかいない。
「真一か……?」
「うん、そう」
真一は、電話口で微笑んだ。
スンファンをオッパ(お兄さん)と呼ぶのは、彼の血縁に当たる間宮真一ただひとり。
出生で迫害を受けてきた両親の教育方針で、朝鮮語を学ばなかった真一が唯一知っている母国語だ。成長し、自分が口にしているのが女言葉であって男児が兄を呼ぶ呼び方は別にあると知っても、口慣れた響きは固有名詞のように彼の面影を思い出させ、変えようとは思わなかった。
「元気そうだな」
「そっちも」
けらりと笑う。
湿っぽい雨が、人々の雑踏と相まって、真一の気配を消していった。