暗い闇夜が生暖かい臭気で背筋を舐め、ぞわっと悪寒が走ったとき、もう何度目かの左折。

 すでに方向感覚など失い、辛うじて足がついているのが床だと分かるだけ。もし上に続くのが床で、お前は天井を走っているのだ、と言われても違和感がないほど濃厚な闇が辺りを占める。

 順序は入れ替わり、第二走者と化している真一の前を走るのは宿谷聖だ。千歳は、背後に気配が感じ取れる。少年の叫び声が聞こえなくなったのは、アンナムが制しているからか、はたまた諦めてしまったのか。

 すでに自分が何処を走っているのか分からない。出口があるのかも分からない。この上には、人間の営みがあるのだということすら信じられない。ただ、先行する背がある。だからついていく。単純な方程式に、体は素直に従っていた。

 何本目かの三叉路。本能的な勘で直進を選んだ聖が、スピードを落とすことなく一歩を踏み出す。しかしその鼻先で、嫌に明るい火が爆ぜた。

 銃撃。

 それだけを理解の範疇に、反射的に身を隠し、あまりに突然のことに止まりきれず飛び出した真一の首筋を捕まえた。首元だけを引っ張られ、真一の息が詰まった時、身の先で閃光が走った。

一つ、二つ……数え切れない。

ひぃっ! と小さな悲鳴を飲み込む。

 通路の影に引っ張り込んだ聖が口元に指を立てた。

「千歳、分かるか」

「OK、やってみる」

 銃を肩にかけなおした千歳が、静かに目を閉じた。耳を澄ます。

 金属が僅かに触れ合う音。唸るような風の遠吠えの奥、潜む人間たちが僅かに身を動かす気配。

銃が、火器が啼いている。金属独特の咆哮を上げ、獲物を屠るのを待っている。人いきれが、確かにある。

「敵は、四人。発砲音からして、ドラグノフ狙撃銃が二丁、カラシニコフが一丁!」

「もう一人は?」

「ここからじゃあなんとも……」

 絶対音感に加え、訓練された耳のよさでそう言い切った千歳は、手に持った銃のマガジンを入れなおす。

そう、これが彼らが千歳を欲しがった理由。圧倒的な状況判断能力と、情報の正確さだ。

 ただ、その特殊とも言える能力も、発砲してくれないことには発揮のしようがない。

「発砲数は、数えただけで二十三。ドラグノフがそれぞれ五発ずつに、カラシニコフが十三」

「まだ半分以上残っているな……」

「フルオートにしてるみたいだけどね」

 ただでさえ、装弾数の多いカラシニコフが相手だ。消耗戦は期待できない。むしろこちらが不利になる。

「仕方ない、仕掛けるぞ」

「了解」

 初弾を装填した千歳が呟いた。聖は懐から黒い塊を取り出すと、沈黙を守る闇の奥に投げ込む。かちん、と金属質な音が響き、息を呑んだ気配がした。

 身を乗り出し、銃を撃った。

 残念だが、あれはダミーだ。極限まで神経をすり減らしている奴らには、これだけで隙が作れる。

閃光が辺りを駆け、ほんのわずか辺りを照らしだす。

 四人。

すぐさまあの厄介なカラシニコフを手にした男に照準を合わせ、引き金を引いた。腕の付け根から血潮が吹き上がり、カラシニコフが闇に踊る。弾き飛ばされるようにして転がった上では、同じく身を乗り出した千歳の弾丸により別の一人が利き腕を撃ちぬかれていた。

「見えた! イングラム!」

 閃光の中、すぐさま応戦に出た銃口を見つけ、千歳が叫ぶ。

通路の影から転がり出た聖の後を、執拗に銃弾の帯が追いかけてくる。

 背負った銃を肘で押しのけ、右手に握り締めていた閃光弾のピンを抜いた。

 銃を構える人間たちの中に放り込み、身を隠す。正体を知る者たちは皆、銃の咆哮も駆けてくる靴音にも構わず目を瞑り、手で瞼を覆った。

 金属音があまりにも静かに轟いた直後、瞼をも引き裂くような閃光が辺りを満遍なく舐めた。

驚きとも悲鳴ともつかない叫びが僅かに聞こえると、すぐさま身を翻した聖が敵が潜む廊下へと身を乗り出し、銃を撃った。予想通り敵は暗視スコープを使っていたらしく、眼球に受けたダメージによって動きが鈍い。

硝煙の臭い、銃声。僅かな悲鳴はかすれるようにして消えていった。

 燻る異臭の中、慎重に通路の先を覗く。四人の男のうち、二人が血を滴らせ蹲り、一人が目を押さえながら何事か叫んでいる。残りの一人に至っては、ピクリとも動かない。

 ずるり、血の臭いすら飲み込んで、濃厚すぎる闇がのたうった気がした。

『離せ!』

 突如として、アンナムの腕の中の少年が暴れだした。すっかり諦めたものと思っていたためか、油断した腕が払いのけるように弾かれる。

拘束から逃れた少年は、風のように来た道を戻り始めた。

『あっ、おい待て!』

 その背は、すぐさま闇に溶けて消える。

『ヒョヌク!』

 咄嗟に追いかけようとしたアンナムを制し、聖が銃を持たせる。

 時間がない。諦めろ。

 音を聞きつけた敵部隊が、すぐにでもこちらへと向かい始めるだろう。いくら地下を縦横無尽に走っているとはいえ、出来るだけ早く脱出しないと、こちらの命も危うくなる。

 分かっている。分かっているが、そうやすやすと割り切れるものか。

 内心、舌打ちした。

 

 ザザッ……一斑より報告……現場制圧。死者、二名の模様――

 本部――了解した。身元は分かるか――

 雑音だらけの無線に、嫌に通る女の声がとどろく。

「こちら、現場指揮官。状況を報告する。死者はターゲット二名と、先発部隊の隊員が一名。残りのターゲットは逃亡。我が方の死傷者は、三名。逐次、情報を集め、追うように」

 ――了解――

 スンファンは手にしたイヤホンを下ろし、ため息をついた。目の前には、ライトで照らし出された黄麻貿易産業が聳え立つように沈黙している。

 あの後、少しはなれた山林で、発信機とともに銃殺死体が発見された。指紋や身元の分かるものはことごとく失われ、顔を潰された死体はその背格好から内通者「カン・シウン」であると判断された。

 彼の女主人は建物正面に横付けされている車に上半身を押し込み、無線に向かって捲くし立てている。無人の運転席についた手は、血みどろだった。

 ついさっき、二人もの人間を殺したのだ。無理もない。

 遠くから、何気ない動作で寄ってくる小さな影があった。

 黒く丸い瞳が彼を捉え、二歩手前で止まると、懐から綴じられた一冊の冊子を取り出す。

 分厚い。思っていたより、難題は多そうだな。スンファンはぼんやりと考えると、その冊子を受け取った。

小柄な身は闇夜に帰っていく。誰もが気にしない。それほど自然な動作だった。

 野次馬も集まりだし、次第に秩序を失いつつある。

 ぺらりと表紙をめくる。

 ここでもう一つ、ため息。並べられた無機質な文字に目を走らせてみても、どうにも興奮した脳が、それを意味のある記号だと理解してくれない。

もう少しうまくやってくれればよかったものをと、恨み言が頭の中を巡っている。

始末をつけるにしても、もう少し隠密にやってくれればよかった? 逃げるにしても、もう少し犠牲を少なくしてくれればよかったのか?

さあどうだろう。誰に向けたものなのかは分からないままだ。

 

 アンナムもまた、押し黙ったまま拾い上げられる無線の声に耳を澄ましていた。調達した車内で、絶望を通り越し虚無の中、言葉だけが色を成し、ぐるぐると堂々巡りをくりかえす。

 死んだ。わたしの生きるべき目標が、永遠に失われてしまった。

 こうなってみると、今までの苦労すら無意味に思えてくるのだから不思議だ。

 そうだ、わたしはこの十六年、自分に負わされた罪も知らず、祖国に戻ることだけに心血を注いできたのだ。それは全て、帰る場所を与えてくれる彼女の存在があったからこそ。

彼女がいて、わたしがあの国に戻れたなら、きっと義理の娘であるソンジュも、己を取り戻すことが出来る。そう思って、今までやってきたのだ。些細な幸せだけを糧に、闇に甘んじ、血の川に身を浸し続けてきた。

それがどうだ。わたしは全てを失った。それも、自分の無知のせいで、だ。

――ソンジュ、わたしはどうすればいい?

闇夜に問いかける。すっかり日も暮れた山中は、どろりと濃度の濃い漆黒に飲み込まれ、本当に夜が明けるのかすら分からなく不安になる。

幼い頃に母を失い、主に最高の人材を提供することしか興味のなかった父から愛情を与えられずに育ったわたしには、ヨンスクが全てだった。父の主であるオ・ヨンチョルに優秀な諜報員として提供されたわたしに、初めて与えられた仕事――それが、息女であるヨンスクの護衛だった。

人殺しの自分を軽蔑も、哀れみもしない女。初めはただの護衛対象であった彼女は、怯えもせずわたしの空っぽの心に踏み込んできたのだ。

彼女はわたしに『人を殺すな』とは言わなかった。

幼い頃から実父の仕事を理解し、時には混乱の中命を狙われる生活を送っていれば、その言葉がいかに無意味で夢物語の詭弁なのかを知り尽くしていたのだ。

その代わりに、彼女はわたしに絵を描かせた。

人を殺すしか能のないわたしの手に、銃ではなく筆を握らせ、

『花の絵を描いてきて。私はなかなか外に出られないから』

 単発任務で国中、下手すると国外まで出向くわたしは、そうして自分の手を汚し、命を危険に晒す度に、不器用ながらも絵を描き、国に帰るとヨンスクがその絵を見て図鑑から花の名を見つけ出した。何の変哲もない雑草が、彼女によって名を与えられ、定義されていく。

 わたしが感情というものを少しずつ手に入れ始め、ヨンスクとの婚約が本格的に決まったとき、任務でミスを犯した父は、敵国で自ら自害した。

 愛情も与えられなかった、単なる血の上でのつながり。遺体のない墓石を見つめ、ヨンスクは呟いた。

『悲しいね』

 嗚呼、そうだ。わたしはあの時初めて、悲しいという感情の意味を知ったのだ。

わたしの世界は、彼女によって色を持ち、広がっていく。ヨンスクはわたしの定義だ。人間として感情の欠落したわたしに、感情の一つ一つを教え、世界の美しさを教えてくれた存在。

 その輪の中にソンジュが加わり、そして……。

――生キロ。

 ソレガ全テダ。

 幼いままの姿で、ソンジュが言う。

 生キロ。

 生キロ。

 生キロ……。

 アンナムは目を閉じる。

 耳に届くのは、運転席でハンドルを取る聖の掠れた口笛だけだ。

 なんだったか。そう、確かソヴィエトのラーゲリで覚えたというロシア語の歌だ。はるか昔、アメリカと、かの地の仲も表立って悪くはなかった頃、軍事支援の名目で贈られた軍事輸送用の列車――パラウォーズとかいったか――を謳ったものだ。時折振れる呼吸音を混ぜ、音色は冷たく底なしの渦に落ちていく。

どんなに絶望に打ちのめされても、死ぬことが出来る人間などほんの一握り。どんなに、もう生きられないと嘆いたところで、精神と切り離された肉体は、無条件に生きようとする。

ソンジュのときもそうだった。わたしは受け入れるしかない。取り返しのつかなくなった現実を飲み込み受け入れ、傷ついた身を引きずりながら無様にも生きていくしかないのだ。

今までも、そしてこれからも。