話は少し、遡る。

 風が唸る。世界という獣が呻いている。

 コンクリートの地面を慎重に歩きながら、そんなことを思いついた。爪先立ちにならざるを得ないのは、足元に大小の破片が疎らに散っているからだ。

「あーあー、うまく出し抜いてくれちゃって……こりゃ、誰に責任押し付けられるか見ものだなあ」

 隣を歩くスーツ姿の男が、つまらなそうにそう呟いた。

 爆発物事件。強行犯係の仕事だ。知能犯係の自分には関係がないはずだった。

暇そうだからと人を関係のない現場に引っ張り出しておいてなんだよ。埃っぽい空気に口を開く気も起きず、不平は飲み込んでおいた。

「ちーっす、浜ちゃんどう?」

 抉られたコンクリート。放射線の広がった中心に腰を下ろしていた作業員の男が、顔を上げると、げっと顔を顰めた。

「狐塚。お前、重役出勤か。最近の奴らはいいご身分だなあ」

「仕方ないっしょ。朝から強盗だので駆けずり回ってたんだから。それより浜ちゃん、そっち忙しいみたいじゃないの。過激派に出し抜かれてるって?」

 ニヤニヤと笑みを浮かべたスーツの顔を苦々しく見上げる。

「少し前までは、過激派も押さえられてたんだし、どっかから捜査情報漏れてんじゃねえの? で、どうなの。今回もやっぱり、過激派の仕業?」

 作業員はううむ……と唸り、首を捻った。

「最近だと、潜りの奴らがうるさいでしょ。なんてったっけ……なんちゃらアジア……」

スーツがうろ覚えの単語を思い出そうと、目を薄く閉じ眉根を寄せた。

「東アジア反日武装戦線」

 すかさず助け舟を出す。強行犯係のこいつが知らないことを、知能犯係の自分が知っていることも何だか不自然だが、二人の性質を理解している作業着はあえて突っ込まない。

「そう、それ! そいつらの仕業なのか?」

 我が意を得たりと手を叩くスーツに、作業着はちらと視線を送り、首を横に振った。

「違うな。こりゃ、素人の仕事じゃない」

 辺りに散っていた破片の一つをまじまじと見つめ、拾い上げると、ほいと投げてよこした。

「爆発物っつっても、火薬の量、種類、部品や内容物で、製作者が新手かそうじゃないかくらいわかる。大抵は、そこらじゅうにある破片を集めてより分けてから、一つ一つの精密な調査に入るんだが、今回はそれが出た」

 埃ですすけたスーツを着込んだ男が、渡されたそれを太陽に掲げてみる。割れた破片に掘り込まれていたのは、一つの円とそれを囲む放射線。

「爆心地?」

「さあな。俺には太陽に見えた」

 作業着は億劫そうに金属片を拾いながら、背を向ける。

「そいつ、他の現場でも何度か発見されたことがあるんだよ。そして、たぶん今回も、どの破片にも当てはまらねえな」

「どういうことだよ」

「爆発で生じた物じゃないってこと。犯人が意図的に置いた、若しくは落としたものだ。ソレが犯人のメッセージか、自己顕示の証だろうな」

 スーツの男が訝しげに視線を上げる。

「裏の人間は、過激派の仕業じゃないと睨んでる。別件でしょっ引いた奴が、『ノ・テウォンは捕まったかい?』と言ったそうだ」

 スーツの男の眉が、見る間に顰められた。「何だ、それ」

「噂によると、プロのスパイだそうだ。年齢、本名、国籍共に不明。一応名前からして朝鮮半島の関係だと思うが、元がスパイだからな。偽名を使っている可能性も十分すぎるほどある。裏でもよく分からん、都市伝説みたいな男で……」

「捕まえるには、情報が足りなすぎるんだ?」

 作業着はゆっくりと立ち上がると、痛む腰をそらした。鈍痛に顔を歪め、歩き出す。

「まあ、俺らには関係ないがな。容疑者捕まえてしょっ引く。上が何考えてようと、現場は単純に動くだけってね」

 

一九七四年、某月。

電話のベルが鳴る。文字通りベルという音なのだ。あえて小企業然とした雰囲気を持たせた《表》には、電子音よりこのようなベルの音が良く似合う。忙しそうに立ち働く五人の部下の間を、わたしはゆっくりと歩んでいた。確かにそれは、この世に存在しない人間――神崎俊夫として、わたしが行う数少ないことだった。遠くでは、反原発運動の宣伝カーが不必要に大衆を煽る文句を並べ立てている。ガラス張りの入り口から覗く外の喧騒は、静かにたゆたうだけの私の時間を、ゆっくりと調整していった。

ガチャリと音を立てて黒光りする受話器を手に取った一人が、「はい、黄麻貿易産業です」と一息に吹き込んだ。

そつのない動きにふと頬が緩む。対照的に、受話器を握った男の方は、すっと眉根を寄せた。

「……悪戯なら切りますよ。もうかけてこないで下さい!」

 握った受話器に向かって怒鳴り、男は殴りつけるように受話器を置いた。それでも怒りは収まらなかったようで、苦々しげに歯を噛み締めていた。

「どうした?」

 背後から覗きこむように問いかけると、男が驚いたように振り向く。とっさに耳慣れた響きが男の口から零れ、はっと口を塞いだ。

「失礼しました。思わず『訛り』が……」

 あえて訛りと表現した男に、「気にするな」と応じながら、手元の書類に目を落とした。

「何があった?」

「いえ……単なる嫌がらせです。たまにあるんですよ。大して支障はありませんから、ご安心ください」

 日本で我々は、理由なく敵とみなされる。自らより劣る者の存在を教育された人間たちの意識が変わることもない。

そうした劣等のレッテルを貼られたこの場所も、匿名のみを味方とした気の弱い人間たちの馬鹿馬鹿しい罵倒が降りかるのだ。結局は、自分に危害が及ばない安全な場所でしか口を開くことが出来ない、臆病な人間たちの。

地下に潜り、こうして気まぐれに這い出てくるしか能の無いわたしにはあまり関係がないが、わたしなどのために表を取り仕切ってくれている彼らにとっては、日常茶飯事なのだと優に予想がついた。日々面倒をかけていると少し心苦しさに襲われたとき、条件反射のように笑って見せた部下の笑顔に、わたしの弱い胸はちくりと音を立てた。

受話器のずれた電話を元の位置に戻す。これ以上心配させないよう配慮した部下の思いも流し、手にしたペンを弄び始めたわたしは、隣のデスクへ背を預けた。

「内容は」

「は……何も……」

「何度か、かかってきたのか?」

「はい。一度だけ、返答もありました。しかしそれも返答と言ってもいいものか……」

 何かが引っかかった。嫌な予感に一瞬眉根をよせ、「何と?」と苦味を噛み締めた口内を動かしたわたしの耳に、予想通りの言葉が返ってきた。

「たしか、《チタの太陽は死んだ》と……」

 反射的に目を見開き、訝しげに見上げてきた男の顔を凝視する。「チタ……?」呻くように呟いたわたしは、ぐらついた視界を何とか支えた。肌寒い。

 その時、扉の前に立っていた部下が、声を上げた。

「神崎様! こんなお荷物が……」

 反射的にそちらへと目をやると、近寄ってきた部下の一人が、「これを」と小振りなダンボール箱を手渡してきた。

「見る限り差出人はこの隣のビルになっていますが、あちらはテナントも入らず、空き家となっています。異様に重いですし……何が入っているのでしょう?」言葉尻には、危険物ではないのか、という疑念が込められている。

 差し出された小箱に手を伸ばすと、一瞬体重を取られたかのように体が前に傾いだ。たしかに、重い。注意しなければ、手を取られて足を滑らせるだろう。両足の間隔をずらし体重を安定させると、不審な点がないか丁寧に調べ始めた。

何が入っているのか気になるのか、見つめる男の視線を振り払うように、箱を何度か回してみて音と手触りを確かめる。中からは、タイマーや時計の音どころか、なにか重いものが転がる音さえしなかった。隙間なく何かが詰められている。

火薬独特の臭いもしない。ついさっきの電話といい、差出人は恐らく……。

――危険なものではないということか?

コンマ一秒の間に半ば直感でそう下したのは、以前勤めていた職の影響だろう。

 丁寧に目張りされたガムテープへと手をかけると、躊躇うことも無く手前に引いた。盛大な音を立て、若干閊えながらも、ガムテープはおおむね素直にはがれた。

包装のはがされたダンボールの口を開くと、一回り小さなクーラーボックスがくすんだ白を覗かせる。周りはご丁寧に発泡スチロールで余白を埋めているようだ。

 再び慎重に金具に手をかける。ばちん、という盛大な音と共に身を跳ね上げた金具は、薄っすらと蓋さえも傾かせ、完全に密封されていた空気を白々と吐き出し始めた。どろりとした異臭は絶え間なく、圧倒的不快感と生理的恐怖をごった煮にしたような黒々とした感情を増長させる。部下の多くが思わず鼻を覆ったが、最も近い位置にいた私は一瞬眉を顰めただけにとどめていた。

 ――あの馬鹿。

 嫌でも嗅ぎなれた臭気を思い出し、心の中で悪態をつく。

 一瞬、目の前が赤く染まった気がした。

 苛立ちまぎれにクーラーボックスの蓋を開けた。文字通り零れ逃げるという表現がぴったりだった異臭が濃度を増し、あふれ出す。中が窺えたのだろう、わたしの背後に立っていた男の顔が一瞬にして強張った。

わたしは、馬鹿になりかけた嗅覚を気にすることなく、クーラーボックスを無遠慮に覗き込んだ。臭いを嗅いだとき思い当たった結論と大差ないものが、わたしの眼前、生々しいばかりに横たわっていた。

 むんずと掴んだそれは、死後硬直も当の昔に終えてしまったのだろう、驚くほど柔らかく、だらりと口元からはみ出した血まみれの舌から、ドライアイスで凍った唾液が零れ落ちた。

 わたしを取り囲んでいた男達が一、二歩後ずさる。立ち並ぶ複数の黒々とした目には、わたしの手の内のものにたいする嫌悪と、わたしに対する微かな恐怖で満たされている。

 カワイソウ。一般的にはそういうのだろう。本来の機能を失いただ嫌悪されるしかないそれを、哀れむように撫でた。

 黒々とした子猫はわたしの片手に乗るほどで、腐臭を撒き散らしながら強い視線を虚空に向けていた。見えない敵を睨み続けるように。

鴉の濡れ羽色のような美しい漆黒のビロードに、所々こびりついた血がフェルト状の染みを広げている。外傷は殆どない。血は、子猫の口から溢れたものだろう。ふっくらとした子猫の腹を探り、確信した。内臓破裂だ。

「となると、交通事故か……」

 光の宿らない目を閉じてやろうとして、赤く爛れた口の奥にあまりに鮮やかな白を見つけた。何だろう。子猫の口は小さく、赤い。しかしその奥、隠れるように純白が頭を覗かせていた。

「川口、ピンセットはあるか?」

 背後に告げると、驚いたように身を震わせた川口は、すぐさま自分の事務机へと手を伸ばしていた。缶ケースを倒し、書類を掻き分けての大騒動である。

 何とか見つけ出したらしい銀色のピンセットで、子猫の上あごを僅かに持ち上げると、それまで微かでしかなかった純白の物体が、明かりの下にあらわになった。死んだ後で加えられたのだろう、折りたたまれた白い紙片には、血どころか唾液すらついていない。死体保存のためのドライアイスが、結果的に、この犯人からの自己顕示を守ったのだ。

口内を傷つけぬようピンセットを差し込むと、元々不安定だったのか、白い紙片はすぐさまつまみ出すことが出来た。

 つんと鼻を突く腐臭。腐り始めた後で凍らせるからこうなるんだと吐き捨て、手にした紙片を丁寧に開いていった。

 そこには、完結なたった一行の文章。

――ワレ キカンセリ チタ ノ ボウレイ――

 ざあっと音を立て血の気が引く。まるで、体外にでも流れ出てしまったように、体中から存在自体が知覚出来なくなった。

「奴だ」

 唇を振るわせる。その時、わたしの言葉に呼応したかのように、突如として黒光りする電話が大音量でがなりはじめた。

 焦ったように手を伸ばし、電話番の川口が取るより早く受話器を奪う。

川口が、身を隠さねばならないわたしを案じてか、驚いた顔を向けてきた。一瞥をくれ、静かに息を吹き込む。

『わたしだ』

 下手ないたずら電話なら、ここで嘲りの言葉でも降りかかってくるのだろう。私があえて口にしたのは、紛れもない、下劣な日本人の嫌悪の的となる、朝鮮語だったのだ。

 しかし、何重にも沈黙を守っていた電話口に、ふっと吐息の音が混ざった。声色は、思ったより高い。初め鼻にかかった音でしかなかった笑い声が、箍が外れたように次第に大きくなっていく。その響きは、嘲るでも見下しているのでもなく、ただ自分の行為自体が楽しくて仕方ないといった風だ。電子音に混じった笑い声に、全く可笑しい話で、似ても似つかないのだが、しかし私の脳裏に、たしかにあの日、道を分かった旧友の顔が過ぎった。

 笑い声も次第に収まり、それでも噛み殺しきれない哄笑を飲み下しながら、電話口の人物は口を開いた。

「やあ、やっと気がついたんだ、神埼俊夫。随分遅かったじゃないか、何処で道草でも食っていたんだい?」

 やはり。あからさまにため息を吐いてみせ、不安そうに見上げる部下に大丈夫だと目で伝えると、物分りのいい彼はすぐに残りのデスクワークへと移った。

端から盗み聞きなどしないだろうが、用心のため受話器を隠すように身を捩ったわたしは、「馬鹿言え」とため息を吐いていた。

「手の込んだことを……。こんな面倒くさいことをして、私が気づかなかったらどうするつもりだったんだ」

「どうもしない。僕は彼に言われたから掛けただけだもの。気づかなかったら気づかなかったで、どうせ君が損するだけでしょ?」

 鳥のさえずりに似た声が、皮肉を込めて笑った。

「ちと……いや、今はノ・テウォンだったな。せめて一般回線は使うな、と天下の猛将テウォン公に伝えておいてくれ。それから、あの猫の死骸はなんだ。新手の嫌がらせかと思ったぞ」

「いいプレゼントだったでしょ? あれね、拾ったんだよ。ほんとは狭い道だったんだ。車も殆ど通らないようなね。去年拡張工事されて、今じゃ人間様が我が物顔。しかも、撥ねてもそのまま放置なんだ。みーんな、汚いもの見る目でさ。エゴイズムだよねえ。ああ、この言葉、そっち輸入されてたっけ? まあいいや、英語に通じた君なら意味は理解の範疇でしょ。どうだい、僕らの言葉を託すにはもってこいの人選だったと思うんだけど?」

 耳障りのよい声は、現役のとき《彼》の傍らで何度も聞いたものだ。必然、思い出されるのは今はもう掻き消えてしまった淡い過去の記憶。

 わたしは昔、あまりに大きなものを失ってしまった。全てを失い、こんな世界の果てで日も浴びず、ズルズルと自分の亡霊と対話し続けている。

彼らは今現在、私が手に入れられなかった未来を歩いている人間だ。彼らにしてみれば本意とは言いがたいだろうが、わたし自身の失った未来を手にした者として、嫉妬しないわけがない――。人間の吐き出す混沌が停滞した地下で、自分の亡霊からかけられた嘲りの言葉だったが、現実はむしろ、拍子抜けするほど何の感慨も抱かなかった。

ため息が零れた。疲れや煩わしさではない、むしろ甘ったるい懐かしさだ。

「……で? なんの用だ。わざわざ君が掛けてくるなんて、よほどのことなんだろう」

 にらむように目を細めると、察したように電話口ではあえて余裕の雰囲気が零れ落ちる。不意に笑い声が掻き消えたかと思った途端、背後に小さく吐息のようなものが混ざった。

「彼からの伝言。初めに言っておくけど僕たちは、この件に関しては一切関わっていない。これは彼のポリシーみたいなものだから、たぶん命が下るまで僕らは今後も動かない。もちろん、彼の手の人間もだ。その代わり、僕のお仕事は伝えたら終わりだから、あとは好きなようにしろってさ。彼が自分の情報網から取ってきた情報だから、もしかしたらそっちの子犬ちゃんがもう知ってるかもしれないけど」

 あえて勿体ぶった言い回しをするテウォン。一呼吸の間を作り、そっと、しかし芯は強く話し始めた。内包する意志の強さゆえ、耳朶を打つ言葉はあまりに真実味を帯びすぎた。

「北が、本格的に君を追い始めたよ。もちろん敵の庭荒らすんだから、水面下だけど。彼は、『始まるんだ』って言ってた。何かでっかいことが起こるって」

「勘だけはいいからな、あいつは……」

「まあ、あちらさんの手の内を知り尽くしてる君のことだし、僕も彼も心配はしてない。地の利も、君のほうがあるだろう。心配はしていないが、でも一応、今まで以上に留意しろって言ってた」

「肝に命じるよ」

 自嘲というより、腹立たしさに近いため息が、喉を爛れさせた。

 

わたしにはかつて、馬鹿馬鹿しいほど実直な友があった。

その存在を知る大衆の一端は、憎悪とねたみを込め、彼のことを「亡命テロリスト」と呼び、彼はわたしを皮肉に近いほどしつこく、ソヴィエトから贈与された高性能戦闘機「ミグ」の名で呼んだ。