この世の混沌を溶かし込んだような暗闇は、始まりも終わりもなく、ただ無限にループする絶望だけをよりどころとしている。狭く広く切り取られた空間で、はぼんやりと、自分が戻れぬところへと引きずり込まれてしまったことを実感した。世界の歯車はあまりに大きく、彼一人飲み込むなど造作もないことだ。

ずんと重くなった瞼を閉じ、上から揉んでやると、よりいっそう彼に纏わりつく混沌は増す。目を通した何枚にも連なる紙をデスクの上に放ると、日を求めるように背をそらした。

重い。いつまで続く。

先の見えない環境に、すっかり慣らされた身も時には弱味を零す。散々懐かしい言葉をかけ続けた体も、さすがに三十を超えたこの歳では動きたくとも動けない。

「待てば海路の日よりあり……か」

 自嘲的に呟いたスンファンの耳に、焦ったような足音とノックが届いた。彼らの憎む日本語を紡いでいた自分に、焦って身を起した。

『大尉、あの……ヨンスク様が』

 躊躇いがちに顔を覗かせた部下に、憐憫に似た感情がわきあがる。お前も大変だな、と苦笑を浮かべ肩をすくませると、席を立ち、続いて入ってきた女主へと向き直った。

相当苛立っているようで、しきりに右手の爪を弄っている。きっと鋭い視線を向けてきたヨンスクに、軽く会釈をしたスンファンが片膝を折った。

「何か御用でしょうか、将軍」

 彼女は、この事案に対してのみ例外的に将軍と同等の位を得ている。皮肉を込めて言ったスンファンを、少しばかり冷静さを取り戻したヨンスクが見下ろした。

「あれが逃げたわ」

 苦々しげに吐き捨てたヨンスクが、苛立たしげに歩き回る。

「もうすぐ、奴らの潜伏先が分かるというときに面倒なことになった」

 立ち上がったスンファンは、爪をかんだ上司を見上げる。

背後の微かな気配に気づき、もしこれが演技だったら大したものだと思った。事実、半分は演技、半分は本当の苛立ちだったのだが。

 戸の影に隠れたシウンは、射るような視線を宙にさ迷わせていた。もうすぐ見つかる。表向き現役の諜報員として活動する自分しか知りえなかった情報。しかし、その事実は想像以上に彼を打ちのめしていた。

彼が忠誠を誓うべき国家に背いたのも、ひとえにあの男――上司であり、絶対の信頼を置くソン・アンナムのためだ。しかしその僅かな感情の揺らぎが、気配を消すという微細な注意力を要求される行為を揺らがせる原因となった。もし、いつもの彼だったなら、室内の人間たちに存在を気取られることもなかっただろうに。

 ふと冷淡な色を瞳に宿し、音もなく闇に溶ける。明るい室内の陰に隠れ、シウンという人間の存在が失われたようだった。職業柄、闇に潜むのは得意だ。

 ヨンスクは、生暖かい何かが不意に消えた感触に、顔を上げる。

「行ったわね」

「ええ」

 スンファンも、あえて知られぬよう背を向けていた戸を振り返った。

「受信機を持ってきて。追うわよ」

 服のすそをはためかせ、ヨンスクが歩みだす。彼らが暗躍するだけの闇は、この辺境では有り余るほどにある。

 

 空は晴天。しかし、それの心の中は暗く、追い立てるような切迫した嵐が吹き荒れていた。少々無理をしすぎたのだろう。上がった息はなかなか元に戻らず、干からびた喉は潤いを欲してやまない。不意に右脇腹に鈍痛が走った。規則的に訪れるそれを何とかやり過ごすため、それは暗い街影にそっとうずくまった。

押さえた手には、生々しいぬるついた感触がへばりついてはなれない。筋肉も悲鳴を上げて、そろそろ限界だ。

 元々、体力的に優れる方ではなかった。それをここまで限界を引き伸ばせたのは、ほかならぬ不屈の精神。嗚呼、あの人も私のこの強さを好きだと言ってくれた。

『アンナム』

 そっと呟いてみる。口の中も切れたのだろう。酷く粘ついて、鉄臭い味がした。それは、萎えそうな足に再び力を込めると、乱雑に放置されたダンボールの影から這い出し、歩き出した。

 知ってる? 私、とっても強いのよ。あなたが思っている以上に。

 彼女は、暗がりを伝いながら、にわか覚えの日本語を読み取っていった。場所は分かっている。

懐から、逃げ出すとき盗んできた受信機を取り出した。

 暗い液晶画面に点滅するマーカーを確認し、再び歩き始めた。

 吐く息はか細く、今にも泣きそうだ。それでも彼女は歩みを止めない。会いたい。それ以上に、守らねばならないものが、彼女にはあった。このままでは、二つとも失ってしまう。

 かすんできた目を細め、二重にぼやけて見えるネオンを辿っていた。

 

 空は晴天。流れ行く雲も、清々しいまでによそよそしい。

しかしこの地下には、そんなこと年中関係がなかった。せいぜい灰色を無理やり塗り替えたコンクリートの壁に、湿気による水滴が伝い始めたことで雨の到来を知るくらいだ。

アンナムは、地下三階に位置する私室兼仕事部屋で、手持ち無沙汰のままたむろする人間たちの顔をゆるりと見やり、ふうっとため息のように煙草の紫煙を吐き出した。

大体、わたしと聖は、煙草もアルコールも好まない。それでも煙草は吸う。判断を鈍らせるからだ。

精神状態が不安定になると、どうしても口さびしくなる。その延長で、わたしたちは旨いとも感じない煙草を、あえて脳を狂わせるために叩き込むことにしたのだ。酸素不足による、一時的な一酸化炭素中毒。火事場での最大死亡要因ともなる物質に加え、決して体にいいとは思えないタール、ニコチンの類を、深く深く吸い込む。

一酸化炭素によって軽い酸欠状態に陥った脳細胞は、正常な判断を忘れ、異常を異常とすら感じなくなる。煙草の力を借りている間は、余計なことは考えなくていい。体のいい現実逃避。同じような理屈で、戦場では煙草やアルコールが重宝される。

変わらない顔ぶれ。すっかりこの場もにぎやかになったものだ。

『で、何で俺まで巻き込まれる。国に裏切られるいわれはないぞ』

 苛立たしげに室内を歩き回る聖が、使いすぎで火照った頭を掻き毟りながら言う。彼唯一のストッパーである千歳は、その呻きすら完全に聞き流し、付けられたテレビに見入っている。その隣に腰掛けた真一は、言葉が理解できないのか、目を白黒させていた。

『知らん、何かやったんじゃないのか?』

 朝鮮語でおざなりに応じてやると、ぎろりと敵意の目が光る。

『大体、誰が狙いなんだ。俺か? 俺が何をした。左遷された先で大人しく燻っていただけじゃないか! それにくわえて、ミグは政治犯で、俺の元相棒だ。お前を追っているとも考えられる。なにせ、敵方大将はお前の婚約者なんだぞ。恨みでも買ったと見て間違いないだろ。お前を釣るために、撒き餌に使われたと考えたほうが自然だと思わんか?』

『テウォン……』呆れたように呟くと、完全に我を失い思考に埋没したのか、聖は全く違った特徴を持つ言葉をズラズラと並べ立て始める。

『事実、ソヴィエトは君の命を狙っている』

『それとこれとは話が別だ。あっちが俺を不要として殺そうとした、だから逃げた。ただそれだけのこと。奴らの言う理由は、俺が国家の暗部に踏み込みすぎてしまったからだろう。だが、今はどうだ。暗部から遠ざけた左遷兵の命を、どうして狙う必要がある? それも、わざわざ異国の地、日本で』

 一方的に捲くし立てる聖のイントネーションが次々に変わり、真一は横に座る千歳を盗み見た。濁点が目立つ発音が増えたと思ったら、急に語気が強くなったり、よくもこんなに舌が回るものだ。

 その視線に気づいた千歳が、呆れたように肩を竦ませ、手にしたスナック菓子を口へと放り込んだ。

「七ヶ国語だよ。兄貴、昔ラーゲリにいたいろんな国の人から、言葉教えてもらったんだって。僕は日本人だけの女性収容所だったから、そんなことしなくてもよかったけど、兄貴、あっちで諜報員してただろ? いろんなトコ潜入するのに、便利だったらしいよ。おかげで今でも、考えることに没頭しちゃうと、そりゃあもう、恐ろしいほど多国籍。今のだってほら、主語はドイツ語でしょ、形容詞は英語に、修飾語はフランス語、述語は中国語だったね。文法は一番肌になじんでる日本語が元になってるみたいだけど、結局は何処で何が出てくるか分からないから、僕にも理解は出来ないんだよ。僕が理解できるのは、日本語と朝鮮語と、ロシア語が少しだけだけだし」

「じゃあ、彼は? 何か言い返してるようだけど」

 指差した先には、これまた奇妙な組み合わせで反論を返しているらしいアンナムの姿。ソファーに身を沈みこませた彼は、億劫そうに煙草をくゆらしながら、片目だけを開き、朗々と何かを述べている。

「ああ、アレは別。あいつ、父ちゃんの代からのスパイ社会のサラブレッドで、スパルタ教育受けてた上に、使えてた主が格式高かったから。兄貴の、頭いいんだか悪いんだか分かんない、ちゃんぽん文法についていけるのは、後にも先にもきっと彼だけだよ」

 そう言うと、面倒くさそうにテレビへと視線を戻す。真一もそれ以上訊くことは断念して、互いに共鳴するように響く、はっきりしない言語へと耳を欹てた。

『じゃあ、お前は何をした。何で政治犯に問われて、すぐさま死刑なんて判決を出される必要がある』

『だから、知らんと言っているだろう。こっちだって、身に覚えもない罪問われて、命からがら逃げてきたのに。それこそ面と向かって聞いてみたいよ全く……』

さすがの我慢も限界だったのか、アンナムが捲くし立てるように言うと、もうこれ以上は喋らんとばかりにソファーに身を沈めなおした。

こちらもいささか理性を取り戻した聖が、徘徊の歩を止めて神妙な面持ちでアンナムを見つめなおす。

「だったら、何でヨンスクはお前を追った?」

 アンナムの表情に、亀裂が走る。突如として零れ落ちた日本語に、それまで興味を示すことのなかった真一と千歳も振り返った。重々しい光が、聖の瞳に宿っている。

「ヨンスクは、間違いなくお前の婚約者だ。お前と、お前の親父が直々に使えていた主、オ・ヨンチョルの娘。それも、失態で腹を切るしかなくなった護衛役のお前を、自らも捨て身で救うほどの女だぞ。それが何で、お前を追う必要がある。前線に立つ理由は? お前は、国家の裏切りで失ったあいつを取り戻そうと、死に物狂いで足掻いているというのに」

 盛大な音が、聖の声と共に辺りを引き裂いた。苦渋に満ちた表情で、頑丈なデスクを乱暴に殴りつけたアンナムが、容赦ない敵意の目を向けていた。

聖も、臆することなくその瞳を見つめ返す。

「……黙れ、聖」

「大事なことだ。思い出してみろ、何か矛盾が……」

「思い出せると思うか!」

 これまで、冷静を崩したことのなかったアンナムが、声を荒げた。

「思い出せると思うか、このわたしに。わたしは父から諜報員としての教育を受けてきた。おかげで、天性と言っていいほどの素質を手に入れたのだ。血みどろになってね。その中に、余計なことは聞かない、という言葉も含まれているのだよ。上から必要なしとあらかじめ指示された事案は、記憶にとどめぬよう感情をコントロールする術が身についている」

「記憶には残っているはずだろう。お前が鍵をかけた。何とか思い出せ。そうしないと、お前の大切なものとも永遠に仲たがいしたままかもしれないんだぞ」

 渋面を崩さないアンナムが、諦めたようにため息をついた。吐き出された息は煙に撒かれ、ヤニ臭い。

「保障はせんぞ。何が好きで、覚えてもいないものを思い出せと迫られているのか……」

手にした煙草を銜えなおし、一つ大きく息を吸い込むと、深い記憶の底を探っていく。さすがに四十近く生きてくると、記憶の量も膨大で濃厚だ。触れたくないものさえ思い出してしまい、口の中で苦味が身を丸めたが、それでも手がかりもなく埋没された何かを辿り、混沌と先の見えない過去を一つ一つ拾い上げていった。

 そうだ、確かにわたしに対する判決は早かった。もとより闇で生きる者、公的な判決などなくとも、わたしを始末することなどあっという間に決められる。もしあの時、義父――と呼ぶのは少々気が早い。主にしてヨンスクの父、オ・ヨンチョルのことだ――がわたしを逃がす算段を整えてくれなければ、昨日まで共に飯を食っていた同胞に、腹を掻っ捌かれていたことだろう。言われてみれば、あの判断の速さは尋常じゃない。半独裁制とはいえ、一国家が重い腰を上げるには早すぎる。

 では何だ? 何があった?

 何かがあったはずだ。それまでわたしは一諜報員であり、彼らの身内だったのだから。近いうちに、何かが……。

 ちらりと何か見覚えのある光景が弾けた。手にも残らない、どんなものだったのかも分からない。文字通り弾けたのだ。何かがある。そうだ、今の記憶……何かがあるんだ。

怖気立つ違和感と根拠のない裏打ち。本能的に判断し、彼はその記憶を辿ろうと意識を集中させる。口中の苦味も、もうすでに感じない。ただ、同じ室内を共有する生物の気配だけは、感じ取れる。それが諜報員だったわたしの、忌むべき本能だ。

 ずきりとこめかみに、鈍い痛みが走った。自ら封じた記憶を引きずり出すのには、大きな疲労が伴う。思い出すべきではないもの、なのだ。火箸でかき回されたように痛み、散り散りになったような錯覚を覚える頭を抱え、アンナムは深く息をついた。

なんだろう、何か重要なことだった気がする。少し時間を置いて、もう一回……。

がちゃっ。

 不意に、裏へと通じる扉がこじ開けられるように音を立てた。警察か、それとの他の何かから踏み荒らされることを前提に立てられたこのビルは、地下の各階に、各々四方へと続く扉が備え付けられている。それは最終的に下水道へと通じ、必要とあらば都内、県外までどこまでも逃げることが出来た。その扉が突如として音を立てたのだ。しかも、地下へと通じる側から。

 一瞬にして室内の空気が張り詰めた。取り戻された諜報員の本能は、ついさっきまでの痛みすら忘れ、紛れもない敵意でもって応戦する。

 がたん。

 再びの物音は、焦って鍵を取り落としたようだ。錠が外され、扉が開け放たれる。

 駆け込んできたシウンは、あまりに焦っていたのか僅かな段差に足を取られ、転びそうになった。

 驚き目を瞠った一同を見回し、主の前で視線を止めると、アンナムでさえ見たことがないほどの剣幕で口火を切った。

『あちらは、居所を掴みかけています! なるべく早くお逃げを……』

 シウンの首筋、数センチのところを弾丸が横切った。走りすぎ、涙で潤んだ目がその筋を追い、驚愕と共に銃口を持つ手を見上げた。

 自身のデスクに憮然と腰を下ろしたまま、アンナムが冷ややかな目を向けていた。白煙を上げる銃口がするりと下り、服の裾を示す。

「何を持ってきた?」

「えっ……」

「何を持ってきたと訊いている!」

 再び上げられた銃口。シウンは上がった息を整えることもせず、示された場所に手を滑らせた。指先に、硬いものが当たる。かちん、金具がはずれそれはシウンの手に落ちた。

 黒い物体が明かりを受けて絶望色を濃くした。

「発信機か……!」

 聖が苦々しげに呟いた。

 感情の色を消したアンナムが、銃をシウンに据えたまま腰を上げた。足元に散乱する計器類の間を縫い、コードを慎重に避けながら歩みを進める。

「やってくれたな」嘲笑に似た笑みが張り付いていた。

「踊らされたんだよ。お前がわたしの手の者だと気づいて、罠を仕掛けやがった」

「そんな、まさか!」

「普段のお前なら気づいただろうが……下手を打ったな」

 手の中の発信機は点滅を続け、位置情報を送り続けている。

シウンに銃を向けなおすと、苦渋に狂気を溶かし込んだ悲しげな表情を浮かべた。

「分かるだろう。任務失敗がどういうことになるのか」

 シウンは答えない。何度も教えられた事実、いまさら思い出す必要もなかった。

「どちらにしろ、お前の面は割れた。利用価値は半減する」

 静かに目を瞑る。絶望の次に来る空虚が、厚い瞼の下に封じられた。

自分の奥、深海の淵を覗き込む。恐怖などよりも、主に不利な状況を与えてしまった自分に対する嫌悪が、とぐろを巻いて沈殿していた。

「分かっております。僕は死に、こいつと共にかく乱する材料となる」

 瞼を通して届いていた光が陰る。目の前にアンナムが立ったのだ。

 銃のスライドを引き、弾を送り込んだ。「一つだけ、情けを垂れてやる」

「お前はよくやってくれた。最後くらい、わたしが止めを刺してやろう」

 知らず、口元が笑みの形に歪んだ。死ぬ間際というのは、これほどあっさりとしたものなのか。

「アンナム様の手で死ねるのなら、本望です」

 呟くと同時、シウンのよく通る声すらかき消す鋭い爆音が轟いた。

 鮮血が滴り、腹を撃ちぬかれた身が支えを失って倒れこんだ。撃たれた場所が熱い。辛うじて動いた指を這わせると、鋭い痛みの奥で抉り取られた肉の感触が伝わってきた。

 鮮やかな朱が床を広がっていく。かすむ目の端で、何の感情もなく踵を返したアンナムの姿が映る。それきり真っ白に塗り固められた視界は、何も映さなくなった。

 頑なな背が卓上の受話器を取り、『キムを呼べ。急げ』と吹き込んだ。

 すぐさま上層階へと続く扉が開き、血生臭い空気がかき回された。

 思わず鼻を覆った男は、すぐさま驚愕の表情を浮かべ、足を竦ませた。

「《死体》を捨てておいてくれ」

 告げたアンナムの目には、感情の光などない。ただぽっかりと洞穴のような漆黒が広がっている。

 元諜報員の本能で、ここで何が起こったのかを理解し、部屋の中央、仰臥した人間だったものへと駆け寄った。首筋に指を押し当て、ため息一つ上へと声をかけた。

「担架もってこい」

 予想より重い体を動かし、二人がかりで担架を持ち上げる。染みては赤黒く変色する服の端で、発信機の信号灯は点滅し続けていた。

 上空から注ぐ自然光が厚い扉によって掻き消え、再び電灯の安っぽい明かりが戻ってくる。デスクの上に広がった書類をかき集めると、アンナムは懐にしまったライターを取り出し、右端に火をつける。生臭い血の臭気に、紙が焦げる異臭が混ざる。

 ――何故バレた? 諜報員として最高のスキルと性質をもつあいつが、尻尾を捕まれるようなヘマをするはずもあるまいに……。

 何もなかったかのように機密書類の廃棄を始めたアンナムに、聖が射るような視線を向けた。

 アンナムが手にした書類が燃えきろうとしたとき、つい今しがたシウンが飛び込んできた扉が不穏な音を立てた。床に広がった鮮血は行き場を失い、扉のほうへじわじわと触手を伸ばしている。

 鍵を開けたままだった扉がゆっくりと開き、新鮮とは言いがたい空気が血の臭いをさらった。

 空洞。誰もいない。下水道へと続く照明が、薄っすらと奥を照らし、闇が濃さを増している。

 その時だ。ずるりと倒れこむように出現した人影が、支えにしていたのだろう扉から手を離したのは。倒れると同時、衝撃によって埃が舞う。黒いぼろきれで包まれた身が呻くように身を固くし、上体を起した。

 埃と汗で汚れた肌、澄んだ瞳だけがキラリと輝き、アンナムは存在するはずのないものに手の中の炎のことさえ忘れ、立ちすくんだ。

 それは弱弱しく口を開く。だがそれは、懐かしい声を聞かせることなく荒い堰を零した。

『ヨンスク……』

 消え入るような声。一瞬、それが敵であることすらも忘れていた。

 呆然としたままのアンナムの前に、立ちふさがるように聖が立つ。その目は裏切られたもののそれだった。

 まさか、早すぎる。シウンがはめられたとはいえ、こんなに早く到着できるはずがない。

 ヨンスクは悲鳴を上げる首を巡らせ、辺りをゆっくりと見回していく。彼女の指元に、血溜まりから流れだしたシウンの血が触れた。

まだ温かい粘つく液体を指に絡め、まじまじと見つめたヨンスクは、静かに口を開く。

『シウンは』

 枯れた声は、驚くほど室内に響いた。

『俺たちを殺しに来たか。足の速いことで』

『アンナム、シウンは』

 睨みつける聖を無視し、彼女は繰り返した。

 傷ついた身を庇いながら立ち上がる。すっと伸ばされた背筋は、何年も前別れたときと変わりない。

『シウンはどうしたの!』

 声を荒げたヨンスクの剣幕に、さすがの聖も口を閉ざした。

『私が行っただろうことも、あなたたちの憎しみも分かる。でも、私にはやるべきことがあるの。ねえ、アンナム。シウンは……シウンは何処!』

『やるべきこと……?』

 アンナムが反復したとき、足元の無線機が無機質なノイズを立て始めた。

 はっと顔を上げたヨンスクが、駆け寄ろうと足を踏み出しかける。しかしその動きは、銃を構えた聖によって止められた。

 不快なノイズが、血と硝煙の空気をかき回していく。電波が合ったのか、不意にノイズが消え、嫌に鮮明な音を立て始めた。

 車のクラクション、数え切れないほどの人の気配。その中で、一つの声が轟いた。

「ソン・アンナムさん、聞こえるかしら?」

 傍受した周波数は合っているはずだけど、女の声がそう告げる。動くことを許されないヨンスクが、苦々しげにその機械に目を向けた。

『オ・ヨンスク……!』

 憎しみに目を細めたヨンスクの口から、自身の名が零れ落ちる。

 それを聞き取った無線の向こうから、女が応じた。

『もうひとりの私もいるんでしょう? そこに。時間的には十分だったものね。発信機が持ち出されていることに気づいたときは焦ったけど、結果としてあなたを捕まえる手間が省けてよかったわ。箱入り娘のお嬢様が逃げ出してくれるなんて、思ってもみなかったもの』

『どういうことだ……?』

 思わず呟いた聖に、鋭い視線を向けてヨンスクは捲くし立てた。

『もう一人私がいるのよ。信じてもらえないかもしれないけど』

『私は、オ・ヨンスク。そして、あなたは私の過去』

 まるであちらに聞こえているような、絶妙な間合いだ。

『あなたたちは高を括っているかもしれないけれど、居場所はすでに分かっている。そんなに悠長に構えていていいの? 先遣隊がもうすぐつくわ。そうね、あなたもよく知ってる……』

 ヨンスクの顔が青ざめた。

『ヒョヌク……っ!』

無線の先では、ご機嫌な声。

『後四百メートル、三百、二百……』

 女は手にした発信機の光点を見つめながら口を閉じた。

 カウントダウンがなくなり、ヨンスクがアンナムに鋭い視線を向けると同時、頭上で盛大な音が響き渡った。何か大きなものが倒れ、怒声が響く。

 地上へと続く扉を仰ぎ見ていたヨンスクが、駆け出した。

私が最も信頼するシウン。彼なら、あの子を止められたのに……!

――あなたが、ソンジュを守れなかったから!

 子を望めなかった二人が引き取った愛らしい少女の面影が思い出される。少女はあまりに純粋であったが故に、永遠に失われてしまった。彼女なら、もしくはこの状況を打開することも出来たかもしれない。シウンすら見つけることが出来ないこの状況で、その後悔はじっとりと傷口に沁みた。

 乱暴に開かれた扉の外。逆光の中、人影が躍り出る。首から下げられた銃が、光を受け煌めいた。

『ヒョヌク、駄目っ!』

 発砲音が一つ轟き、その場にいた皆思わず身を隠す。

 濃くなった火薬の臭いの中、顔を上げると小柄な身を抱えるように引き止める、ヨンスクの姿があった。白煙を上げる銃口の当てられた肩から、鮮血が滴り落ちる。弾は貫通したらしく、背中側にも液体が滲み始めるのが分かった。

 苦痛を受け流し、唾を飲み込んで何とか苦しげな笑みを浮かべたヨンスクが目の前の人間に手を伸ばした。

 力の入らなくなった足が砕け、その手を取った人物が何とか支えようと身を低くした。

『母さん!』

 驚愕に歪んだ顔は、まだ幼い子供のもの。悲鳴のように吐き出された叫びは、凍結しかけていたアンナムの理性を完全に停止させた。

 無線の奥で、高笑いが響く。

 ヨンスクは、鉛のように重くうまく動かなくなった手を持ち上げ、少年の頬に這わせた。

『ヒョヌク……騙されては駄目。私は、あなたがお父様を殺すことなど願ってはいないわ』

『でも……』

『あれは、私じゃない。私の姿かたちをもった、化け物……っ』

 詰まった声は涙で途切れ、少年は完全に我を失っているようだ。

 無線はノイズが耳につき始め、それでもなお凶悪なほど通る女の声を届けていた。

「さあ、幕開けには丁度よかったでしょう。本番はこれから。大人しく首を洗っておきなさい」

 通信が途切れ、辺りに響くのは雑音ばかり。

 少年に支えられ何とか身を起したヨンスクが、苦痛に顔を歪めた。

『アンナム』

 開いた瞳は揺らいで、それでもなお鋭い光を宿している。

『この子を連れて逃げて。この子は、紛れもなくあなたの子……あなたが国から逃げた後に生まれた。今年で十になるわ』

『だが、ヨンスクお前……っ』

『えぇ。私も妊娠しにくい体だと散々脅されていたから正直驚いたけど、正真正銘あなたの子。あなたの血が通ってなきゃ、死ぬかもしれないと言われて、なんとしてでも産もうとは思わない』

 そう、だからこそソンジュにいてほしかったのだ。ソンジュ。血は繋がらなくても、絆は変わらないと証明してくれた、私たちの娘……!

少年を見上げる。不安げな顔が、そこにあった。

『ヒョヌク、お父さんと一緒に逃げなさい』

『でも、かあ様は……』

『私は残るわ。時間を稼ぐ』

『嫌です! かあ様が残るとおっしゃるなら、僕も残る!』

 鈍い音が響いた。力の入らない手で、ヒョヌクの頬を張ったのだ。

『いい加減にしなさい! あなたはそれでも人間ですか! 私は、あなたを命がけで産みました。それだけじゃない、今まで何人の人に、物に、生き物に生かしてもらったか考えての言い分? もし、簡単に命を投げ出そうとしているのなら、私は親子の縁を切ります』

 ヒョヌクの黒く大きな瞳一杯に涙が溜まる。決して流れることのない涙は、次第に厚みを増して視界を歪ませていく。

 ヨンスクは、驚くほど力強く立ち上がると、その強い目を地上へと向けた。

『アンナム、この子をよろしくお願いします』

 そう言うと、息子の手から銃を取った。

 ふと微笑を浮かべ、最後に少しだけ振り向く。

『悔やまないでくださいね。私、もうすぐ死ぬ運命だったんです。海外で検査したから確かよ。今はまだ動くことが出来るけど、余命は一年前後と言われたわ』

 聖母のような、むしろ神々しい笑みだ。それ故に、言葉が脳に取り込まれ理解された途端、得体の知れない絶望を落とし込んだ。

『アンナム』

返事はしたくない。終わりだと分かったいた。無駄だとおもいながらも、少しでも時間を伸ばそうとしたのは、ただの子供じみた感情だ。

『私だって神を怨みました。あなたを奪っておいて、私から命までも奪おうとするのかと呪いました。政治犯として追われたあなたをも怨んだこともあります。でも、もういいんです。私には、この子がいた。死ぬ前に、あなたにも会えた。ソンジュも……きっと喜んでくれます。だからもういいんです。うん……もう大丈夫。

私だって、軍人の娘。国最強の諜報員の妻になる女だと自負してたんだから、死ぬことくらい覚悟の上に決まっています。もし捕まれば、また、彼女の切り捨てるべき影として幽閉されるでしょう。いや、それ以前にここで皆殺しにされてしまうかも。だから、考えたんです。同じ死ぬなら、病で苦しみながら孤独にさいなまれて、闇に食われるように死ぬよりも、有意義に死んでやりたいって。だから、大丈夫。私を助けたいと思うのなら、逃げて。振り向かずに逃げて』

 急に頭上が騒がしくなる。倒れたシウンのおかげで地上は無人なのだろう。後はこの地下だけ。

『聖君』

 目があった。

『アンナムをよろしくお願いします。悔しいけど、あなたくらいしか安心して預けられる人物に心当たりがないもので』

『簡単に言うなあ。人を物みたいに言うなや』

『残念ながら、わたしと彼の初対面。人間と物だったのですよ。気に入らなければ殺していいからね、と彼の父親……まあ、父の部下だった人ですけど、そう紹介されたんですから』

『そんな奴の起した不祥事、尻拭するために結婚決めるお前もお前だけどな』

『あら? 相思相愛ならば、万事円く収まるものですよ。どうせいつかは、と思っていましたし』

聖はにやりと笑い、「けっ、相変わらず性格悪いやつ」と吐き捨てた。神経の図太い奴だ。しかし、内心ほっとしている自分に気づく。そうだ、これだ。これがあの偽者野郎と、オ・ヨンスクの格の違い。暴言すらさらりと言い切る精神。いい女であることはまちがいない。

目の前、驚きに呆然としているアンナムの背を思い切り叩き、ヨンスクの手から少年の身をひょいと抱え上げる。急に暴れだした少年の身を押さえ込むようにして捕まえると、少年は小柄な身の何処にそんな力があったのか、ありったけの力でもがきだした。

『離せ! 外道亡命テロリスト!』

「あーあーうるっせえ、少しは黙ってろ。ほら、ミグ!」

 その身を投げてアンナムに渡す。溜息ひとつ、景気よく肩の骨を鳴らした。

「さあ、逃げるかー。こうなったら、持久戦だ。あちらさんが諦めるくらい、地の果てまで逃げ切ってやる」

「千歳!」叫ぶと、「Yes Boss!」の声。

肩から銃をかけた千歳が、風のように鋭く室内を駆け抜け、地下へと続く回廊に身を投じた。

 自身も自動小銃を抜き、真一に一瞥をくれると、闇の中駆け下りていく。その後に状況を図りかねながらも、事態が急転したらしいとは分かった真一がおっかなびっくりで続き、最後に暴れる少年を担ぎ上げたアンナムが、一度だけ名残惜しそうに振り返って身を消していった。

 一度だけ目を瞑る。生暖かい空気が、急に鋭い針と化す。

 勝ち目がないのは承知の上。

情を含めない以上、残酷で惨たらしいだろう。いや、それが《戦争》なのだ。

 それがどうした。堕ちると決めたら、何処までも突っ走る。

 手の中の銃、安全装置を解除し、ヨンスクは血と硝煙の中、鋭い視線を上げた。

さあ、やってやろうじゃないの。

こっちだって、祖父の代から続く武人の家系、来るなら来い!

 半ばやけくそ。

 それがどうした、私は母親だ。どの世も母は強い。

 どうせ死ぬにしても、意地くらい見せてやる。