じりじりと焼かれるような陽射し。縁側に腰を下ろし、茶を啜った。すっかり冷めてしまった緑茶は、嫁が買ってきたという高級品だ。老人の舌を気にすることもなく熱々の湯で入れられた液体も、本当ならこれくらい生ぬるい方がいい。

 満足げに目を細め、家を囲むようにぐるりと一周している生垣を見ると、つい今しがた席を立った息子が手を振っている。今年で二十と五つを数える彼の息子は全くと言っていいほど彼に似ない男で、ひょろりとした体躯に小ぢんまりとした立ち居振る舞いの、親馬鹿を抜いても好青年だ。昼飯のためだろう、勤める町役場を抜け出してきて、昼休みと同時に職場へと帰っていくのが定例だ。

 今も、彼が腰を下ろす縁側から眺められる庭の奥、作りつけられた裏口を開け、背を向けた。

 のどかだと思う。まるで、あの日を忘れてしまったように。

 一足早い定年を迎えた身には、遅く出来た息子の姿を見ることだけが楽しみになっている。

 眩しすぎる庭の端にたくましい背を見て、彼は茶を啜った。

「で、何の用だろうね。懐かしい顔だ」

 下手をすると、呆けた老人の寝言とでも取られかねなかっただろう。しかし、彼は確かに感じられるはずのないものに話しかけていた。

 それだけ感覚的に敏感だということだろう。腕は鈍っていないかと、我ながら満足げに渋い味を喉に流し込んだ。

 それは、見つかったことに観念したのか、はたまた見つかることを予期していたのか、彼の背後、気配を現した。

 青い畳の中央に憮然と立ったそれは、僅かに身じろぎし、目を伏せた。黒いコートは、この季節には不釣合いなものだ。そういえば昔、本人から感覚器官が壊れていると聞いたことがある。

「何年ぶりかね?」

「三十年近くになりますね。大陸以来ですから」

 彼が振り向く。室内、まるでそこにいるのが当然のように存在するそれが、朗らかに笑いかけてきた。

「相田茂久閣下」

 アンナムは彼を呼んだ。

 彼は忌々しげにため息を一つ、過去と現在の狭間にあった身を、縁側の影へと投じた。

「だれが閣下だ。過去の栄光にすがるのは嫌いだよ」

「まあ、そう言わずに。どうですか、故郷は。すこしはマシになりましたかね?」

 思いがけず接触を持ってきたソン・アンナムは、老人が駆けずり回ったあの日から、抜け出てきたようだ。それなりに年はとっているが、身から立ち上る優雅さは変わらない。少しばかり鋭さが取れ、有能然とした雰囲気に磨きが掛かっている。

 遠い夏の日、相田茂久は彼に出会った。終戦間際の大陸、太平洋戦争勃発前に開戦反対の意思を示していた彼は、唯一のよりどころであった政界を追われ、祖国からも身を隠していた。戦争が終わり、大量の軍人、政府要人が拘束される情勢で、祖国から追われていた相田も漏れなく確保の対象となった。日本を手にしたアメリカ、目の上の瘤が取れた中国、対米を視野に入れたソ連、それぞれの思惑の中、完全に孤立してしまった相田は、朝鮮半島で一人の男に出会った。

 ソン・アンナム。主であるオ・ヨンチョルの命により、二年にわたり日本政府要人であった相田を匿った男。

 アンナムは、漆黒のコートの裾をはためかせながら、縁側に歩み寄る。

「今更私を殺しに来たか?」

皮肉を込めて言うと、傍らにしゃがみ込んだアンナムが「まさか」と口を開く。

「今はわたしも祖国に追われる身でして。自分自身隠れるだけで精一杯ですよ」

 相田の眉が僅かに上げられる。予想外の答えだったようだ。

「あの時、何故私を匿った。アメリカかソヴィエトにでも渡せば、ヨンチョル殿の立場も今以上だっただろうに」

「さあ、それはわたしが考えることではありません。わたしは主の命を忠実にこなすだけ。それが、父から教え込まれた唯一のことですので」

「お父上は?」

「死にました」

 あっけないほど淡々と語る男は、今や夢物語のように佇む庭へと視線を走らせる。その視線からは、愛情の欠片も感じ取れなかった。

「お願いがあってきました」

 半ば惚けるように横顔を見つめていると、男がポケットに入れていた手を差し出した。指先には、小さく折りたたまれた紙片が挟まれている。受け取り開くと、崩れのない日本語が並んでいた。

「出国させたい人間がいます。我々の意向としても、アメリカの手に落ちてほしくない人物です。名は、宿谷聖。アメリカ上層部の血を引くソ連の元スパイです」

 驚いたように振り返った相田に、アンナムは真剣な目を向けてきた。

「……あちらさんは、血眼になって探してるだろうな」

「その通り。わたし自身、自由に動ける身ではありません。今回警察の網を掻い潜れたのも彼らの働き。腕だけは確かです。どこか、受け入れてくれるような心当たりはありませんか?」

 帰国後、社会の暗部にすら手を染めねばならなかった相田の足跡を知った上での要求だった。

 正直なところ、もう足を洗った身。全うに生きる息子夫婦の手前、危険なことに首を突っ込みたくはない。

しかし、彼には借りもある。彼が薦める以上、相手の腕も確かなのだろう。バックグラウンドといい、世界の強国にのし上がりつつある二大勢力に対する切り札を渇望する国も数多だ。

「そんなに簡単なことでは……」

「無理は承知です。だが、答えは早めに出さねばならない。彼を社会的有意として生かすか、それとも過去の汚点を清算することすら止め、みすみす殺してしまうかをね」

「ヨンチョル殿の意向か?」

 アンナムの瞳が一瞬翳った。口元を引きつらせ、声を絞り出したアンナムは、苦いものを飲み下すように目を細めていた。

「……いいえ。道を分かちました」

「そうか」

 夏の日差しは現実をかき消し、夢うつつの幕を一面に張り巡らせた。

 

 古びた平屋が立ち並ぶ一角に出た。先行する千歳が慣れた足取りで、細い路地や廃屋を突っ切ってきたのだ。捕まえられないわけだ。彼らは、警察なんかより町を知り尽くしている。

民家の戸を叩いた。

 不審げに顔を覗かせたのは、若い女だった。彼女は千歳の姿を確認すると、大きく戸を開き、ため息一つ、二人を招きいれた。

「全く、今度は何やってきたの」

「警察。正体ばれちゃって、大脱走ってとこ」

 猫の額ほどの玄関口で靴を脱ぎ、手に提げるとずかずかと室内に上がりこむ。靴と同じく無雑作に下げられたベレッタが、何だか滑稽だ。

 室内に入ると、初老の男が仏頂面に会釈をしてきた。家族は五人。この女と、仏頂面の男、それに母親らしき女が台所で立ち働いていて、傍らには女の兄弟だろうか、きょとんと目を丸くした子供が二人いた。男に片手で応じ、家族団らんの居間を無遠慮に踏み込んでいく。

 子供が駆け寄ってきて、千歳の手を取った。

「千歳! 今日は何の御用なの?」

「ちとせ、遊ぼうよぉ」

 子犬のようにクルクルと周りを走り回る子供の頭を優しげに撫で、千歳は場違いな微笑を浮かべた。

「お姉ちゃんお仕事中だから、今度ね」

 ええーっとブーイングが上がる。

「また、おまわりさんと追いかけっこしてるの?」

「そう、だから。大人しくしててね」

「大丈夫だよ。おまわりさん来ても、千歳のことは話さないもの。その代わり、また遊びに来てね。絶対だよ!」

 遠くにパトカーのサイレンが聞こえてきた。皆はっと顔を上げ、千歳は真一の手をとり走り出した。広いとはいえない庭に出ると、靴を履きなおす。

「彼らは?」

「協力者。僕らだって、馬鹿じゃないから在日の幾つかとはパイプを持ってる。大抵は血縁を使って脅すらしいけど、兄貴はそんな汚い手は使わない。だから皆、全力で協力してくれるんだ」

「何より、政府の人間には日ごろの怨みもあるしね。軽い憂さ晴らしでもあるんだよ」

 柱にもたれ、こちらを見つめていた女が鼻で笑った。

 再び駆け出した千歳の背後、真一が振り返ると軽く手を振る女の周りで、無邪気な子供たちが飛び跳ねていた。

 そんなことをもう二件ほど行うと、警察の気配すら消えてきた。

 時計をちらと見つめ、千歳は方角を変えた。

「もうそろそろ兄貴との約束の時間だ。合流して逃げおおせるよ」

 次第に人通りも増し始め、偽装のため二件目で着替えたジャンパーに首を埋める。

 大通りに出ると、示し合わせたように大型の霊柩車が止まった。

 サイドウインドーが開く。中から顔を覗かせたのは、葬儀屋の制服を着込んだシウンだ。

「乗ってください。早く」

 後部座席の扉を開け、薄暗い室内に踏み込むと、火葬用の棺桶の蓋を押しのけ身を起した聖がニヒルに口元を歪めていた。西洋ヴァンパイアのそれに似ている。

 扉を閉め、室内に闇が落ちると同時、奥行きの感じられる車はやや乱暴な操作で急発進した。

「お前はこっちだ」

聖に襟首をつまみ上げられ、狭い棺桶の中引きずり込まれる。反転した視界の端で、着替えようと服をたくし上げる千歳の姿があった。

ごとん、蓋を閉め、暑苦しいほどの狭さに息が詰まる。入れ違いに出て行った聖は、近くに陣取っているのか、真一が物音を立てるたび桐の箱を足で蹴ってきた。

「検問だ」

 聖の声に、サイレンが混じる。

 何事か話す声が聞こえ、後部座席の扉が開けられた。

「すみません、車内調べさせていただいていいですか」

 顔を覗かせた警官は、泣き崩れる喪服の女に、思わず息を詰めた。三十前後と思われる女は涙で濡れた顔を上げ、悲しみの極限から警官を見返してきた。

「えっと……何処の方で?」

「東谷の菅野です」

 東谷というと、江戸時代から続く御菓子の老舗だ。

「夫が亡くなりまして……」

 涙声に、苦渋の色が混じる。真一は妙な緊張の中、千歳の狸ぶりに唖然とせざるを得なかった。

 嗚咽で会話が出来なくなった女に手を焼き、警官は棺桶の奥に陣取る老人に目を向けた。

曲がった腰を擦り、老人は何も語るなと唇を噛んでいた。

「見ていきますか……?」

 本部に確認を取っていた部下が、「確かに、菅野という菓子屋の主人が亡くなっているそうです」と声を張り上げる。

暗にやめておけと匂わせた老人に慄き、警官は「いや、いいです」と首を横に振った。

 誘導に立っているもう一人に合図を送り、車内に頭を下げた。

 掲げられた赤色の誘導に従い、車はゆったりとエンジンを動かしていく。シウンは相変わらずの無表情だ。

 彼らは暫くしたら知るだろう。東谷の旦那は、確かに今日死んでいる。

 本物がこの道を通り、彼らが真実を知るまでの間に、車は町から姿を消す。何日も後に、投棄され見つかるかもしれない。手がかりを残さずに、すっぱりと。

 

 視線を上げる。不機嫌を隠そうともしない仏頂面が見え、あまりのギャップに思わず吹き出した。

「笑うな!」

 病原菌の一つも存在しなさそうな純白のベッドで、上半身を起していた狐塚が怒鳴った。

 胸に鈍痛が走る。

「ほらもー、先輩怒鳴ると迷惑ですよぉ。肋骨にも響いたみたいだしぃ」

「うるさい、ほっとけぇ。だいたい、なんで運転席にいたお前じゃなく、助手席の俺の怪我の方が多いんだ! 逆だろ、普通!」

「状況が普通じゃなかったんですってぇ。まあ、あとは運の勝利ィ?」

 ケラケラと屈託なく笑う加賀が、今日ばかりは憎い。

 あの時、思わずこの小さな人間を庇うように体を動かしてしまったのがいけなかった。

 目の前の男は一時脳震盪の疑いもあったが、今となってはけろりとしたもので、所々の切り傷を除けばいたって健康体である。そんれに引き換え、狐塚はといえば、全身打撲に衝撃を受けた肋骨にヒビが入り、息をするたび、みしみしと軋む。

「どうすんだよー……。巡査部長の車もシャカにしちまったし……」

「それだって、よく考えてみたら、暴走した先輩が悪いんですってぇ。本部に連絡しないで突っ込んだからこんなことになったんですよぉ?」

「う……まあ、そりゃあそうだが……」

「じゃあ大人しくしてたがいいですねぇ。一応名誉の負傷ってことで本部も黙ってますけど、下手したら何か処分があったかもォー」

 よかったよかったと呟く子ネズミに、二の句が次げなくなった。結局、絶対安静を言い渡された警察官は、仕方なしにベッドへ横たわるしかないのだ。

「あ、そうだぁ。先輩が暇だといけないから、本持ってきたんですよぉ」

 すでに現場復帰を成し遂げた小ネズミは、腰を下ろしたパイプ椅子の傍らから大きな紙袋を取り出し、中を探った。

 結局の所、コイツも責任は感じているのだろう。こうして毎日のように怠惰と潰しきれない余暇の坩堝と化した病室に現れては、役に立つのか立たないのか理解できないものを置いてゆくのである。ベッド脇の机に置かれた首ふり人形に視線を送り、今回はまともなものであることを切に願う。

 もらい物と思われる端の破れた紙袋の中から、数冊の本を取り出すと、ベッド脇の机の上に重ねた。

 去年芥川賞を取った作家の最新作、少し前人気が出ていた探偵推理物、名前も知らない作家の、幽体離脱などとよく分からない……。まあ、一応は大丈夫そうだ。

「あ、僕お茶入れてきますよぉ。先輩、渋めでしたよねェ? 給湯室何処かなぁ……」

一番上に置かれた推理小説を手に取り、ぺらぺらとページを捲る。

「外でて、右手奥」

 何だか、難しそうだと斜め読みなりに渋い顔をすると、本の中から一枚のメモがひらりと舞い落ちてきた。

 ――ん? なんだ?

 手にとって捲ると、罫線を無視した文字が書き連ねられている。走り書きのように乱雑に書き付けられた字は角ばっていて、日々加賀の書く丸字を見ている限りでは、彼の書いたものではなさそうだ。

 東京都から始まる数字交じりの住所と、電話番号。

 何のものであるかは書かれていない。

「おい、加賀。何か知らんが本に挟まってたぞ、ほら」

 振り返った加賀の目の奥、暗い液体が僅かに揺らいだ。職業柄、多くの人間に接していなければ感じ取れなかっただろう微かな揺らぎは、しかしすぐになりを顰め、いつも通りのふやけた笑みがかえってきた。

「あれぇ? そんなトコにあったんだぁ」

 ポットを提げ、狐塚の手から何気なく紙片を受け取る。

「あ、あぁ。よかった、どこにやったかと思ったぁ」

 心底安心している加賀を見つめ、何かが引っかかる。なんだろう、何か不自然だ。説明は出来ないけれど、何人もの人間を見てきた勘が、違う違うと囁き続ける。