「どあ――――っ!」

思わず叫びを上げた拍子に、尻をあずけていた地面がゆれ、がつんと腰を打った。

「いったあ!」

「うるっさいわねえ! 耳元でぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ……もうちょっと静かにしてなさいよ!」

 ちっと軽く舌打ちをした。千歳の細い腰に縋り付く真一は、無様というか情けないというか。

 舗装されていない砂利道を疾走しながら、二人を乗せたバイクは頭上を追いかける爆音を掻き切っていた。しつこく追い掛け回すヘリコプターは、警察かそれとももっと別の組織のものか。ビル群に阻まれ満足に近づけないのだろう、ローター音は苛立たしげだ。

 遠くにパトカーのサイレンも微かに届いている。警察の目をかく乱する目的で駆け回る者としては、このバイクの足の速さは救いだった。小回りが利く利点を存分に発揮し、裏道を縫うように進み、華麗に追っ手を巻いていく。

 別行動の聖の読み通り、都内あちこちで活動家が問題を起してくれたおかげで、警察陣の追跡も思ったより少なかった。

 千歳が颯爽と跨ったバイクに、一人では危ないからと乗せられた真一が叫びを上げ、しがみついた。

「あんたねえ、このくらいのスピード、どうってことないでしょ!」

「ありえません! 僕は警察官ですよ、スピード違反もしたことありませんよ。それより何で、そんな危険な運転ができるんですか! うえ……酔ってきた……」

「ソヴィエトでは兄貴のサイドカーによく乗ってたもの。舗装されてないし、スピード制限もなかったから、悪路は慣れてる。技術は北で叩き込まれてるし、なあに、大丈夫だよ」

 斜めに傾いた車体が、がりがりと地面を削った。

 これの何処が大丈夫なんだ! と叫びたかったが、喉から絞り出せたのは間抜けな悲鳴だけだった。

 聞こえてくるパトカーのサイレンが、少しずつ大きくなってくる。大通りが近いのだろう。背後からも狭い路地を突進してくる馬鹿がいるのか、鼓膜が忙しない。

「ちょっ……大丈夫なんですか?」

 頬を叩いていく風に目を細めながら目の前の背に叫ぶと、自信満々に親指が立てられた。

「僕を誰だと思ってるんだ。もしかして、君、不安? お守り渡そうか」

 くるりと目を丸くし、疑問符を顔に貼り付けたまま頷くと、防弾チョッキを着込んだ懐に入れられた手が、鈍い塊を引きずり出し放った。

 渡されたやけに軽い銃身に驚き、思わず取り落としそうになる。

「グロック。強化プラスチック製で、兄貴がよく使ってるタイプ」

「でも僕、自動小銃なんか使ったこと……」

「だいじょぶ、使い方はリボルバーとあんまり変わらないから。ニュー南部は使えるんだろ? リボルバーはシリンダーが回転することで弾を送り込むけど、こっちはマガジン式だからジャムにだけ注意したら使いやすいよ」

「もうちょっと分かりやすく……」

 一瞬侮蔑の目を向けてきた千歳が、ため息一つ、素人にも分かりやすく言葉を選び始めた。

「警察が使ってるニュー南部なんかは、回転式拳銃っていって、銃弾入れる場所を回すことで次の弾を送り込んで発砲できる形式。あの、ドラマなんかで弾一発だけ入れて、こめかみに向けて撃つって賭けするでしょ。あれがリボルバー。で、この自動小銃……オートマチックは弾詰めたマガジンって入れ物があって、何もしなくても撃てば次々装填されてくの。ここまではOK?」

「なんとか……」

「よし、マガジン式だと装弾数も多くって、代えのマガジンさえ持ってればすぐ弾を補充できるんだ。このグロックだったら、装弾数は少なめで六発だから気をつけて。四十五口径……って言ってもわかんないか。とにかく銃自体が小さいから反動が大きい。万一にでも撃つときには気を引き締めなきゃ衝撃で腕痺れるからね。あと……ジャムっていって、自動小銃系だと玉詰まりしやすいから」

「えっと……簡単に言えば、いろいろと難しいんですね」

「馬鹿だなあ。使えば分かるよ使えば。もう、これだから日本警察平和ボケしてるって言われるんだよ」

「はあ……銃を撃つ事態もあまり起きませんしね……」

 それに何より、万一撃ってしまうと、例え合法だとて人権保護団体だのが五月蝿くてかなわないのだ。マスコミはあれやこれや書き立てるし、精神がもたない。煙たがった上層部から出世の道を閉ざされることもありえる。だから、現場は撃たない。撃てないのだ。

「あ、そう。僕らは日常茶飯事だよ」

 千歳はバイクを巧みに操りながら、自身も足元から一丁の銃を取り出した。真一が持つのと同じマガジンタイプのベレッタ。

 その時、拡声器の不協和音が一人の男の声を成し、背後から轟いてくる。

「あ、あー。そこの暴走バイク。大人しく止まりなさい」

 真一には耳慣れた声。すぐさまそれが狐塚のものだと思い当たると、このような細い路地にまでしつこく追いすがってきた意図も見えてきた。

「間宮ァ! 頼む、頼むから投降しろ! これ以上罪重ねても、なんっの特にもなんねえんだぞ!」

 やはりな。呆れながらも機械越しの想いに、じわりと胸が痺れる。

 悪い。お前らの気持ちはうれしいけど、きっと俺は殺されるから。生きてりゃ何とでもなる。お前のセリフだろ。心の中で言い訳を並べ連ねた。

「あれ、知り合い?」

 顔を歪めた千歳が、手の中のベレッタを握りなおしながら呟いた。

「元同僚」

 出来るだけ感情を込めずに返すと、ふうんと千歳。

 大通りが見えてくると、遠くに右往左往する警察の面々の姿がぼんやりと見て取れた。何度も右折や左折を繰り返し、行き先を気取られないよう細心の注意を払ってきた。ただでさえ人員が不足していることに加え、他の場所にも網を張っていたのか、完全に包囲は崩れていた。

「何だか、自分もあの中にいたかもと思うと、かわいそうに思えてきますね」

「何を言う。こっちには好都合じゃないか。方向変えるよ。しっかり摑まってな!」

 そう言うと、千歳は車体ギリギリの距離を目算し、握ったグリップを思い切り傾けた。唸りのような排気音が空を裂き、勢いを付けた車体が無理な角度で横に滑る。百八十度方向転換を終えると、目の前に広がったのはつい今しがた駆け抜けてきた風景だ。

 再びエンジンを吹かし、乱暴なタイヤが小石を蹴散らすと、鈍色の車体は来たときと同じスピードで走り出した。

 前後が逆転し、頭を捕らえようとしていた大通りの警察官たちが慌てふためく気配。軽く背後を見やると、駆け回る哀れな無数の点と化した。

 問題はこれからだ。今まで、背後を取られていた。狐塚たちに。方向転換をしたのだから、今向かっているのは彼らが乗る警察車両と鉢合わせする。

 必要以上の圧迫感を感じる眼球を出来る限り庇い、「どうするんですか!」と叫んだ。

「巻く。それしかないでしょ」

 闘争心を取り戻したバイクが唸り、踏み荒らされた砂利が悲鳴を上げた。

「上、階段あるだろ。右手の建物、踊り場の手すり!」

 顔を上げると、進行方向の端で肩身狭そうに立ち尽くす年代物の建物。外壁を這うように作り付けられているのは、避難用の階段だろうか。今にも崩れ落ちそうな錆具合だ。

 必死で頷くと、「いっぺん死の世界覗いてみる?」向かってくるパトカーから視線を動かさない千歳が、握ったベレッタを持ち上げた。

 目の前に出現した車影が、次第に大きくなっていく。決してスピードを緩めることのないバイクに、ウインドウの中の顔が引きつる。

「飛び移れって言ってんの。あいつら撒くには重量オーバーなのよ」

「無理ですよ! あんなの、いつ崩れるかも分からないし……なにより失敗したらタダじゃすみません!」

「僕が合図は出す。大丈夫だから、信頼しろ」

 ベレッタの銃身を上げると、眼前に据える。黒塗りの車両とはまだ相当の距離があった。疾走するバイクに注意を払いながらスライドを引き、初弾を薬室に送り込んだ。

 がんっ! 鋭い咆哮が空を裂き、一発が警察車両のタイヤで弾け、続けざま吐き出された二発目が千歳の示した階段上で弾けた。

バランスを崩した警察車のクラッシュ音にまぎれ、金属的な共鳴音を見つけ出す。音の世界は、千歳の独壇場だ。

 即座にバイクと警察車、踊り場の距離を読み取り、千歳は口元を歪めた。

 狐塚がバランスを崩した車体を立て直そうと、思わずハンドルに手を伸ばすと、運転席に収まったネズミが、ただでさえ丸い目をまん丸に見開きブレーキを踏み込んだ。

「ちょ……っ、先輩危ないってえぇ!」

 地面との摩擦でハンドルを取られかけ、小ネズミが叫んだ。

「いくよ、五! 四……」

「え……ちょっと待って!」しがみついていた手にグロックの冷たさを思い出し、半ば呆けていた頭が覚醒した。

「三、二、一……」

 迫ってくる車体。容赦なく近付く建物。下されるカウントダウンに、やきもきしながらも腹を括った。やるしかない。やるしかねえだろ!

「Go!」

 レンガ造りの建物、連なる階段の踊り場が真上に位置した瞬間、千歳が叫ぶ。鼓膜を叱咤激励する怒号に背を押され、思い切り沈み込ませた体が宙を舞った。

 重力を忘れた肉体が、一瞬空虚になった。

 しかしそれもものの数秒、見上げた視界に赤茶けた錆とはげ掛かった塗装が映る。反射的に身を捩り右手を伸ばすと、硬く冷たい感触とともに予想以上の重力が加わった。落下の勢いも増し、かけただけの右腕が滑りかける。何とかバランスを保ち、左手を手すりにかけたとき、眼下で盛大な音がとどろいた。

 真一の目が、驚愕で見開かれる。

 真一という足かせを失ったバイクが、まるで羽でも生えたかのように宙に浮いていた。いや、反動に乗じて千歳が体重をかけ、一時的に車体を持ち上げたのだ。

 狐塚と加賀の乗る車両の鼻先を車輪が掠める。黒塗りのバンパーで一つ後輪をバウンドさせ、再び車体を持ち上げた千歳は、宙に浮いた身をベレッタを握る反対の手一本で支えている。衝撃を受けたウインドーのガラスが粉と砕ける。ただでさえタイヤ一つを損傷し制御を失っていた車は、半ば車体を削るようにして真一の真下を駆け抜けていった。

 着地した千歳は車体を横に傾け、地に着けた足でブレーキをかける。無理な方向に跳ね飛ばされた砂利が辺りに散り、火花を散らした。

 バイクを飛び降りるように乗り捨てると、地を削るバイクはそれでも止まらず、後から追ってきたパトカーにぶつかり、打撃を与えた。

 遠くでもやっと黒塗りの警察車が止まり、大通りからやってきたらしい警察官たちの足を止めた。

「こっち!」

千歳が、銃を構えたまま叫ぶ。差し出された手を握ると、無理やり引き落とされた。

 一人分の体重を支えていた鉄パイプが、みしりと不穏な音を立てる。

道を塞がれた警官たちが、何とか乗り越えようとあるものは登り、あるものは車から下りはじめていた。

 引き立てられ、駆け出す。まるで逃避行のような図だ。

 人一人が辛うじて通れる細い通路に身を投じると、喧騒の波の中、忽然と消えていった。