通されたのは、大きな地下室だった。いや、地下室と言っていいのかすら分からない。それは、地上と同じ規模、もしくはもっと大きいのだろう。明かりをつけるまで濃厚な闇で埋め尽くされたそこは、先の見えない泥沼のようだった。漏れてくる地上の明かりも無視し、男は慣れた手つきで明かりをつけ、部屋の中央へと悠然と歩を進めだした。

驚くことにその暗闇の中には、人間があった。宿谷聖。部屋の最奥に備え付けられた主の椅子に腰掛け、折れない視線を向けてくる。まるで、こうなることを予期していたかのようだ。

何より驚いたのは、最新電気機器の類が数多据え置かれていることだ。一般のアパートが各部屋に電話線を引いていることも珍しいこのご時勢、地下専用の電話線が引かれているという事実はあまりにも見慣れない。

紳士はその前に立ち、彼と二言三言交わした後、眉を顰め目の前の接客用と思われるソファーへと腰を下ろした。地上へと続く扉が開かれ、何人かの男たちが入ってくる。彼らは迷う事無く紳士の前へと腰を下ろすと、すっと強い視線を真一へと向けてきた。

「さて」紳士が告げる。

「ようこそ、というべきかな。一応望まずとも来てもらったわけだし。とりあえず、手近なことから説明しておこうか。我々は、表立っては貿易会社として動いている。聖のことは知っているだろう。わたしは、ソン・アンナム。神崎俊夫と呼んでもらっても結構だ。こいつからはミグとも呼ばれるが、一応はこの社の取締役兼社長というところか。彼はチョン・ジュファン、総務を一手に取り仕切っている。君から向かって右が、オ・ヨンピル。我らが誇る交渉担当だな。その隣がキム・チャニョン。彼は事業全体を監視するオブザーバー。何かあったら彼に聞くといい。後のものたちは、今持ち場を離れられなくてな。おいおい覚えてもらうとしよう。それから……」

 アンナムと名乗った紳士の目が泳いだとき、それまで沈黙していた真一の背後のドアが、盛大な音を立てて開かれる。この建物は防犯上、会社という表の顔に通ずる扉と、裏の――あまりに枝分かれしていたため知るよしもないが、おそらく東京各地へと通じる扉の二つが付けられている。真一が背にしていたのは、後者だ。

滑るように入室してきた男は、皴一つないパリッとしたカッターシャツに、銃を吊り下げた皮ベルトをつけ、肩に引っ掛けた背広を揺らして真一をちらりと窺うように見つめた。

驚くほど整った顔をしていた。白い肌が雪のようで、このまま町を歩けば男女問わず振り返るのではないだろうか。黒々とした切れ長の瞳は、底が見えない冬の湖畔の雰囲気をかもし出し、思わず見つめ返したこっちが固まってしまった。

真一の背に、悪寒が走る。聖から感じ取られたものより何十倍も濃厚な、殺人者の臭いだ。

禍々しいまでの雰囲気を背負ったライフルを肩から降ろし、彼はすぐさま視線をそらす。興味を失ったのか冷ややかな視線が伏せられた。

彼が遠ざかっていく足音で、ようやく呪縛から解き放たれた。後ろからは、千歳が口を尖らせながらついてくる。

基本的に馴れ合わないのだろう、彼は部屋の中心に陣取る主に軽く会釈をして、部屋の端にどかっと腰を据えた。

「ああ、忘れるところだった。彼は、カン・シウン。現役の対日諜報員であり、わたしの部下だ。今も国の配下にあるが、我々に手を貸す同志。本国の機関内部で情報操作を受け持っている。腕は誰よりもいいし、わたしにとっても稀に見る逸材だ。彼は信じてもいい」

 主の声にも動じる事無く、まるでそこだけ別空間のように、シウンは手にした銃の点検に入った。兵器を扱いなれた手つきで、分解していく。

「このメンバーに、宿谷聖、千歳兄妹を加えた七人が、主だった裏の主要メンバーだ。事実上、自由に動けるのはわたしとシウン、聖に千歳の四人だろう。後の者は、今現在も南北両国に国籍を持つものばかりだ。南の大韓民国、北の北朝鮮民主主義人民共和国、さらに日本の在日が何人かで、我々の組織は事実上動いている。『半島解放戦線事務局』我々はそう呼んでいる」

 

 黄麻貿易産業こと半島解放戦線事務局は、古いのか新しいのかいまいち判断のつきかねるコンクリート打ちっぱなしの建物だ。地上と地下とが明確に区別され、地上が仮の姿である株式会社、地下がクーデター計画本部となっている。

地上は四階建て。三階以上は外付けの階段を作り別企業に貸し出しているらしいが、真一が踏み込むこともなかろうと説明は簡素だった。地下は四階作りで、地下一階がダンボールの詰まれた備品倉庫。一階と通じる階段が巨大な本棚で隠されている他、もし万が一にでも、侵入者や役人に地下一階が見つけられたとしても言い含められるよう、それより下へ通じる道はさらに丁寧に隠してある。地下二階以下は、奈落に落ちる闇深い階段を使い、やっとたどり着けるものだ。三階が三部屋の居住区で、大抵のことは済ませられるよう計らわれている。

予断だが、時たまこの居住区を、宿谷聖が半裸で闊歩していることがある。本人曰く、「日本は暑すぎる」のだそうだ。事実、地下は予想以上に熱気が篭りやすかったが、ほんの少しむっとするくらいで、日本生まれの日本育ちである真一にはどうということはない。

「んなクソあぢぃ所で、やってられるかこの」

 呆れたアンナムから放られた上着も、羽織ることなく肩から掛けて、鼻で笑いながら豪語する。

後で聞いたところによると、満州とソ連、極寒の地で生まれ育った彼にとっては、暑さが一番の敵らしい。長年背を任せてきたアンナムに言わせると、「単に裸族なんだありゃあ」とのことだが。

「あ、千歳」

 痺れを切らしたアンナムが、ぼそりと呟く。もちろん嘘だ。

 すると聖は、がばっと背後を振り返り、しきりに辺りを見回して、渡された衣類をもそもそと着込みだす。その後、なんとも間の抜けた、騙されて決まりの悪い子供のような表情で去っていくのである。

 笑いを噛み殺し、何だか分からないなりに愉快さがこみ上げていた。

「奴の中で、女ってのは千歳しかいないんだろうな。現にわたしが現役だったとき、アノ格好のまま平気で女性の前に出て行こうとして、流石に閉口したことがある」

しかも、生い立ちのせいで恋愛感情などというものを持ち合わせていないから、唯一の異性対象である千歳にも、ごく自然な家族愛以外何の感慨も抱かないらしい。

「いいじゃんよォ。下着は穿いてたぜ」

「そういう問題じゃない。一応今では、女性の前ではズボンくらいは身に着けるようにはなったが、わたしが指摘しなければどうなっていたかとぞっとするね。しかも君、わたしと二人の任務だと平気で全裸だったじゃないか」

「結局人間も動物なんだから、正直言うと何も着ないほうが気分的にいいだろうが。ワイルドと呼んでもらいたい」

「一般的には、変態と呼ぶんだ。馬鹿者」

らしいといえばらしいが、さすがに同じやり取りを四・五回も繰り返されると驚くことに慣れてしまうものである。この光景も、真一の日常となった。

地下三階は、真一が始めて通されたアンナムの執務室だ。ここからは下水道や数え切れない抜け道を利用して都内中縦横無尽に逃げられる退路が確保されている。

 即時決断、即時決行が大前提のスパイ活動に、長年身をやつしてきた面々の処理能力は桁違いに早い。バンバン積み上げられていく書類は瞬く間に消えうせ、浮かび上がった問題は審議にかけられ三分も経たないうちに解決に導かれる。

 まるで魔法のような光景を前に、真一は警察での苦労に胸を痛めた。嗚呼、この人たちが警察にもいたら、どんなに楽だったのだろう。

 用心のため別人の名義になっているビルの地下四階部分は、例えるなら闇取引の現場のような熱気を孕んでいた。明かりの差し込まない地下において、時間の感覚というのは油断すると狂ってしまう。今も壁を伝う結露によって時間どころか季節の感覚すら失せていた。

中心はもちろん、宿谷聖とソン・アンナム。

 議題は、どうやって第三国に逃げおおせるか。聖と千歳に真一を加えたメンバーを国外に逃がす算段だ。

 問題は二つだと、聖は切り出した。

 一つ、逃亡手段の問題。日本という国が島国である限り、この問題はどこまでもついて回る因縁だ。ソヴィエトから北へと亡命を果たしたとき、かの地は遠くとも地続きだった。今は、空か海が何処までも残酷に立ちはだかり、世界をつないでいるという幻想も実しやかに語られている辺境の島。このどちらかを使うしかないだろう。

――まあ、これは裏に手を回せば何とかなる。あちらさんが手をこまねいているうちに脱出しちまえば、何の問題もない。

 そして、もう一つの問題が議題に上がった。しかし、こちらは容易に解決しない。

 なぜならこれが、この計画最大にして最難関の問題。

『受入国とのパイプ作り』だ。

 アンナムが、「心当たりがある」と口を開いたのがついさっき。そこから、その心当たりとやらが遠い町に住んでいるということにつながり、どうやってコンタクトを取るか、誰が向かうかに話が及んでいた。

「わたしが直々に行こう。気難しい男だからな。顔見知りでないと、信用しない可能性がある」

 アンナムは、目の前のソファーでふんぞり返る聖の目を覗きこんだ。

 ふふん、とご機嫌に鼻をならし、目を細める。

「警察のガードを解けばいいんだろう? 任せろ。俺たちが引っ掻き回してやる」

「危険かもしれんぞ。北の人間も重点的に配備されているだろうし……」

「左翼団体を動かす。俺の息が掛かった組織が幾つかあるからな。奴ら煽って方々で騒ぎを起せば、俺たちに向けられる配備も手薄にならざるをえなくなるだろう?」

 にやりと浮かべられた笑みは、確信的だった。