忙しく立ち働く気配もこの場所ではかき消され、ただ沈黙の中にコーヒーを注いだカップを置く静かな音だけが響いた。

「インスタントだが」

 手にしたカップに口を付けたまま、男はどかっとソファーに腰を下ろす。

ゆっくりと漂ってきた香ばしい香りに顔を顰め、「何のつもりだ」と聖は吐き捨てていた。きょとんと目をみはった男の顔が、奇妙に幼く見える。

「お前は追われる身なんだぞ。それをのこのこと出てきやがって……」

「友を助けるのに理由が入り用か?」

 彼は、悪びれもせず再びコーヒーを口に運んだ。程よい苦味が舌の上で転がった。

ミグことソン・アンナムは、それだけで絵になる人間だ。聖が意図して奇才の皮を被らねばならないのと違い、目の前の男は生まれながらに気品と優雅さを叩き込まれている。同じ諜報員の父の影響もあったのだろう、工作活動においては右に出るものは居らず、この立ち居振る舞いから、するりと社会に入り込んで見せるのだ。意図してやっていないというところが、聖にとっては悔しく、うらやましい限りであった。世捨て人に近い心境を抱えつつ生きてきた聖は、少しでも神経が緩むと自堕落になりかけてしまうのだ。

アンナムは手にしたコーヒーカップを目の前のテーブルに戻し、屈託のない笑みを浮かべた。

「君の憎まれ口が聞けないと、どうにも調子が狂ってな」

 皮肉を込めて言った。その言葉に、聖も思わず苦笑が漏れる。僅かな間とはいえ、背を任せた人間だ。事実、聖は今まで出会ってきた誰よりもこの男を信頼していた。

 横に座っていた千歳が、卓上のリモコンを手に取り、テレビのスイッチを入れる。表で朝鮮半島との貿易を行うこの会社は、見かけ以上に儲かっているらしく、アンナムの根城である地下にもテレビは備え付けられていたのだ。

アナウンサーの抑揚のない声を聞き流しながら、同じく穏やかに千歳を見つめるアンナムへと視線を戻した。

「どうしても第三国に出国しなければならん。出来ればそれまでの間、匿ってくれないか」

「当たり前だろう。そのために行ったのだから」

 このときばかりは、見慣れたアンナムの微笑が救いの手のように見える。

すまないと頭を下げたとき、上等なデスクの上に置かれた電話が鳴り始めた。地下に続く電話は、アンナムの存在を知る協力者としか繋いでいない直通だ。迷うこともなく受話器を取ると、応答の声を吹き込んだ。

電子音に混ざり、篭ったような呼吸音が耳に届く。

不穏な雰囲気に眉を顰めたアンナムは、足元に放置された逆探知機に手を伸ばそうとしゃがみ込んだ。

『朝鮮人民軍ソン・アンナム中佐』

 手が止まった。

機械を通しているのか、声は耳障りな音を立てる。受話器を耳に当てなおすと、ソファーに陣取っていた聖に視線を送った。デスクの上に転がるイヤホンをつけ、電話機とつながったコードを辿って聖が親指を立てる。

 勤めて落ち着いた口調で「何だ」と口を開いた。

「君は誰だ? 何故番号を知っている」

『ソン・アンナム中佐。ノ・テウォン大佐もそこにいるのだろう。分かっているぞ』

 嘲笑が電子音化され、耳に痛い。不協和音によってかき乱され、取り留めのなくなった思考を、脳ごと洗ってしまいたくなる。

『間宮真一』

 だみ声が告げる。

『奴が真実を知っている。お前が何故国を追われ、オ・ヨンスクが追うことになったのか』

隣でテレビを無心に見ていた千歳が声を上げた。

 不審に思った二人が、そちらへと目を向ける。食い入るような視線を画面に向けていた千歳が、不意に振り返り、テレビの画面を指差した。

「この人、僕知ってる!」

 テレビに映し出されたのは、一人の男の写真だった。芯の強そうな目をしている。

間宮真一。そうテロップが打たれていた。

「在日二世で、帰化して今は警察の人。僕たちのことに興味持ってるみたいだった」

「身代わりだな」聖が呻く。

途端に鎮痛に視線を落としたアンナムが、何か考えるように眉を顰めた。

変化を感じ取ったのか、電話口が騒がしくなる。笑っているのだ、と気づくまでに時間がかかった。ぶつり、と電話が切られる。後には無機質な機械音が流れるだけだ。

「俺たち取り逃がした不祥事のつめ腹切らせるのは、身内以外がいいってことか……」

 表示を見つめ、肩を竦ませた。時間が短すぎた。北から持って逃げたとはいえ、所詮個人が持てるだけの技術しかない。

『……真実……?』

 朝鮮語で呟き、すでに切り替わったテレビ画面を直視する。

 奴は言った。何故、追われるようになったのか、真実を知っている。

 在日なら、人民軍とも縁がある可能性がある。本国で暮らす縁戚を利用し、在日に協力を迫るのは国の得意分野だ。

 もし、この男の縁戚、もしくはこの男自体が朝鮮人民軍の情報を得る立場にいるとしたら?

 ふと、アンナムの変化に気づいた聖が、訝しげに見つめた。

「ミグ、もしかして突拍子もないことを考えてるんじゃないだろうな」

 僅かに身じろぎしたアンナムに、呆れたような声を上げる。

「あんなの放っておけばいい。日本は俺たちに何かしてくれたか?」

「だが、日本という国家を彼自身に短絡的に結びつけることはいささか乱暴だよ。それに……」

「自分のために人が死ぬのは耐えられない?」

 聖は嘲るように呟いた。その直後、背後に殺気が立ち上る。

「やあ、」気の抜けるような声を出し、彼は背後を振り返った。首に走る太い血管に煌めくナイフを当て、冷たい氷の視線が見下ろしていた。

「相変わらずミグの番犬は元気だな。なあ、シウン」

 二十と見られる男は、軽く口を動かし、声もなく呟いた。『黙れ』

「それで? どんな利益がある」

 動じる事無くアンナムに向き直った聖が、手を差し伸べた。

「返答しだいでは、動いてやってもいいさ」

 その姿を一瞥して、どうせ乗るんだろう、と内心愚痴を零しながらアンナムは思考をめぐらせた。目の前の屁理屈すらも感服する理由を並べ立てるのに、少々時間がかかった。

 

 かつん、かつん。響く足音は、すっかり耳に馴染んでしまった。長くはなくとも一途に勤めてきた職場を、全く違った角度から見ることにも、すでに恐怖などない。それだけ時間と思考を無駄にしてしまった。

真一は、固いベッドに横たえた身をごろりと動かした。有無を言わせぬ雰囲気を持って、革靴が止まった。もう、身に覚えのない事実を責め続けられる押し問答にも疲れた。鉄格子越しの靴を見とめた途端、顔を背けるように目を瞑った。無視しても大して状況は変わりはしないだろう。

「おい……おいっ!」

 聞きなれた声。顔を上げると、ほっと息をついた狐塚が砕けた笑いを向けてきた。

「差し入れだ」手にしたおにぎりを放り、慌てて真一が受け取ると、自分は鉄格子へと背を預ける。暗い目をしていても、彼らだけは変わらなかった。分室の皆。彼らだけは、頭ごなしに真一が行ったとは言わなかった。多くのものが、やはりと言う顔をしたというのに。

「あのさあ」

 目を上げると、陰を纏った狐塚が、抑揚のない声で告げた。

「俺たちが何とかするからな。お前何もしてないんだろ。俺たちだけは信じるから。今、巡査部長と加賀がお前のアリバイ集めてる。シロだって証明する証拠集めるなんて不思議だろ。だからお前は、この穴倉で、悠々休暇取ってろよ! お前の潔白証明されたときには、すっげー忙しくなるぞ!」

 ケラケラと笑った。あまりに頼りがいのある笑顔。おそらく、本気で這いずり回っているのだろう。容疑者を取り逃がしたせいで、暇なはずはないのに。

「うへあぁー……疲れたぁ。外回り完了でぇっすぅ」

 独特の声色が廊下の角から現れる。飲み明かした酔っ払いのように足元をふらつかせた加賀は、徹夜明けのせいか背を丸め、一層小ぢんまりとした印象を受ける。

「どうだ?」期待を込めて問う狐塚に、血走った眼を走らせ、ため息混じりに首を振った。

「だめそうですねぇ。問題になってる時の先輩のアリバイですがぁ、身内からしか証言が取れそうにないんですよぉ。身内ってぇ、口裏合わせるにしても情に流されやすいからあんまり信用されませんしぃ……」

 厳しいですねぇ、と続いた加賀のくたびれた姿に、牢の内外から哀れみが漏れる。

 加賀は、懐から大きな輪で括られた鍵束を取り出すと、ふらつく身を牢の扉へと進め、しゃがみ込んだ。

「おい、それどうしたんだ」

「借りてきましたぁ。書類に不備があったから、ちょーっと尋問しなきゃなんなくなったぁって言ったら、貸してくれたんですよぉ。あー、あの人いい人だったぁ」

 何本も連なった銀色の鍵を値踏みするように見つめ、加賀はそのうち何本かを確かめるように刺した。

「尋問ン? 俺は知らないぞ。急ぐのか?」

 三本目を試したとき、かちりと気の抜けるような音と共に頑丈な錠が外された。

ん? と首をかしげた加賀は、開いた扉に手をかけ、不思議そうに狐塚を見上げてきた。

「僕も知りませんよぉ? 嘘に決まってるじゃないですかぁ」

 その言葉を聞いた狐塚が、ぎょっと目を見開く。

 しかし、彼の許容量低い脳が咎めようと結論を出す前に、加賀が躊躇うこともなく牢の内側に足を踏み入れ、凝った首を回した。そうだ、と思い出したように後ろを振り返ると、つい今しがた開けたばかりの扉を閉め、内側から手を伸ばして鍵をかけてしまった。

 狐塚と真一の脳が、あまりのことに停止する。

 欠伸を噛み殺した加賀が、時計に目を移し、ベッド際に立ちすくむ真一の方へと歩き出した。スーツの上着を脱ぐと、その辺に投げ捨てる。丸まったグレーのスーツは、巨大なネズミが身を横たえたようだ。

「じゃ、先輩一時間後に起してくださいねぇ」

 ごく当たり前のようにそう告げ、加賀はベッドに潜り込んだ。

 一瞬の静寂。理解が追いついていない。ぎゃーっという奇声と共に、真っ先に沈黙を破ったのは真一の方だった。

「加賀、何考えてるんだ!」

「……何って、仮眠です」

「ソファー行けよ! 応接室の!」

「えぇー、だってあそこ硬いし……」

「じゃあ、家帰れ! 係長には、俺から言っとくから!」狐塚も続けた。

「やですよぉ。もう一歩も動きたくないもの。聞き込みしてたら、そういう商売の人にしつこく声かけられるわ、ヤクザさんに絡まれるわで大変だったんですから。まあ、下っ端みたいでしたから、お友達に来てもらって、しかるべき処置の上丁寧にお帰り願いましたけどぉ。あー、やっぱ寝るならベッドですよねぇ、快適ぃ」

 満足げに身を捩る。もぞもぞと掛け布団を手繰り寄せる様が、滑稽に見えた。

「おまえなあ……」

 完全に寝の体勢に入った加賀は、大きく息をつくと軽い寝息を立て始めた。なんだろう。日本語すら通じていない気がする。

狐塚と真一が呆れでため息をつこうとしたとき、金属を叩きつけたような盛大な音が牢の中に響き渡った。見えない空間というものに、亀裂が走る。一瞬にして張り詰めた緊張の先には、加賀が手にしていた大量の鍵束。

「ぎゃーっ!」真一が悲鳴を上げた。

「こ……っ、狐塚! どうしよう、狐塚!」

「とりあえずこっち渡せ!」

 蛇に怯える子供のように、決して噛み付かない鍵束を摘み上げた真一は、完全にビクつきながら手を伸ばした。

「何でこんな事になってんの。僕って容疑者だろ! 何で容疑者が鍵もって、しかも警察官に渡さなきゃなんねえの!」

「こっちが知りたいわ! というかお前、実はそこまでおびえる必要ないのにさ」

「そっちも震えてるくせに、よく言うよ!」

 理解が追いつかなくなった真一は、半泣きだ。得体の知れない危険物を鉄格子ごしのリレーで繋いだ二人は、暫く荒い息を吐き出していたが、じわじわと襲った理由のない笑いで辺りを賑わせ始めた。

「拘置されてる容疑者に、牢の鍵始末させる警察官ってなんだよ」

「あ、ヤバイ。涙出てきた。それより、どうするんだよ。元同業とはいえ、容疑者と警官が同じ屋根……あ、牢か、同じ牢の中で寝てるってどうよ」

「あー、もう仕方ねぇ。一時間だっけ? 経ったら迎えに来るから、入れといてやれや。警察官が一緒でも襲わねぇだろ、お前」

「どういう意味」

「普通だったら、リンチか殺しってこと」

了承の代わりに笑みを零すと、彼も安心したのか再び立ち上がり、通路の先へと歩き出した。かつ、かつ、と響く足音も、若干軽くなっていた。