裏で手を回し、部屋を取ったホテルの一室で、聖は疲れたようにため息をついた。背後には、静かな気配が存在している。

とりあえず落ち着いた千歳を引きずって、この場所に一時的な潜伏を果たし、さてそれではこれからどうするかと深い闇の底へと意識を鎮めていく。なにより、この裏切りの痛手は重い。

次は何処へ行こうかと思考をめぐらせ、疲れたようにため息をつく。アメリカと日本ソ連に仇なし、どの国とも対立、もしくは不可侵の状態にある国でなければ、わざわざこんな面倒な身の上をした人間を受け入れようとはしまい。

 不意に、ベッドに座り込んでいた千歳が、顔を上げた。膝を抱きこみ、目だけで聖を見上げてくる。

「アンナムは?」

 ぐっと涙を堪えたように眉を顰め、もう一度口を開く。「アンナムだったらあっちとの関係も切れてるし、頼れるんじゃ……」

 聖の顔が、苦しそうに歪む。「駄目だ」と強い声で制して、働かせすぎて火照った頭を庇うように髪をかき上げた。

「ミグに迷惑はかけられない。なにより、今回の事は唐突過ぎる。何故この状況で、俺たちは売られなけりゃならなかったのか。それを考えたら、表面化でミグを探し回ってる奴らの顔がちらつくんだよ。もしかしたら、ミグを誘き出すために動かされてるんじゃないかってな」

 だから、駄目だと付け加え、重々しく口を閉じた。こういうときは、根拠はなくとも本能が出した仮定を信じていたほうがいい。俺の第六感は、この年になっても優秀な五感に勝るとも劣らないほど優秀だ。

千歳は、苦しむ兄の姿を直視することが出来ず、再び顔を俯ける。いつもそうだ。兄貴は僕を守るためだけに動く。自分ひとりだったら、つめ腹を切る場面でも、僕がいるからこそ、苦しんで泥沼にはまって、全てを失ってしまう。今もそうだ。兄貴は、僕のために逃げようとしているんだ。ソ連がスパイ活動の基盤を作り上げ、兄貴が要らなくなって、僕共々殺そうとしたときと同じように。

兄貴の言葉は当たっていた。前線で命張ってる人間とこの国の人々の脳細胞の量を比べたら、ゼロが一つ足りないのではないだろうか。千歳がこの目に始めて映した故郷は、大きな大きな白昼夢だった。

そこでは誰もがパステルカラーや極彩色の、狂った世界で笑っていた。何が楽しいのだろう。親に手を引かれ、風船を弾ませる幼子を見つける。国では、あんな光景なんかない。まだ五つの誕生日を迎えぬ子供たちですら、今日食べるものを探し、地に這い、泥水を胃に流し込みながら生きている。食べ物が差し出されたならば、腹が減っていなくとも、我先に口へと運ぶだろう。明日食べられる保証などない。

兄の庇護の下、ぬくぬくと特権階級的生活を送ったことのある千歳には、その両方が分かる。極限で強いられる空腹と、喉を焼く胃液の味。裕福に慣らされ、溢れる食料から己の身がドロドロに溶けて機能しなくなるような錯覚。両方を知り、あえてこの国で言う不幸を選んだ。

僕の居場所は、こんなにも怠け、甘んじ、破滅から目をそらそうとする国じゃない。偽りの幸福を狭い範囲に与えることで卑屈な己を満足させている国なんかじゃない。

千歳は、横に立つ兄の手を取った。諜報員――祖国となるべき国に背くことを決めた千歳に、兄が与えた最後の分岐点。

――立ち止まれ、引き返せ。お前は俺とは違うんだ。

聖の声を借り、囁きかけてくる幻想の国へと唾を吐く。

黙れ、お前は要らない。僕の世界ではイラナイ。宗教も国土も、守ってくれる利権にまみれた代表もいらない。

 暗黙の中で問いかけてくる兄に、彼女は呟いた。

『僕は故郷なんか要らない。兄貴が行くところに、ついていく』

兄貴は強い。でも、僕のせいでその強さが違う方向に向かっている。

千歳は、あの時取った手の感触を思い出そうと拳を握る。冷や汗でべったりと湿っていた。

もうちょっと僕に力があったら、もう少しでも僕に兄貴を助けることが出来たら……。何度となく繰り返した思考の深みにはまり、千歳はもがく。ああ、苦しい。二十歳を超え、少しは兄の役に立とうと諜報員として兄に付き従った。それでも倍近い年齢の壁は大きく、長く、厚い。当然のようにそこに居座り続ける。千歳がこの世に生を受けたとき、彼はすでに十代も半ばに達していたのだ。ソヴィエトの飼い犬となってから数えると、丸三年になる。

当然といえば当然だが、大丈夫だと言うだけで苦しみを全て引き受けようとする背を見続けるのは、まるで突き放されているようで辛かった。

 

「ああもう、何で俺らがあいさつ回りならぬ、ホテル周りしてんだよ」

 狐塚が不満げに叫ぶ。開き始めた自動ドアにもどかしげに手をかけ、室内に転がり込む。「仕方ないだろ」と応じた真一の背後には、痛いほど夏の日差しが刺し、息を切らせて走る子ネズミと熊のアンバランスなペアの姿があった。

「もう駄目、もう限界……っ」

 一般客が眉を顰めることすら気にせず、倒れこんだ狐塚を立たせ、フロントに駆け込む。四十くらいの男と二十代の女は泊まってませんか、と上がったままの息で告げると、驚いたフロント係が宿泊名簿を捲り始めた。

 ふと、思う。四十の男と言わないほうがよかったかもしれない。彼の年齢は外見からは窺えない。

 銃声が聞こえたという通報で郊外のビルへと駆け込んだ。発見された死体は彼らが追っている宿谷の部下であることが判明して、すぐさま新しい潜伏先探しに奔走せざるをえなかった。じりじりと太陽に焦がれ、ホテルを回って一時間。これで都内五棟目になる。

「もう都内にはいないんじゃねえの……?」とついに弱気を見せ始めた狐塚の背を叩き、フロントからリストを引ったくり、エレベータへと向かう。真一には、彼らが都内から出たとは思えなかった。そう、彼らは裏の裏をかく。だったら、交通の便がいい都内に潜伏していても不思議ではない。それに、東京は彼らのフィールドワーク、テリトリーだったのだ。身を隠すところくらいいくらでもあろう。

めぼしい部屋のチャイムを鳴らし、ノックをする。後で合流したことも考え、男一人、女一人の部屋も除外してはならない。熊と子ネズミが汗だくのまま、駆け寄ってきた。がちゃと扉を開けた人間を一瞥し、「すみません、間違いました」と早口に告げると、次の部屋へと移る。

早くしなければ、逃げられてしまうかもしれない。焦りが、真一の心を急かしていた。

 

一つだけ、ノックに応じなかった部屋があった。焦れた真一はその扉に手をかけ、思い切り引く。もう一度でいい。あの瞳と対峙してみたい。マスターキーを持って駆けてきた子ネズミに反し、扉は簡単に開いた。

 

 不意に、軽いチャイムの音が室内に溶ける。ノックも二度三度、聞こえてきた。咄嗟に身構えた二人は我知らず頷き、千歳は手元に転がっていた拳銃を引き寄せた。聖が扉に背を向けて立ち、恐る恐るノブに手を回す。目配せをして、一気に引いた。

 扉の外には、目元を伏せた男がずらりと並んでいた。

 

部屋の中は、まるで何もなかったかのようにがらんどう。伏兵を警戒しながら部屋へと足を踏み入れると、僅かにしわの寄ったシーツに、赤黒い染みがついていた。銃を置いていたのだろう。その形どおりに血は染み入り、変色させている。

「遅かったか……」

 誰ともなく呟き、肩を落とす。現代社会にぽっかりと開いた、奇妙な空間。探しても探しても、痕跡はあれど見つからない。まるで神隠しのようだ、と真一は思った。

 その時、一人の警察官が顔を真っ青に染めて駆け込んできた。荒い息を整え、軽く敬礼をした彼は、きょろきょろと忙しなく視線を泳がせる。その口元があ、と動き、その場に居合わせた皆の目が驚愕に染まった。

「本庁観察室より報告です。容疑者逃亡幇助により、間宮真一氏にご同行願えとのことです。また、左翼団体への情報漏洩の疑いもかかっており、処遇が決まるまでは署内の留置所に留めおくこと、と……」

 腹の中まで探るような視線が、真一へと集まる。身に覚えなどない。自分ですらまるで他人事で分からないのだ。

出所の分からない汗が頬を伝い、急に肌が冷たくなる。

逃亡幇助……? 何の目的で! 何もしていない。そんなこと、しているはずないじゃないか……っ!

 

 時はまだ午前。同日。

「完全に逃げられたですって? だから、日本政府に任せたくなかったのよ!」

 声を荒げ、机を殴りつける。整った顔は苦渋で歪んでいて、スンファンは一人ため息をついた。

「仕方ありません、相手もプロだったということです」

 窓辺に据え付けられた自身のデスクの上には、大量の書類がばら撒かれている。そのうちの一つが、視線を落とした拍子に目に入った。

 間宮真一。

 根本的に日本政府を信用していない彼らが、日本側が前線に出した人間を徹底的に調べ上げたものだ。数年前のものなのか、写真の中の制服がまだ真新しく、着慣れない印象を受ける。

 その書類を手に取り、ヨンスクに放った。

「警察から一人、人身御供を差し出してもらいましょう。失敗した手前、別の罪状をつけてでも差し出してもらいます」

 デスクを迂回したスンファンは、疑惑の目を向けるヨンスクを見下ろした。

「情報によると、彼は宿谷の妹、千歳と言葉を交わしていました。もし彼らがソン・アンナムの潜伏先を知っていれば、漏らしているかもしれない」

「確率は低いわ」

「そうですね。でも、知らないなら知らないで日本政府の手を知る人間を手に入れることにはなる。わざわざ危険を冒して他人の庭に忍び込んで、何も知らない人間を掻っ攫う必要もないのです」

 暗に匂わせたスンファンは、目の前の書類を翳した。

「なんと言っても、相手は天下の《ケイサツカン》だ」