動くことすら忘れた肉体が、微かに筋肉を痙攣させる。反動で体の上に降り積もっていた土ぼこりが崩れ落ち、微かな音を立てた。鼻が痛い。酷く煙たいのだ。煙はまるで戦場なのではないかというほど濃く、こめかみに響く。戦争体験のない真一でさえ、そう思うほど遺伝子に刻まれた恐怖の臭いは強かった。打った衝撃だろうか、耳がギリギリと痛む。目も馬鹿になってしまったらしく、開いたところで暫くは全く見えなかった。

 視力が回復してから、手探りで無事を確認していく。四肢は大丈夫。耳、たぶんオーケー。目もやっと見えてきた。苦しそうに呻いた狐塚も無事だ。

 狐塚の手を払い、身を起すと、開きっぱなしの扉から外へと出る。安全は保障できないが、それ以上に彼らがどうなったのかを知りたかった。灰色のコンクリートの上に立つと、呆然と一角を見つめる。それは彼らがいた場所、バリケードの内側だった。身を守り倒れていた警察官も、三々五々起きだしてくる。その目には、しかし真一と同じ驚愕の色が浮かんでいた。

 そこには、全てが存在した。彼ら兄妹以外の全てが、破壊されることもなく。投げ上げられた物体の真下に位置したであろう場所に、頭を抱え、狂ったように震える人質の男がいる。男の怪我どころか、パトカーの破損も殆どないようだ。それはまるで、奇跡のように。

「閃光弾と、白煙灯か……」

 そういったことに詳しい狐塚が、ありえない方向に捻った首を擦りながら車外に出てきた。

「逃げおおせるには十分だな」

 最大のヒントにして、最も近しい存在を見失った。

 ぼうっと煙る白煙灯の残光が、朝焼けの中に僅かな主張を繰り返していた。

 

 銃を抱えた千歳は、足が日ごろより若干遅い。それでも鍛え上げられた諜報員の意地をみせ、一般人のそれとは比べ物にならない。かちゃかちゃと金属音を鳴らしての帰還は、仲間内にも若干の危険を生むが、今は仕方がない。状況が状況だった。

 狭く暗い地下の通路を通り、彼ら一味が根城とする暗がりへと舞い戻る。夜闇に慣れた視界が開けると同時、さすがに限界だったのか地に崩れ落ちた千歳を気遣うように、聖も歩みを止めた。心配は要らない。ここには、俺たちと北の諜報員――俺の部下しかいない。

気兼ねもせず身に着けていた警察の制服へと手をかけると、剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。中には、日ごろ着慣れた戦闘服が着込んである。

『誰だ?』

 闇の中から、問う声が聞こえた。聞きなれた、部下の一人だ。聖は彼のことを、信頼に足る人間だと評価している。

『テウォンだよ』と告げると、胸元に引き込まれたドッグタグを引っ張り出す。一部が血によってくすんだそれには、見慣れぬ文字が所狭しと彫りこまれれていた。

 一瞬の沈黙の後、彼の部下はコツコツと靴音を響かせ始めた。

『悪いが、事後処理を頼む。本国への報告は俺が直々に……』

 カチャリと金属音が鳴る。

『その必要はありません』

 信頼する部下の奇妙に落ち着いた声が、ヒヤリと背筋を舐めた。

『あなたはここで、死ぬんですから』

 銃口と同調した冷ややかな目が、眉を顰めた聖を見つめる。搾り出すような聖の声が、銃を構えなおす千歳の動きに重なる。

『……どういうことだ』

『本国の意向です。あなたを殺すことがわたしの新しい使命』

 素人相手ではない。間違いのない殺意を持って、銃の安全装置を解除した部下の目を直視する。重い、殺人者どうしの邂逅がそこには存在した。

かちんという軽い音は、すっかり聞きなれたものだ。弾丸が装填される音。何もかもを奪う、命の重さが軽いことを知らせる音だった。

『本気か』

『本気です。私は……あなたを殺す』

 そしてそれに、迷いはない。迷うことなど、悪だと教えられてきたから。そう叩き込まれてきたからだ。諜報員――いわゆるスパイの真実。

『さよなら、亡命テロリストさん』

彼の目がギラリと光り、その手が引き金を引こうと動いた瞬間、辺りを劈くような轟音とともにコンクリートの床に鮮血が散った。

 ごとんと重々しい衝撃を放ち、部下の身が地に伏す。返り血に塗れた顔を上げ、背後を振り返ると、呆然としたまま白煙の立つ銃口を向け続ける千歳の姿があった。ふと、緊張の糸が切れたかのように細い腕が震え始める。

それは、過去を振り返っているようで聖の胸を引き裂いた。思い当たった前例は唯一つ、あいつが唯一何かを殺したのは、ソヴィエトの収容所でだけだ。可愛がっていた猫を邪魔だから殺せ、と銃を握らせられた時のこと。

 半笑いで見つめる大多数優位の大人を前に、千歳はやるしかなかった。駆け寄った聖が彼女の目を庇い、耳を塞いで大丈夫だからと引き金を引かせた。その後の光景は幼い彼女に見せてはいない。

この行為自体、単なるいじめの延長で、一般的には問題にすらならないだろう。なにより、自分たちはスパイ容疑とはいえ、地位の低い捕虜だ。だが、聖が彼らに向けていた鋭い憎悪の眼光は、その後水面下で結実する。非公式とはいえ、その頃すでにKGBに籍を置いていた聖にとって、彼らを社会の底辺へ引き摺り下ろし、始末するなど難しくなかった。

そうだ、彼は思い出す。彼女をこちらへと引き込んだ国――裏切られてしまった、かの半島の地へと暴言を吐く。

――だから、あいつは諜報活動には向かないと言っていたのだ!

 千歳に、人は殺させない。あの時心に決め、貫いてきた意地が崩れる音がする。自分が血に塗れてでも、千歳だけには本当に銃を取らせまいと守ってきたのだ。銃は護身用、殺さぬよう、それでいて敵を無力化させる術を教えてきた。いざとなったら自分が手を汚せばいいと、そうやってバランスをとってきた。

 それが、秩序が突如として崩れてしまった。自分のせいで。

 千歳が撃たなければ、自分は始末されていただろう。しかし、どう仕方がないと言い聞かせたところで、自分の無力さに腹が立つ。

 狂わなければ、人は殺せない。千歳はまだ、狂うだけの憎悪も持ち合わせていない。

思わず駆け出した聖は、小柄なその身を引き寄せると、力の限り抱きしめた。はるか昔、囚われの身である少女が、自ら愛しんだ猫を、銃で撃ち殺さねばならなかったときと同じように。

俺一人だったら、殺されてやっただろう。だが、俺には守りたいものがある。それをみすみす殺されてたまるか。

生き抜いてやる。這い蹲って、血反吐を吐いても生き抜いてやる。これが俺の、宿谷聖という哀れな排斥者に残された、最後の意地だ。

「逃げよう」

 浅い息をしきりに繰り返す妹に、彼は呟く。

「逃げよう千歳。生きるために……っ!」

 

 日本の土を踏んでも尚、目の前の女性には、大した感慨もないかのようだ。もしかしたら、感情すらないのかもしれない。己の婚約者を追っているのにだ。それもありえると、スンファンは自嘲的に口元を歪めた。

『それで、状況は芳しくないというのね?』

 見慣れた女の、丸みを帯びた背が言った。

『はい、確かに。事実、餌として利用したノ・テウォンは完全に姿をくらまし、その上どこからか嗅ぎつけた某国が、「日本に犬を放つとは何たることか」と言ってきております。結局、最後の砦として利用している自分たちの領土に、アカい色を持ち込んでほしくないのでしょう。いくら国名に民主主義と明記していたとしても、奴らとしてはどう転んでも中国かソヴィエトの属国程度の認識でしょうから』

『完全な対立図式が出来上がっているものね』

 誰ともなく相槌をうったヨンスクは、忌々しげに眉間に皴をよせ、歩くたびにはためくコートの裾を払った。馬鹿め。アカの違いすら見抜けない癖に、いっぱしの世界法典気取りか。

『折角電話までして、日本側に尻尾をつかませてあげたのに。彼の身が危なくなれば、情に弱いアンナムが出てくるかと思ったけれど……』

 暫く考え込むように眉間を押さえていたヨンスクに、おずおずといった風にスンファンが進言する。

『とりあえず、今はアメリカを黙らせることです。あれを怒らせて民主共産全面戦争などとなれば、互いに仲たがいしている中国とソヴィエトから白い目で見られることは必至。それ以上に、シュクヤを殺したがっているソヴィエトが黙っているかどうか……』

 くっとヨンスクが口元を歪める。歩みを緩めず歩を進めるその姿は、むしろ威厳すら内包している。

長い廊下に引かれた絨毯をよどみなくたどり、最奥に作りつけられた豪奢な扉が視界へと現れる。彼らが近付いてくるのを察し、両脇に控えていた従兵が、視線は下へと落としたまま、重厚な扉を引いた。軽く頭を下げ、目は決して合わせない。

ヨンスクはそれがまるで当然のごとく扉を潜り、開けた室内へと足を進める。丸い円卓の奥に腰を下ろした人物が、億劫そうに入室してきた二人へと視線を走らせた。透き通るように青い瞳に縁取られた虹彩がすぼまり、ピントを合わせた男がおもむろに表情を崩して立ち上がった。

「待ってましたよ。まさか女性がいらっしゃるとは思っても見ませんでしたが、何をしておられるのか、そちらもお忙しいようで」

 皮肉を込めて差し出された手を、差しさわりのない笑みを浮かべ、握り返す。こういうときばかりは、スンファンもこの上司に感服する。まるで協定を結ぶ首相のように固い握手を交わした双方が、向かい合うように腰を下ろしたのを見計らって、金髪を切りそろえた男が「さて」と口火を切った。

「どういうことか説明してくださいますな、あなた方はこの国で何をしておられたのか。返答しだいでは、国際紛争になりかねませんぞ」

 ただでさえ背が高く、体格のいい彼ら人種は威圧感がある。それに加え、今回は事が事だった。しかし、スンファンの上司は少しも怯える様子も見せず、ため息をついた。目を瞑り、暫く考え込むように口を閉じる。長い沈黙が流れていた。苛立つ先方――アメリカの代表者が、手にしたペンの尻で机を叩く規則的な音が、停滞した時間を不用意にかき回していた。

「今回のことは、目を瞑っていただきたい」

 ヨンスクは、流れに逆らうことのない、凛とした声で告げた。椅子に体を沈めていた白人が、ぎょっと目を瞠る。

「まさか! そんなことが出来るとでも……」

「春岡正志という人間を知っていますか?」

 彼女の紅が引かれた唇から紡がれた名に、ブロンドの髪を煌めかせた男は眉を顰める。

「いや……」と続いた返事へ軽く頷くと、ヨンスクは「では」と続ける。

「久富雄樹」

「知らんな」

「アレクセイは?」

「ああ、それなら我が国に投降してきたソ連の政府関係者が何か言っていたな。『あれほどの才能を持つ部下が、敵方にいたのが憎い』だったか。まあ、丁度内部分裂していたソ連でのことだがな。やつが言うには、敵派閥内部の優秀な対米諜報員だったらしいが」

 一瞬思案の色を浮かべた男が、不意に不機嫌そうに眉を顰め「それが何だというのだ」と吐き捨てた。

「わたしが知りたいのは、ノ・テウォンというお前たちが仕向けた工作員の話だ」

「そうですね、では話を変えましょう。ここからは核心です。正直にお答えください」

 飾り彫りの施された椅子から立ち上がり、一面の窓辺へと歩み寄ったヨンスクが、垂れ下がるカーテンへと手を伸ばし、昼独特の痛々しい陽射しを室内へと導き入れた。予想以上に大きく、磨き上げられた窓の外には、東京駅の独特な景観や小さく国会議事堂など、近代都市東京の様相がまざまざと垣間見える。

 逆光で表情の読み取れないヨンスクが、動きを止め、その光景に見入っていた。

「……宿谷マユを知っていますか」

 男が一瞬、驚愕に目を丸くした。口元は引きつり、何か言いたげに開かれる。肌もいささか青ざめたようだ。しかし、すぐに平常を取り繕った男は、「……知りませんな」と呻きに近い声を絞り出した。

クルリと振り返ったヨンスクは、日光に縁取られ、ほんの少し笑っていた。

「そんなはず、ありませんよ。あなたが、一時でも情を交わした女性なのですから」

 睨むように目を眉を吊り上げた男が、苛立たしげに指で円卓を叩く。

「そんな、根拠のない」

「ありますよ、根拠なら」

 目を細め、ヨンスクは円卓へと歩み寄る。この交渉は、急いてはいけないと思っているのだろう。酷くゆっくりした動作だ。

「宿谷マユ。あなたは出会ったはずだ。彼女がまだ十代……アメリカ留学しているときにね。そしてあなたは結婚を控えていたにもかかわらず、彼女と関係を持った。違いますか?」

「君! 失礼じゃないか! そんな事実は断じてない。そんな女、知りもしない」

 思わず声を荒げた男に、満足げに微笑んだヨンスクが、近くに転がっていたペンを拾い上げた。

「そういうことにしておいてもいいですよ。しかし、この先は……どこかに必ず存在した何者かに通じる話だと思ってもらいたい。それからここからは、我々が独自に調査した結果です。憶測も幾つか混ざっているでしょう。だが、これ紛うことなき事実なのです。それだけはご承知ください」

 そう前置きして、ヨンスクは立ち上がった。手にしたペンを弄ぶのをやめ、円卓の上へと戻してやる。そして一つ息をつき、目の前の男へと、重大にして最も残酷な事実を告げた。

「彼女は、あなたの子を宿していました」

 男の顔が、今までにないほど空白に近くなった。驚愕を超えた空白に。

――そう。俺は、少女と言って差し支えない日本人の女性と、アメリカ高官の間に生を受けた。人種が人種を忌み、恐怖し、差別しあう只中に、無責任にも放りこまれたのだ。

政治的緊張の中で、地方でも有数の家に属していた母は帰国を余儀なくされた。そして知ったのだ。己が、最も愛する男の遺伝子を宿していることを。

しかし、世は好戦的な風潮高まる大戦間際。敵となるべきものの子を宿した女を、日本は、彼女の家族はどうするだろう。地方豪族の出であったがゆえに、他人の目も必要以上に気にせねばならない。彼女――宿谷マユは決断せねばならなかった。

「彼女は大陸へと渡ったんです。誰も知らぬ地へ、当てもなく身一つでね。そしてそこで、一人の男の子を生んだ。シュクヤヒジリ……あなたの子だ」

宿谷マユは、周りの日本人から蔑まれながら、懸命に生きた。堪能な語学力に、日英に加えロシア語すらも身につけ、彼女は働いたのだ。彼らにとって異端となる遺伝子を継いだ聖もそうだが、身を売ったと罵られる彼女の苦労も並大抵のものではなかっただろう。

しかし、そこには危険と蔑視に踏みつけられた、雑草のようにささやかな幸福が存在していた。聖は、それでよかった。母と二人、世界の片隅ででも生きていけるのなら、自分が何と言われようと構わなかった。

誰かが言っていた気がする。危機的状況に慣れ始めた人間は、必要以上に互いの存在価値を上げていくのだそうだ。聖にとっては、愛する母であり、千歳だった。

そして、事は起こった

「終戦です」一拍間を置き、ヨンスクは再び歩みだす。宿谷親子の破滅への道を辿るように、ヨンスクはただ足音をとどろかせる。

「終戦と同時に日本領各地へとなだれ込んだソ連兵は、容赦のない暴行、略奪を繰り返した。それはさながら、地獄絵図だったそうですよ。戦争は終わった。なのに何故、自分たちは再び戦火の只中に放り込まれなければならないのか。日本人は皆、そう思ったでしょうね。それが自分たちの起したことだと、新たに教え込まれた『日本人である罪』を噛み締めながら、どれほどを諦め、苦しんだことか。日本本土に帰還する船へは、各地から長い列ができたそうです。だが、その中に彼ら親子の姿はなかった……」

 ずるりと重たい空気がのたうつ。男の心の中、広がり新たに血を流し始めた傷口が、赤黒い蛇を幻視するようだ。

「スパイ罪ですよ。彼らは、ロシア語が堪能であったがために、ソ連領事館で働いていた。その年、十二になったばかりの聖もね。そしてそれは、スパイの烙印を押されるのに十分な理由だった。ソ連内でのみ通用する法律と照らし合わせて、彼らの刑は確定された。証人も弁護人もいない、反論すら許されない場で、問答無用に押し付けられた。ただ、ここで一つだけ語られない歴史が存在します。御歳十二だった宿谷聖は……独断裁判の行われたチタで、横暴に裁かれた日本人抑留者の中でただ一人、ソ連関係者に向かって言い切ったのです」

『僕は――』

「僕は」

「『あなた方が僕を必要とするのなら、日本の国籍など捨ててやります』と……」

 ――極寒の地《チタ》デ、太陽ハ死ヌ。自ラガ生キ、生カスタメニ死ヲ選ブ――

 不意に止まったヨンスクの足が、角度を変えてそろえられる。哀れむような目が、俯き、浅い呼吸を繰り返す男へと向けられていた。

「後に彼は我々にも言いました。自分は、もとよりどの国にも属さぬ、属せない穢れた身……それならば這ってでも生きてやると、そう思うだけなのだ、と。生々しい理屈だと思われるかもしれませんが、それまで歩んできた道からすると、血の川を渡る覚悟など、小さいものだったのでしょう。生まれたときから、蔑まれ、疎まれることを宿命付けられた男です。それくらい、やって見せます。

そして彼は、ソヴィエトの長期計画の一端に取り込まれた。あなたも知っていますね? 日本人抑留者は、日本へと戻され五、六年の長い時間を経て、社会に復帰したところでスパイとして取り込みなおす。そんな計画の中で、一つ問題が起きていた。確かにその計画は、計画としては正当で、怪しまれない。成果も最大限保障するでしょう。しかし、それまでは? 計画を遂行できるまでの五、六年でアメリカが攻めてこないとも限らない。しかし、ロシア人を馬鹿正直に潜入させることもできない。そこで彼が選ばれた。日本人でありながら、アメリカの血をも引き、どちらの国からも忌むべき者とされてきた彼が」

「しかし、ソ連抑留は過酷なものだ。そこで死んだとは考えられないのか?」

 思わず食って掛かった男に、ヨンスクがゆっくりと背を向けた。

「それは我々も考えました。手に入れたカードが偽物では、意味がありませんもの。そして、彼の語らない過去を調べてみた。ソ連抑留中の過去をね。彼は、諜報員として日本に潜入していながら、表立っては何の変哲もない抑留者として生活していました。周りにいた大人は薄々感づいているようでしたが、日本に潜む以外は、収容所に帰ってきて、普段と変わらぬ重労働に従事していた。そして、彼の生活にも変化が出来た。妹が出来たのです。十五も歳の離れた妹が。父親は分かりません。しかし彼は、この小さな存在を親以上に愛しんだ。自分が得られなかったものを全て与えていた」

 だが、それはあまりに唐突だった。その身を犠牲にしてまで愛しみ、守ってくれた母が死んだのだ。宿谷マユ。意志が強く、女性として自立した美しい女が。

「そしてその直後、《彼》は姿を消した。公式発表では死んでいるのです」

 一瞬、ほっと男がため息をつく気配がする。しかし、と女は見えぬように笑った。あなたの地獄はこれからだ――。

「不思議なことに、その地獄の中で、彼の妹は生きていました。極寒の、食料を得ることも難しい大地で、僅か五つの幼子に、何が出来たと? 確かにラーゲリの中では皆が助け合って生きています。それでも、人一人を生かすことは容易ではないはずだ。しかも、彼女は母の死後、居住地を与えられていた。五つの子がですよ? そしてその生活は、彼女が我が国に亡命してくる七歳までの二年間続いていた……」

 靴音を高らかと響かせ、踵を返したヨンスクが、闇に塗り固められた顔を男に向けなおした。至って落ち着いた、冷ややかな声で喉を震わせる。

「亡霊がいるのですよ。祖国から見捨てられ、二つの祖国を怨みながら死んでいった亡霊がね。彼は、亡霊として、この世に存在しないものとして己のいとし子を育て、わが国に連れてきた。そして言ったのです『自分は、日本、アメリカ、さらにはソヴィエトの技術と深部に通じる情報まで手に入れた生きた外交カードだ。俺と、この子の安全を保障するのなら、俺はお前たちの国に対して力を貸そう』」

「鷹津正臣はお知りでしょう?」

強い光が、室内をくっきりと二色に塗り分けている。豪奢な調度品も同様に、神々しく輝くものもあれば、仄暗く闇に舐めとられたものもある。彼らはその深い闇へと足を踏み入れ、抜け出せないでいた。

 男の脳裏に、一人の男の面影が浮かんでいた。タカツ……日本外務省の人間だったか……。開かれた祝賀パーティで会ったのが初めてだ。シャンデリアを模した電灯の下で、彼の上司が、アメリカ上層部として招待を受けていた私に紹介したのだ。驚くことに彼は、通訳もつけずに話しかけてきた。

差し出された手も、その上にある表情も他意のない清々しいものだった。日本人にしておくのももったいないほど崇高な倫理と、身のこなし、堪能な語学力、それに加えて優れた外見を有していた彼は、すぐさまアメリカ側の好感を得、時代の深部へと踏み込むことを許されたのだ。事実、私も彼に絶対の信頼を置いていた。

丁度ソ連とのスパイ合戦が激化していた時期である。私は、捉えられたスパイの末路としての、軍部の所業も彼に見せていた。巨大な竈――もちろんこれは、暗部で暗躍する罪人を焼くためのものだ――の前で、彼は青ざめた顔に、無理やり笑顔を張り付かせていた。焼かれ、断末魔の悲鳴と共に焦げ付いたタンパク質の臭いはもはや落ちず、澱んだ空気の中に時折炎が爆ぜる。茜色に映える炎に照らし出され、彼の顔色は普段と変わらないように見えたが、その動揺は表に出さずとも相当なものだったのだろう。なにせ彼は、その時まで余裕を崩すことなく、本心の欠片すら隠し通す術を持っていたのだから。

日本人も、敗戦国の劣った人間というだけではない。私に、いや彼に接した全ての人間たちに、そう思わせた男だ。それがまさか……。

「外務省のタカツ・マサオミ。王手工商勤務のハルオカ・マサシ。沖縄に設置された米軍施設で事務を取り仕切っていたヒサトミ・ユウキ。この日本を代表する人事についていた三人に、ソ連所属の諜報員アレクセイを加えた四人が、今のところ、我々の知りえる彼の経歴です。事実、我が国に亡命後も、韓国戦線で功績を挙げています。最近になって、中国、モンゴルでも名を持ち、行動していた痕跡があるという報告も上がってきています。まあ、この辺りはまだ確証を持っているわけではありませんがね」

 ふふん、と鼻で笑ったヨンスクが、俯き微動だにしない男を見下ろした。

「そして、これが、あなたの残した遺産……『宿谷聖』が、祖国となるべき二つの国家へと仕掛けたテロリズムです」

『亡命テロリスト……』朝鮮語で、スンファンが呟く。

――亡命テロリスト。祖国に仇なす、混血児の名だ。小刻みに肩を振るわせ始めた男の肩に、ヨンスクはそっと手を置いた。

「あなたの戦争は、まだ終わっていないのですよ」