早朝の空気は、生暖かくべっとりと肌に滲みた。

 藤本直哉は、上機嫌に紡いでいた鼻歌をやめ、すわり心地がいいとはいえない助手席に体を沈みこませた。何が好きで、こんな朝早くから面倒なことをやらなきゃならないんだ。鼻歌でも歌っていなければ、気分は全て憂鬱の泥に飲み込まれていく。

 日の出は、ほんの数分前だ。人目につきにくい時間帯とはいえ、国道には、車一台通りはしない。予算使い切るために作られたらしいこの道は、大きいわりに交通量は少なかった。一部の活動家が暴徒と化す危険があるため、護送は極秘を徹底され、早朝、人通りの殆どない道を使うことになったのだ。

背後についてくる覆面パトカーの列をサイドミラーに映し、ふんと鼻で笑う。彼は、この研修さえ終えれば、県警へと引き立てられるエリート中のエリートだった。

 何が好きでこんなことを。数字をちょーっとごまかしたくらいで、こんなトコに送りやがって。

 警視庁どころか、警察庁、ひいては各省庁へと優秀な人材を輩出してきた彼の一族にとっては、地方公務員というものは単なる足がかりでしかなく、中でも所轄など、見向きもしない存在なのだ。隣でハンドルを握る男は、相変わらずの仏頂面で、目の前にいる未来の上司様に、目を向けようともしない。まったく、とんでもないところに飛ばされたと思う。何より、コイツは初めから気に食わなかったのだ。確か名は……。

「ねー、わんこさーん。朝飯まだあー?」

 背後から上がった不平不満に、思わず振り返り、引きつった笑顔を向けてやった。

――このクソガキ……っ!

視線の先には、両手首を拘束された――あくまでも、暴れないよう予防のためだ――すらりと細い女が、暇そうに足を動かしていた。

 横に控える警察官たちは、彼女の暴言と、隠しきれない藤本の苛立ちにどうすることも出来ず、視線を泳がせている。上の人間が、将来組織を動かす一端となるであろう僕のために、この護送を任せてくれたことも知っている。しかし何より、この女。態度が気に食わないのだ。

 彼の家は、古くからの名家で、今でも男は強く、女は一歩下がってがまかり通っている。それをこの女……一歩引くどころか、初めからため口を利き――これは、彼女が出会った全員に対して行っていたことなのだが、いろいろな意味で育ちのいい彼にとっては、屈辱に他ならなかった――警視庁のエリートとして存在している僕に向かって、あろうことか『警察のわんこさん』と言いやがったのだ。

「だって、日本って腐ってるじゃない。そんな腐った救いようのない社会で、はいはい上の人に尻尾振って、秩序守ってるみたいに驕ってるなんてさ。結局、きみたちは国家にいいように使われてるだけの犬みたいなものなんだよ。ね? そう思わない、公僕さん」

 今思い出しても腹が立つ。コイツ、あんな国で生まれた人間の癖に、この僕になんと言う暴言を。

恐らくあの時、目の前の女を鉄格子から引っ張り出すとき、隣でハンドルを握る男が止めなければ、きっと藤本は食って掛かっていただろう。初対面にして、印象最悪。

 しかし、この隣の男は、憤然と藤本と鉄格子の間に立ちふさがり、ただ冷ややかにこう言ったのだ。

「お迎えだ」

 目元は、陰がかかって見えなかった。

「ねえ、僕の兎知らないー? うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ」

「ああ、もう五月蝿い!」

 女の声で急に現実に戻され、藤本は怒鳴った。

「お前の持ち物だったら、全て没収している! 返ってくることはないな!」

 へっ、ざまあみろ。不服そうに頬を膨らませた女に、若干の優越感が芽生える。そうだ、僕は栄えある日本警察の、しかもエリートだぞ。将来を約束された人間なんだ。お前たちみたいな本質的に劣った人間など、相手にしている余裕は……。

 きっ、とゴムが軋むような音を立て、車が止まった。訝しげに運転席を見やると、今まで表情を崩さなかった男が、皴一つない制服の下で、一つ大きく深呼吸をした。

そうか、コイツも疲れているものな。末端とはいえ、現場で動く者のことも、少しは省みてやらねば。ふと藤本の表情に卑屈に似た笑みが零れる。そうだ、少しの休憩くらい許してやろう。なんと言っても、僕は余裕のある男。現場に這い蹲って泥を食ってるような人間じゃないんだから。

早朝の護送。背後のパトランプも少しずつ近付いてはいるが、距離を取っていたため、こちらの状況には気づかない。

まあ、いざとなればコイツの不祥事ってことで、上に報告すればいいか、とのんびりと構える。

目の前の男の顔は、白いというより青白かった。

 酔いでもしたのか?

 この男に三度劣等の格を貼り付けようとしたとき、突如として男は車のキーを抜いてしまった。エンジンがぷすんと音を立てて止まる。

まさか、そんな悠長に構えている余裕はないぞ。うしろには後続もいるんだ。そんなに具合が悪いのか……?

「おい、どうした。先を急がないと……」

男は藤本の心配をよそにシートに身を沈みこませると、驚くほどのスローモーションで懐から潰れかけた煙草の箱を取り出した。一本を取り出し、淡い橙の火をつけると、ゆっくりとくゆらせる。

胸の奥底に滲んできた苦汁を感じ、藤本が何か文句でも言ってやろうと口を開きかける。しかしそれは果たせず、飲み込まれることとなった。

「馬鹿かお前は」

男は、傲慢な動きで後部座席を振り返ると、ため息混じりに女と目を合わせた。

「もう無くすなよ」

 車のキーを差し出すと、麻の紐でつながれた先で、木彫りの古びた兎が微かに揺れた。なんどもニスが塗りこまれたのか、美しい飴色をしている。

女の顔が、パッと華やいだ。

「ちょ……ちょっとまて、何を考えているんだ。証拠物品を返すわけには……いや、それ以前に、何故それがここに……。その先には車の鍵もついている。どういうことだかわかっているのか?」

「どういうこと?」男は笑った。

「もう金輪際、この車は走ることもないだろうに、そんな心配無用でしょう。ああそうだ。その責任はあなたが取ってくださるんでしたな」

 陰に覆われた男の目元で、青白い眼球が爛々と輝いた。口元は、自嘲的に歪んでいる。吐き出された言葉の真意を測りかねていると、藤本の背後からごきっという鈍い音と、人間が息を詰めた声が渾然一体となって届いてきた。

振り返ろうとシートに手をかける。しかし、耳元で鳴った微かな金属音が恐怖へと変わり、首筋を舐め上げるのを意識せざるをえなかった。

 

「はあ? 先行車が止まってる? そんなの、とりあえず様子見だ。少し離れたところに止まってろ」

 手にした無線に熊が怒鳴る。

――止まってるだって? 真一は不審に思い、窓を開けると吹き込んできた風の波間から身を乗り出した。

「確かに止まってますよ。何でしょう。何かあったかな?」

 隣に座っていた狐塚は「どうせ、エンストだろ」と欠伸を噛み殺している。ううむ……唸った熊が、車を脇に寄せ、助手席に無雑作に放り込んでいた上着を掴み上げた。

「行ってみるぞ。何かあったのかもしれん。狐塚の言うとおりエンストなら、人手もいるだろうしな」

 重い扉を開け、真新しいコンクリートへと降り立ったとき、その場にどよめきが走った。先行車から煙が噴出し始めたのだ。車体と地面の僅かな隙間から、真っ白な煙がもうもうと上がり始める。

「火災……っ?」

 走り出しかけた真一の肩を、熊が押し留める。もっとよく見てみろとばかりに顎で示された先には、車体の下から転がり出てくる発炎筒の姿があった。煙はなおも噴出し続け、辺りを白く濁った色で染め上げていく。得体の知れない沈黙の中、容疑者を乗せた車両は不気味なくらい静かに存在していた。

 沈黙を守っていた扉が、ぎしっと音を立てて開けられる。後部座席方向だ。すらりとした足が地面に落ち、一、二度コンクリートの感触を確かめるように踏みしめた後、その人物は億劫そうに足へと体重をかけた。

その姿が、白日の下、晒される。予想し得なかった事態に、その場に居合わせた一同の脳は、白煙灯に侵されたように真っ白になった。

「まったく、あぁきつかった。何が好きで、こんな狭いところに閉じ込められてなきゃならないんだか。兄貴のせいだからね、おかげでどれだけ冷や飯食わなきゃならなかったか」

 短くそろえた髪を白煙混ざる早朝の風に弄ばれながら、ヒャンミは口を尖らせ、自らの手錠を弄り回す。ものの数分しないうちにその薄灰色は目的を失い、彼女の細い手首から滑り落ちた。かしゃん、と軽い金属音があたりに響き渡る。

 その声に「悪い悪い」と応じながら、もう一人の人物が運転席のドアを押し開き、混沌の最中へと降り立った。すらりと高い背に、程よく肉付きのいい体は、今は警察の制服で包まれている。

「入り込むのに若干時間がかかったんだよ。さすがの俺でも、昔のようにはいかんさ」

 彼の足元で白煙は滞る事無く噴出し続けている。彼は驚き固まった警察陣を気にすることもなく、部下であるヒャンミへと向き直り、「無事か」と呟いた。

「当たり前じゃないか。僕は兄貴の妹だよ。情報も出してないし、五体一つも欠けてない。日本の警察が甘いって、本当だったね」

 男は、億劫そうに凝った首を鳴らし、血まみれの拳銃を握りなおす。

「故郷はどうだった。日本はお前の故郷だろう?」

 呆れたとも取れる男の声に、ヒャンミが遠くを見つめ考えをめぐらす。

「面白くなかった。兄貴が言ってた通り、みんなみぃんな腐ってる。平和すぎて、自分以外が人間だって事を忘れてるんだ。こんな国が、僕と同じだなって思いたくもないよ。まあ、それなりに暇つぶしにはなったけどさ」

 男の手に握られた拳銃を見つめ、誰もが身動きさえ忘れていた。

 はっと自我を取り戻し懐から銃を持ち出すと、安全装置を解除させた警官たちに応じて、男はすばやい動きで手にしていた布の束を手繰り寄せた。

「動くなっ!」

 笑みと共に叫んだ男の手には、抵抗空しく車外に引きずりだされた怯えた小男の姿。突如降って湧いた恐怖に引きつったこめかみには、男の握るトカレフ自動拳銃の、空虚にすら見える銃口が突きつけられていた。

恐怖のあまり抵抗すら忘れているのか、「ひぃっ!」と一度叫んだだけで、あとは己に向けられた赤黒い銃口を凝視し続けている。眼は血走り、飛び出んばかりに見開かれ、身に着けた背広には、誰のものだろうかあまりに鮮やかな血が方々に散っていた。

 バリケードのように距離を置いて展開する警察官たちが、ぐっと息を呑む気配がする。その只中、自分が乗ってきた車の側に立ちすくみながら、真一の脳は混乱を飛び越え、半ば空白と化していた。

 黄色人種にしては白めの肌、足は長く、動きは洗練され無駄がない。そして何より、きりっとした瞳の奥に、得体の知れない冷淡さが込められていた。

「宿谷……聖……」

 我知らず口から滑り出た言葉に驚愕する。反対側から駆け寄ってきた狐塚が、まさかと怒鳴るのが辛うじて耳に届いた。

いや、確かに彼だ。写真と同じ。さすがに十代前半のものとはちがい年月を経ているが、しかしあの特徴的な面影を色濃く残している。宿谷聖は満州で生まれ、誰にも手助けされずに母の手のみで育った。事情は分からないが、ただそれだけの要因があったのだろう。そして終戦。なだれ込んできたソヴィエト兵に連れられ、満州からソヴィエトに抑留され、そして……。

 頭の中で、信じていた仮説が打ち砕かれ、失われていた最大のピースが音を立ててはめ込まれる。

 思わずたじろいた一同に、男の鋭い視線が走る。

 辻褄はあった。背後を振り返ろうとすると、それまで沈黙を保っていた熊が、日ごろ見せぬ俊敏さで輪の内側へと飛び込もうとした。

忌々しげに目を細めた聖が、人質に突きつけた拳銃に力を込める。柔らかい髪にめり込んだ銃口を凝視して、さらに目を瞠った人質の口元から、耐え切れなくなったのか唾液が零れ落ちた。

 咄嗟に止めに入った警察官に押さえ込まれ、それでも熊は野太い声を張り上げた。

「鷹津さん! 鷹津正臣さんではありませんか!」

 その口から、全く知らない名が吐き出される。

熊の脳裏に、昔見た光景が鮮やかに浮かび上がってきた。きれいに飾り付けられた会場に、大勢の着飾った客人たち。各国の、肌も目の色も、身長さえ違う様々な人間たちの中で、彼だけがあくまで空気に徹する熊の存在に気づいたのだ。

優雅でそつのない動きで、ウエイターが配るシャンパンを手に取ると、壁際に立つ熊へと歩み寄り、柔和な笑みを浮かべ差し出したのだ。

――少しは息抜きなさいませんか?

 要人が集まる会食を警護するため借り出された、警察内部の末端の自分へと。

 鷹津正臣。二十代の、外務省の人間だった。

 しかし今、目の前、幾ばくかの距離を置いて存在する男は、確かに彼の顔をしていながら、まったく相容れない雰囲気を有している。

それでも尚、押さえつける無数の腕を跳ね除けようと、熊はもがいた。

その所業に一瞬目を瞠った聖が、一瞬考える間を作ると、へらと口元を歪める。

「ああ、ソヴィエトにいたときの偽名か。懐かしいなあ。完全に死んだことにしたし、まさか覚えているやつもいないと思っていたが」

くっと喉元を締め上げられたような衝撃。

拘束され赤くなってしまった手首を擦っていたヒャンミが、ただの一人だけ、無邪気な目を警察人に向けてきた。

「わあお、兄貴見て見て、ニュー南部! 十八世紀の遺産だよ? 日本の警察って、あんな古代化石みたいな代物、本当に使ってるんだあ!」

 まるで遊園地に連れてこられた子供のようなはしゃぎようだ。その声に、呆れたような男のため息が混ざる。

「千歳……。トランクに銃を入れている。さっさと取れ」

 千歳。それが彼女本来の名なのだろう。千歳は無邪気に警察官たちが構える銃を指していた指を下ろし、トランクへと向かった。懐から取り出した鍵には、幾つかの形の違う鍵が付けられ、その尻で兎が楽しそうに揺れていた。

ゴトンと音を立て、トランクから大きな黒光りするケースを取り出す。楽器を収納するような大きな蓋を開け、組み立て式の銃身を取り出した千歳は、迷う事無く組み立てていった。沢山の予備弾薬は、服の上から身に着けた防弾チョッキのポケットに突っ込む。

 重い銃身を抱え上げ、「うん、上出来!」と誰に言うでもなく呟くと、ぽっかりと開いた銃口を、立ち並ぶ警官の輪へと改めて向けた。装弾数十発、抱え込むように構えなければならない千二二五ミリの身と四キロ弱の重量をもつ、ドラグノフ狙撃銃のアンバランスな姿だった。有効射程六〇〇メートル。元々、市街戦のため設計された銃だ。銃弾は予備を含めても数十を超え、十分警察陣を打ち負かせるだろう。

がちゃり、弾が装填される。

「千歳、出来る限りは撃つなよ。こんなところで面倒ごとを起したくない。だが、奴らが一発でも撃ってきたら……」

 残酷な光を宿す瞳が一同を見回し、彼のいとし子の前で止まった。

「一撃でしとめろ」

「オッケー。なあに、ニュー南部なんかには負けないよ。僕はニッポンジンと違って、生きた人間撃ち慣れてるし、なによりこの《耳》があるからね」

 スライドを引き、鈍い音を立てた銃口が、立ち並ぶ警官たちを舐めるように見つめた。

ぞくりと総毛立つ。真一はドラグノフなどという耳慣れない名は知らない。しかし、彼女が手にする、極端に肉をそぎ落とした一見玩具のように無骨な《型》には見覚えがあった。以前、日本へ大量に流れ込んできた、文字通り金儲けのためだけに即興で作られたらしい中国の使っていた《型》、八十五式狙撃銃と同じだ。何度か発砲事件も起きている。

だが、今回、たじろぐ大多数に向けられたのは、粗悪なまがい品ではない。しかも、それを手にしているのは、一線を越えたとはいえ平和な国に籍を置く暴力団とは違う。純粋な『ニッポンジン』でありながら、極限まで戦うことを知ったプロだ。日本人の血を引き、日本語を巧みに使いこなし、なんら日本人と変わりない姿を持つ彼らが……同じ日本人に銃を向けている。それも、何の躊躇いもなく。

 警察官へと目を転ずると、重く黒光りする銃身を握る手は、恐怖で小刻みに震えていた。

――君も、置いてきちゃったんだね。太平洋戦争で……。

 目の前の少女は言った。確かにあの言葉を口走ったとき、彼女は少女だった。犠牲者でありながら、平然とそれを飲み下すことの出来る、本能を否定した特殊な人間。

それに比べて、こちらはどうだ。皆本物の人間など撃ったことすらない。良心が勝りすぎる。そうだ、もし先制攻撃できるとしても、この人数を利として打って出ても、きっと我々は負ける。それが平和ボケしてるといわれようと、アメリカの庇護の下、偽りの平和に準じてきた《日本人》の限界だ。

加えて彼女は言った。ニュー南部。五発しか弾丸を装填できない、旧式のリボルバー式拳銃。いくら数で勝っていると言っても、相手が持つのは狙撃銃ドラグノフと、トカレフ自動拳銃。防弾チョッキさえ軽く貫通する威力を秘めた自動拳銃の鈍い輝きを瞳に映し、真一は身震いした。隠し持っていると思われる数え切れない銃火器を合わせたら、簡単に一掃されてしまうだろう。

戦力差は明らかだ。負ける。ゆるぎない事実だ。僕は、僕たちは『負ける』……っ!

 太平洋戦争から置いていかれ、語ることも許されなかった第二世代で、俺たちは向き合っていた。人間であって、人間でなくなった。強制労働によって連れてこられた朝鮮人の血を引く僕と、戦前では優勢な日本人という地位でありながら、後の世から見捨てられた彼らが。

向き合ったものは、人間を超えた得体の知れない何かだ。自分の中、どろどろと渦巻く目をそらしたいものすらも問答無用で引きずり出し、絶対的な恐怖を与える。

彼らは見捨てられた。銃を手にし、血で血を洗わんと祖国に牙を剥いた。きっと彼らは一生忘れることはないだろう。己が受けた仕打ちを。己の親の世代が行った仕打ちに対する排斥を。戦後の日本人は、地位がそれだけ低かったのだ。そして彼らは受け入れられない。それがかつて道を分かった故郷であっても。

 僕と同じだ。そう思った。どちらでもありながら、どちらからも受け入れられることがない。それが運命と割り切ることすら出来やしない。

「何故……こんなことを……」

 耐え切れず問うと、聖がにやと口角を上げた。

「生きたいと願うことに資格が必要なのか?」

 皮靴がコンクリートを叩く。悠然と足を踏み出した彼の手の中で、卑屈な男が喚く。

「憲法第三章第二十五条。全ての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する――お前たちのルールだ」

 さも鬱陶しそうに眼下の目を一瞥すると、人質は蛇に睨まれたように固まった。

「だが、これには馬鹿馬鹿しい暗黙の制限が存在する。一つに、日本国という愚かしい集団に属していること。一つ、ある種、部族、血統の純血であること。前者は確かに文面にも記されているし、後者は否定しつつも脈々と続いている愚行だ。見てみろ、皆平等だの権利だのと称しては自己を守ることにしか目を向けず、制限のいずれかに当てはまるものを公然と侮蔑する。だったらなんだ? 日本人の血を引いていなければ人として扱われないのか。それとも、純血でなければ民族の一員として受け入れないのか。国籍を持たぬものは、生きる権利すら与えられていないのか。

 俺は、この状況をこそ、馬鹿馬鹿しいと思う。生きたいと願うことすら疎まれる我々が、遺伝子単位でインプットされた《生きる》という欲望を追求する上で、のうのうと何の努力もせずにふんぞり返って、ただ闇雲に《生きる》という時間を消費している人間たちが不利益を被ったからと内々に殺される。その状況が馬鹿馬鹿しい。我々は、“生きたい”だけだ。太古から種をつなぐ手段の一つとして本能に植えつけられた、生きるといういたってシンプルな指令を遂行する」

 聖が、痛々しく笑った。その姿はまるで、今まで無視し続けてきた真一の根底、何かに語りかけているようだった。

――ソウダ。オレハタタカウ。下劣ナ日本人ト、己ノ中、滾々ト流レ止ムコトノナイ血ノ呪縛ト――

「そう、生きたいと願うのに、善悪など存在しない」

一瞬にして理解した。ノ・テウォンは彼だ。彼であり、彼が内包する世界の影だ。

「公僕さん、せっかくだから最後にいいこと教えてあげる。僕は、君たちが二つ間違いを犯したって言ったよね。君たちのもう一つのミス、それは、ノ・テウォンが一人だと思い込んだことだよ」クツクツと笑って、千歳は少女のような無邪気さを滲ませた。

彼女であり彼。彼の名は、彼自身の一部である彼女にも当てはまる。だから、彼女は間違いなくノ・テウォンなのだ。嘘ではなかった。心の奥底に、己の引きつった声が木霊した。彼女は言ったじゃないか。自分が、ノ・テウォンだと。

聖が目を細める。それだけ、大きなレッテルになってしまったのだ。初めは自分だけに与えられた偽名であったその響きも、いつしかその手として働く千歳をも指し示すようになり、いくらも経たぬうちに彼が動かす一大部隊の活動に張られる称号になった。まあ、今回はそのおかげで目をくらますことが出来たわけだが。

「さあ、どうする日本人。お前たちが万に一つでも俺を殺せたとしても、一人歩きを始めたこの名は延々と受け継がれ、お前たちの首を絞め続けるぞ」

己の味方すら見極めることの出来ない、社会から捨てられた人間が一人、二人。

「タイムリミットだな」

 おどろおどろしく銃を構えていた千歳がじりっと足の位置をずらし、首からかけたストラップが金属音を立てる。それを合図に聖は銃を持ちかえ、再度しっかりと人質に突きつけると、胸元へと手を入れた。

懐に忍ばせていた物を掴むと、勢いに任せ思い切り投げ上げる。

 晴れ渡った空を駆けは登り始めた朝日を背に、小振りなそれはキラリと光る。二つの、棒と球。

 その正体に思い当たった警官の一人が、青ざめた顔を仲間へと向けなおした。

「手榴弾だ! 逃げろ!」

 声に弾かれたように、蜘蛛の子を散らしたような図が広がった。力の限りで切る限り遠くへ、出来る限り安全なところへ逃げる一同を目に、しかし渦中にいる聖と千歳は動じなかった。千歳が、頭に取り付けたゴーグルのようなものを装着する。それと同時、耳に耳あてのようなものを取り付け、聖は己も一呼吸送れてその動作を行った。

聖は、笑っていた。不気味な笑いを崩すことはない。それが彼の通ってきた道であり、身に残した全てだ。

 それだけを見届け、真一は自らが乗ってきたパトカーへと引きずり込まれた。狐塚。目の前、必死の形相で手を引く男が、何か言おうと口を開く。しかし、次の瞬間、その全ては幻と化していた。かっと劈くような光が瞬いたと思ったとき、鼓膜を突き破るような不快な音と、硝煙の臭いが真一の五感を奪いつくしていた。