鷲見さんという老人の家は、遠く町から外れた山の中に存在した。何度も電車を乗り換え、古ぼけてペンキのはげかかった建物に着いたのは、ほぼ丸一日を要した夕方のことだ。狐塚は相変わらず皺の寄ったスーツを着崩し、ネクタイを巻きつけた右手で持った団扇を忙しなく動かしている。じわじわと忍び寄る虫の声が急に大きくなり、鼓膜が痛む。「あーもう、何でこんなことしてんのかなぁ」自ら書き直した走り書きの住所に目を落とし、狐塚が呆れたように呟いた。

 小ぢんまりとした駅から足を踏み出すと、周りは一面の田んぼと畑。果てには見える限りの山々が、空の青と溶け合って輝いていた。舗装されている道路も年をへているらしく、所々ぼこぼこと波打っては二人の足を取った。

「なあ」疲れのせいか、狐塚の声も何となく重い。

「ここ、本当に日本か?」

いや、むしろ現代なのだろうか?

 見渡す限り、古来日本の風景を内包したこの場所は、焦土と化した後、父母の手によって犇くように立てられた下町の風景を見知っている彼らにとって、ここまで果てしなく見通せる風景はなかなか触れることが無い。なにより、家と家の間が五十メートルも開いているのではないかと目を瞠る。これは、近所づきあい大変だろう。おそらく、ここ数十年で変わったことといえば、狭い通路の一角がコンクリート舗装されたくらいか。先の戦争以前からの空気を保っているのだろう世界は、政情すら置き忘れ、何事も無く平和だった。

 足元の萎びたコンクリートさえつきると、むき出しの地面へと変わる。両側を田畑とそれに続く堀で囲まれているせいか、時折潰され干からびたミミズや蛙の死骸がのっぺりと土に張り付いている。遠くに、中学生と見える小柄なジャージ姿の少年が、坊主頭に真っ白なタオルを巻いてトラクターを転がしていた。

「あれ、捕まえなくていいんかあ……? 道路交通法いはーん」停止した思考の中、狐塚がぼうっと目の焦点を合わせていた。

「いいんじゃない? 地元の同業さんが捕まえないんだから……」

 聞いた方も聞いた方なら、答える真一も気のない声。都会生まれ、もやしっ子のへなちょこ脳細胞は、果てしなく焼き付けられる苦痛に音を上げたのか、もうすでに苦痛を苦痛とすら感じなくなっている。否応なしに滴る汗を拭うのも忘れ、時折白く霞む視界を叱咤激励しながら、ただひたすら義務のように歩き続けていた。

 鷲見老人の家は、すぐさま見つかった。なにより、隣接する家自体が少ないのだ。まるで掘っ立て小屋のようなその風体を見つめるも、考えることをやめた脳はどんな感慨も紡ぐことはない。通りかかったあのトラクターの少年に確認をし、いささか傾いた引き戸を叩く。

 一つ、二つ。

「すみませーん。鷲見源蔵さんはいらっしゃいますかあ」

 薄い扉をいいことに、狐塚が叫ぶ。そんなに広くは無いのだろう室内から「はあい」と掠れ、干からびた声が応じ、軋んだ扉が重々しく開かれた。

「どなたですかいねえ」

 出てきたのは、小柄な老人だった。長く白いひげはクルクルと好き勝手にはね、二人から見える頭頂部は、若干薄くなっている。すぐには反応できなかった二人が、はっと思い出したように顔を見合わせた。だめだ。脳が音を上げている。

「あ、警察のものです。お話を窺いたく、お尋ねしました」

「そうですか」と小さく呟いた老人の声は、僅かな風にかき消されそうなほど小さく、か細い。これが本来の喋り方なのだろう、老人は二人をゆっくりと見比べると、「どうぞ、お入りなさい」と自分も静かに踵を返した。

縁側にかけられた風鈴が、ちりんと小さく鳴る。その音を耳にしながら、ようやっと日陰に転がり込んだ二人は、老人の小さな背に先導され、これまた小ぢんまりとした今に通された。老人の一人暮らしにはうってつけなのだろう。部屋の隅には、手作り感溢れる仏壇と、小さな遺影が飾られていた。婦人は、亡くなっているのか。

「で、なんの御用ですかねえ」

 丸いガラス製のコップに麦茶を注いで、二人の前に出した。辛うじて聞き取った真一が、懐から一枚の写真を取り出すと、老人の前に差し出した。くすんだセピア色は、あの後、田中婦人から借り受けたものだ。

「この人を知りませんか?」

 一瞬の巡礼の後、老人は「ああ」と呟く。

「宿谷マユさんですなあ、隣のは、すこしおおきゅうなっとるが、聖くんや」

「彼らを探しているんです。戸籍を当たりましたが、どうにも見つからなくって……。せめて、何処に住んでいるかだけでいいんです。分かりませんかね?」

 老人はうんうん、と神妙に頷くと、ゆったりとした動作で自分の目の前に置いた麦茶を口に運ぶ。

「わしにも分かりかねますなあ。あの時は、酷く混乱しちょりましたから……」

 酷く落胆した真一が、「そうですか……」と額の汗を拭った。

「父親の存在も分かりませんか?」狐塚が言う。

 一瞬痰を詰まらせたようにピクリと身を震わせた老人が、躊躇いがちに否定した。

「存じませんな……。なにせ、宿谷さんは一人で満州にきなさった。その時には、もう身重だったしのう」

「では、一人で育てられたのですか?」

「そうじゃ。一人で生んで、一人で育てなさった。いいとこのお嬢さんだったのか、学は相当積んでおられて。職員なんかよりよっぽど役に立つ言うて、役場にもよう来てもろうた。普段は確か、幾つかの大使館で通訳してたんじゃなかったかな。聖くんも、十二でおんなじように働き始めた言ってたから、きっと宿谷さんの教育がよかったんですなあ」

 輝かしい時代を眺め見るように目を細める。目じりの皴が、深くなった。

「でも、きっと死んでますな」

 突如として冷ややかな声を出した老人に、驚いた二人が目を瞠る。

「あの人たちは、捕まればすぐ殺される立場の人たちじゃった。ただでさえ北から乗り込んでこられて、地獄絵図だったから、きっと生き残ってはいないでしょう」

「しかし、彼は東京で店を開いています」

 少しばかり目を見開いた老人が、怯えるように視線を泳がせる。まるで、死んでいるほうがいいと考えているような素振りだ。

「売られたんでしょう……あん戦争の後は、死んだものの戸籍を黙って売る商売がまかり通っておりましたから……」

 真一は、隣に座る狐塚へと目を移す。彼も同じことを考えていたらしい。若干の違和感は残るが、どうやら『宿谷聖』は重要な手がかりのようだ。過去の、ではなく、現在この世に存在する宿谷聖が。ちりんっと軽い風鈴の音が、無音となった室内に大きく響き渡る。開け放たれた窓から、虫の騒がしい声が迫っていた。

 

 熊は、二人を前にして唸った。やはりな……そんな雰囲気が、まざまざとあった。

「とりあえず、満州以降の行動を追ってみよう。そうすれば、何か尻尾が掴めるやもしれん」

 片目だけを重く開き、組んだ腕を解く事無く言った。これが彼なりの叱咤激励なのである。丁重に頭を下げ、自らのデスクに戻ると、鳴り止まない電話に負われる同僚の視線が痛かった。急に動いたと思ったら、こっちまで巻き込みやがって。これなら、まだ何もしてくれなかった方がよかったよ。

 意に解さない狐塚は、手元の書類へと鼻歌交じりに手を伸ばす。その図太い精神をいささか分けてくれないだろうか……と内心愚痴を零しながら、しかし仲間の視線に耐えられず、左隣、加賀のデスクで怒鳴り始めた電話を強引に取った。応答を吹き込む前に、そわそわと落ち着き無い女の声が、電話口から割り込んできた。

「料亭事件の捜査本部って、この番号でいいのでしょうか?」三十過ぎと思われるその声は、一秒でも時が惜しいとばかりに捲くし立てる。このときには既に、料亭の事故は完全な『事件』として認知され、反対に提供される情報はつきかけていた。

「宿谷聖君のことなんですけど……わたし、昔満州にいて、小さい頃よく遊んでくれたお兄さんがいたんです。それが聖お兄さんという名前で……もしかしたらって思って……」

 怯えているような声は、懐かしい名を聞いたせいだろうか。「あの……聖ちゃんは、生きているんでしょうか?」と続いた声に、取り繕った。「はい、その可能性が高いと思われます。親戚の方を探しているんです」

「満州から帰ってからのことは、なにかお知りになりませんか?」

 電話口の人物は、考えるような間を持って、そっと口を開く気配がした。

「わたしもよく知らないんです。ごめんなさい。初め、わたしたちの家族と一緒にいたはずなのに、いつの間にかいなくなってて……。母には、『二人とも軍人さんに連れて行かれた』って言われたんですけど、今になってよく考えたらその時、帝国軍人さんはそんな権限もうなかったんですよね。それで、最近……本当に最近になって、満州の……あの、昔満州に住んでた人たちの会っていうのがあるんですけど、そこで樺太で暮らしてた方を紹介してもらったんです。その方は、役場に勤めてた方なんですけど、抑留されていたソ連のラーゲリ……あっちの監房ですね……そこで、聖ちゃんを見たのだそうです」

 走らせていたペンが止まった。ソ連。抑留……?

「でも、ソ連抑留者って、五人に一人だったか三人に一人だったかは、死んでしまうような過酷な場所だそうで、諦めてたんです。その方も酷い病気を患って今も薬が手放せない常態で、少なくともあの状況で体を壊すのは間違いないって……」

 死んだ? 確率は高い。少なくとも、あの鷲見という老人の話よりは、格段に跳ね上がったわけだ。

「ソ連からの帰還者名簿には、聖ちゃんの名前は無かったし……。協会に問い合わせてみたら、何年も前に死んでるって……」

 遠くで、幼い子供が母親を呼ぶ声。受話器が塞がれ、なだめるような音が漏れ聞こえてきた。戻ってきた女の声は、涙で所々途切れている。

「生きてるんですよね……? 聖ちゃんは、船では帰ってきてなかったけど、何とかして帰ってきたんですよね?」

 声が出なかった。それはきっと……。

 あの老人の言葉は、きっと裏付けられたのだ。そう、今生きている彼は、

 

 眩いばかりの明かりがつけられたこの場所は、うっかりすると地下であることを忘れてしまいそうになる。千聖――ヒャンミは、おもむろに紡いでいた鼻歌を歌うのをやめ、遠くへと耳を澄ます。訓練の賜物だろう。はるか遠く、足音も聞こえない距離で、人の息遣いが感じ取れた。

 背を丸め、膝を抱え込むようにベッドの一角に座り込んでいるのは、小さな頃からの癖だ。いつの間にか痺れていた足を思い切り伸ばすと、ぱきりと骨が鳴った。痛みは無い。ただ、こんな狭い場所で鬱々と時間を消化するだけで、体が鈍ってしまったとため息が出た。

 大きくなった靴音が、格子の前で止まり、おもむろに背を向け座り込む。ヒャンミは一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐさま再び鼻歌を歌いだした。この国に来て覚えた「きらきらぼし」だった。

「ヒントが尽きた」

 男が顔を俯ける。疲れきっているのか、身なりもいささかくたびれている。そうとう駆け回ったのだろう。ヒャンミにすら容易に察することが出来るほど、目の前の『日本人』は混濁の只中にあるようだった。その姿に若干の同情の念を覚えはしても、彼女はただ笑うだけだった。彼女には、似た境遇をもつ他人よりも、もっと深く硬い繋がりをもった者がいた。

くつくつと喉を鳴らしながら、何度か伸ばすように動かした膝を抱えなおす。

「ヒントは一度だけだよ。それが僕らのポリシーなんだ」

 男が疲れきった顔を上げる。目には覇気がなかった。

「じゃあ、あれだけ教えてくれ。爆弾テロを仕掛けたとき、現場に置かれていた破片は何だったんだ? 円形に放射線の」

「ああ、アレはね。太陽」

「太陽?」

「そう、太陽」そう言うと、千歳は歌うように続けた。

「太陽はね、死んじゃうんだよ。生きるために」

 そして、人を生かし続けていた《太陽》は、地獄の業火で亡霊になって、青白い火を纏わせて人々をあの世に引きずりこみながら《僕》を照らし出す。

 言葉の矛盾に気づいたのか、目の前の男が不思議そうな目を向けてきた。

「君、二世だっけ?」

 己が働いていた料亭での出会いを思い出し、目を閉じる。淡い光が蝋の外から零れ落ち、瞼を閉じていても身を休める彼の息遣いが感じ取れた。

「ああ」遠い目をして、男はネクタイを緩めた。

「何処に行っても、半島に帰れと言われる」

「そっか。じゃあ、君の戦争も終わってないんだ」

「は……?」

 真一は、脳に染み入ってきた女の声に、思わず驚いたように顔を上げる。今まで、同情と哀れみを込めて、『なんて、カワイソウ』『それは理不尽だねえ』とは言われたことがある。しかし、それは決して心からのものではない。ほんの少し、侮蔑が篭っていることがある。『自分は、そうでなくてよかった』という優越感。『自分は決してそんな蔑視はしないよ? そんな奴らとは同じではないんだ』というエゴ。本気で身に置き換えてくれるものは、声で分かるものだ。しかし、今しがた発した彼女の声はあまりにも淡白で、同情もなにも感じ取れない。むしろ、事実を述べただけといった風だ。

「君も、置いてきちゃったんだね。太平洋戦争で」

「置いてきた……?」そんなこと、初めて言われた。「何を」と口にすると、俯いていたヒャンミが虚ろな視線を上げた。

何を。俺は、あの戦争のときは、生まれてもいない。なのに、何をおいてきたと言うのか。

自問自答を繰り返していくと、次第に頭はクリアに、自暴自棄の風すら装いだす。

この状況の根源がナゼ起こったのか? むしろ、この女はナニモノナノダ?

「……人を殺すのって、どういう感じなんだ?」

「え?」不審げに、女が振り返る。

「君、北の工作員なんだろう?」

 静かに響いた声に、うぅむと考え込んだ。疑念と卑屈の中で浮かび上がったのは、真一が一番聞きたかった質問だった。平和一辺倒の日本でぬくぬくと暮らしてきた自分に、戦争の本質は分からない。殺人犯の心理すら分からないのだ。その不安を感じ取ってか、不意に瞳の陰りを揺らめかせたヒャンミは、躊躇うように口を開いた。

「……うーん、上手く説明できないけど、『狂ってるんだ』って。人を殺すか殺さないかは、複雑でも簡単に踏み越えられるボーダーラインなんだ。罪悪感を抱くかどうかはその人次第なんだけど、それを正当化するかもその人次第でさ。もし全うな人間として教育を受けてしまったのなら、後は狂うしかないんだって。理性が歯止めをかけるのなら、理性ぶっ壊してはじめて、やっと人を殺して食えるんだって」

 血の気が引いた。

「人を、食う……?」

「一緒でしょ? 人を殺すのも、人を食うのも同じさ。どっちも一般道徳で禁止ししてる。だからって、なくなるかっていったら無くならないでしょ。生きるか死ぬかの瀬戸際で死んだ人の肉食うか、戦場で殺される前に殺すかは、結局似たようなボーダーラインなんだよ」

――だからおまえは、狂うな。チトセ……――

天に向けて差し出した手に、ふと視線を止める。何かが足りない。ああそうだ、あれがないんだ。

「……兎がいないなぁ。大切なお守りだったのに」

 木彫りで、ずっとずっと大事にしてた。『彼』が僕にくれた、大切なお守り。