亡命テロリスト
生きているのか死んでいるのか、分からなくなる時がある。
《世界》が生きているのか、《自分》が死んでいるのか分からない。
《自分》が生きているのか、《世界》が死んでいるのか分からない。
もしかしたら、両方とも生きているのかもしれない。
――だって、大地は確かに足元で回っていて、自分はその上で、社会の一部として働きながら、些細で大きすぎる疑問から、自分の頬を抓っているのだから――。
もしかしたら、両方とも死んでいるのかもしれない。
――だって、大地は確かに滅びながら、何もかも諦めたように沈黙して、自分はその上で社会の一部として動きながら、生きているという実感を感じていないのだから――。
全てのものから切り離された深淵で、ゆったりと生暖かい海流の流動を感じている。
繋がりがなにもかも消えうせ、優しすぎる恐怖に震え上がっていた。
そんな時が、確かにあった。
《世界》と《自分》とが疑いもなく融合していた、そんな時代。
今では他人のように隔たったかつての自分。
経済的に自立するため、何の疑問も持たずに警察に入った。
学生運動盛んな一九六〇年代から、高度経済成長へと続く一九七〇年初頭。僕が青春という時代を浪費していたのは、ちょうどその頃だ。
若いというよりまだ幼かった僕も、下っ端といえど、とりあえず人数は増やしておけという横暴な意向で、今日はどこ、明日はあっちとそれなりに忙しかった。
血みどろになって運ばれてゆく学生運動家が、自分と同じ年齢だったなど珍しくもない。
圧倒的行動力と狂気に近い情熱を振りかざした彼らを、一足早く社会に放り出され、情熱も行動力も吸い取られた僕らが取り締まる。暴力と無力をない交ぜにして、何か違うと感じながらもそれでも間違いを正せない。
ボロボロになりながらも眼光鋭く疑いのない目をした彼らを、実直さに対する憧れと憎悪をない交ぜにして見ていたことを覚えている。少し前までは同じだったのになあ、と。
あの頃僕が気にすべきことは、明日の仕事のことと自分に降りかかる僅かな火の粉のことだけで、時折訪れる混乱に心を乱しながら、それでも大きなレッテルである平和がずっとずっと続くと思っていた。
混乱の波間が「よど号事件」「三里塚闘争」「浅間山荘事件」と経るにつれ衰退し、七〇年代に突入すると、若者の心には嵐の去った水面のように怠惰と無気力だけが寄り添うようになる。一部の過激派を除いて、ようやっと僕らにも溜息を吐く間合いが出来たとき、すでに僕も、それなりに仕事の出来る組織の一端に仕立てあがっていた。
絶望に近い唖然。そして、孤独感。多大な焦り。振り向けば、我武者羅でありながら、それでも何も残らない過去しかない。
それでも明日は来る。目覚めるのは当たり前で、社会が回るのは当たり前で、平和の狭間でほんの少し起きた非現実に足を突っ込んで、それでもやはり、自分にはどこか他人事で。
そう、信じていたのだ。あまりにも純粋に、あまりにも無責任に。
あの時はよかったと思う。
疑問なんていらなかった。時折思い出したように首をもたげる漠然とした不安も、どちらか《生きていると思われる方》へと同化してしまうことで、深い深い海溝の底へと投げ込んでしまうことが出来たから。
バッカじゃないの、と彼女が笑う。
それって、何も解決してないじゃない。
そうだね、と自分も笑う。
結論はいつも闇の中。
それでも少し、昔の自分がうらやましい。
ねえ覚えてる、と彼女が呟く。
銃に馴染んだ指が、時代を飲み込んだ紙片を折り曲げる。するりするりと、傷みに比例した重みなど、まるでないかのように。
嗚呼あれは、と思いながら、そうだねと答える。
僕らはあの日、濃い硝煙の下で這いずり回っていた。
今では白昼夢のように現実感の希薄なあの日、迷い込んだ場所で、僕は社会の底を見た。
彼女はそこで、毅然と空を睨んでいた。
世界の一員であることに疑問を持たない警察官の僕と、秩序を崩すテロリストの彼女。
昔だね、僕が言う。
ずうっとずうっと昔になるんだよ、彼女が歌う。
彼女の指から飛び立った真っ白な紙飛行機が、美しいラインを引いてゆく。
嗚呼やっと彼女には、あれがいらなくなったんだ。
彼女はやっと、自分ひとりで生きていけるようになったんだ。
風を孕んだ紙片は、だれの力も借りずに空を鋭く切り開く。
目の前に広がるのは、二十一世紀の空。
あの紙片は、だれの手に渡るのだろう。
争いを知らない、幼い子供かもしれない。
遠い日を懐かしむ、お年寄りかもしれない。
暗い影を背負う僕らにとって、それはとても素敵なことに思えてくるのだ。
遠い遠いあの日、僕も彼女も、僕らが関わった全てが、遥か昔の戦争を引きずっていた。
あの日。
僕らにとって、忘れられないあの年。
高度経済成長の終わりを間近に控えた、一九七四年のこと――。