クインテットビショップの還幸

7章 戦線打開、抗え兵士ども


だれかさんの受け売りだけど、と、これは口に出さずにほくそ笑んだ。
目の前では、清楚な姿に変貌した彼女が、相変わらず首をかしげている。

《その革新さを分かっていないのですよ、当の本人は》

かつて、僕にその知識を教えてくれた人物は、最後にそう付け加えた。

だからこそ、忌々しい。
だから嫌いなんですよ、と。
しかし、そんな彼に寄り添ってやれと言ったのは、嫌いと言った当の本人だった。
逃げるな、寄り添え、話を聞け、きっと彼は……。

「……お前を殺しはしないから」

「あ? 何か言ったか?」

僕の呟きに、彼女は再び目を眇めた。

「なんでもありません」と手を振って、僕は彼女の先に立った。

「こんなに広い城内ですから。抜け道は必ずあります。人通りの殆どない公道、薄暗く誰も近寄らない廊下、地続きの客室群……王室の隔離通路まで」

「へえ、把握してやがるって? どうやったんだよ、城内配置図でも確認したか?」

「小童にそんなもの見せてもらえるとお思いですか、王帝陛下は……。それに、残念ながら僕は地図を読むという能力がからっきしでして」

「意外だな。見る限り、お前そこそこいいとこのお坊ちゃんだろ? みたところ文字も読めるみたいだし、地図が読めない? ……まぁ、読めなくても生きてはいけるが……」 

「必要なかったんです。僕の人生は他で忙しかったですから。城内配置は……歩いたんですよ」

「歩いたぁ?! こんな馬鹿でけぇ城をか」

僕の言葉に、少々オーバーなくらい驚かれる。
あの人は言っていた。
彼も努力の奇人だと。
血反吐を吐いては飲みを繰り返してきた男だと。
だからこその驚きだったのだろう。
成程彼は、自分が多大な努力をしてきたからこそ、他人の努力を人一倍評価できる人物らしい。

「しかし、地図読み覚えたほうが早かったんでねぇかな……」

訂正。
努力は認めるが、最短でたどり着ける道があるならそちらを優先するらしい。

「どっちにしろ見せてなんてもらえないんですから仕方ないでしょう。こうやって案内できるんですから、感謝くらいしてください」

往来の激しい道を避け、時には隣接する窓を乗り越え、構造物を飛び越えて、塔と塔をつなぐ外廊下の屋根を駆け抜ける。
眼下、気づく様子もなく行きかう人々に小さな嘆息を漏らしながら、彼は半ば興味津々といった体でついてきた。
息が上がらないのは、流石といったものか。
普段温室暮らしの僕のほうがぜぇぜぇ息を吐いている。
頬が熱い。
額を滴った汗が、石造りの屋根に小さな痕跡を残した。
どうせすぐさま消えるだろう。
隣接する塔の窓、手をかけ転がり込むと、「きゃあ!」とささやかな叫び声とともに人影とぶち当たった。
メイドのひとりらしい。
視界黒が掠めた直後、軽い衝撃とともに柔らかなカーペットの感触が右半身頬までを包みこんだ。
位置がずれていたのか、正面衝突はしなかったまでもハッキリ言って予想していなかった。
進入場所は窓。
怪しすぎるだろう。

「うわっ、ごめんなさいすぐに拾いま……!」

こちらの心配をよそに、尻餅をついた女は正常な感覚を取り戻せていないらしい。
散らばった花々と、鮮やかな新緑に手を伸ばす。
あーあ、ごめん。
これ、たぶん城内に飾るやつ……。
とにかく、彼女が疑念を抱く前に消えねばなるまい。
簡単な謝罪でもして身を翻してやろうか……。
口を開きかけた時、「なんだ、何かあったんか?」と低い声とともに、窓枠に足をかけ、ひょこりと影が覗き込んだ。
女が顔を上げる。
やばい、逆光とはいえ、まじまじ見られるとバレ……!

「……っ!?」

女が息を呑むのが分かる。
最悪の状況を覚悟した刹那、当の女は弾かれたようにひれ伏した。

「も……っ、申し訳ありません!!!!」

廊室内を劈く、悲鳴に近い声を上げながら。

「え……?」

「ば……っ、バトラー様に何たる無礼……っ! まことに失礼いたしました、以後自戒しますので、どうか……っ」

「へ? あ、お、俺?」

現状が分からず挙動が乱れる男の影。
ああ、パッと見だけで衣装にだまされてくれたらしい。
よしっ! うまくいけば逃げられるかも。
すぐさま立ち上がり、忠実な従者のごとく彼の傍らに寄り添った。

「……この国では、王族と貴族院直下のバトラー配置は、絶対なんです」

声を潜め、ふたりきりの時に告げた説明を繰り返した。
目配せをして、頷いてみせる。
いまならそう、彼女も気づいていない。
しばし困惑の表情を浮かべていた男も、元来の聡さ故か、意を汲み、あーうん、とか適当な答えを返している。

「ぶつかったのは俺の従者なんだし……そんな謝ってくれんな。特に処分とかにはしねぇから……」

てか、できねぇし。 僕ほどの近距離でしか聞こえない自嘲を落とし、彼は困ったようにこちらを省みる。
これ以上どうしたらいいのか分からない。
それ以上に、足跡を残したくなかった。

「僕の方こそ、大変失礼いたしました。主もこう申しておりますし、これはなかったことと致しましょう。貴女も気に病まれませんよう。……さ、若。急がなければ会談に遅れますよ」

「俺、若って歳じゃあ……」

「い・き・ま・す・よ! 若!!」

妙なチャチャを入れかけた彼の手をむんずと取り、僕たちは走り出した。
できる限りの速さで。
彼女の、印象に残らぬよう火急速やかにその場を立ち去るために。
遠ざかる足音。
かからなくなった影に、彼女は顔を上げた。
上級バトラーを示す、鮮やかな群青に赤襟の正装。
高い背丈に程よく筋肉のついたすらりとしなやかな肢体が、少年とともに駆けて行くところだった。
豊穣を示す黄金色の稲穂を思わせる金髪。
その背が見えなくなり、それでも焼きついた網膜の裏、あまりに鮮やかな極彩色に、彼女は極度の安堵と脱力で嘆息した。
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