クインテットビショップの還幸

7章 戦線打開、抗え兵士ども


「人間には、どうしても油断をする時があります。 敢えてそこを、つくのです。 生命を維持するため欠くことのできないものということには、人は過剰に警戒します。 食物摂取や、睡眠ですわね。 確かに命を狙うなら、そこをつくのが望ましい。 欠かせないのですから。 ですが、実はそれ程必要のないものには人は神経を払わないものです。 極限では忘れてしまえるような欲求。 少しでも余裕を取り戻し、それらが頭をもたげた時。 その時こそ、我々が真に利用すべき油断なのですわ」

勿論、身体を許す気等更々ありませんもの、と目を細めて、女はくつくつ笑った。

「問題は、北なのでしょう? 大国との戦力合流を避けたい訳だ。 でしたらわたくしが、あちらに潜入して、掻き乱して来て差し上げます。 幸い、北部スヴェの現状指揮官は大の女好き……。 彼を失えば、ただでさえ骨抜き軍隊です。 片割れは直ぐさま瓦解します」

「……そんなこと、可能なのか?」

「出来ないことは、申しません。 女は、案外強かなのです」

女はニヤリと笑い、踵を返した。

「ご安心下さい。 これは、単純に恩返し。 あの方の誠実に対する瑣末な悪あがきですわ。 わたくしが戴いたのは命。 引き換え差し出せるものは少なくとも、その良心にむくいるくらいはやってみせましょう。 それが、繋いでいただいたわたくしの代償ですわ」

すごい。 遠ざかる背を目に、呟かざるをえなかった。
兄の、あの暴君の名の元に、人が、力が集ってゆく。
盤上。
ありえなかった配置に、僕は今更、あの人のすごさを知った。
暴君、狂王、恐怖政治の独裁者。
得られぬ愛に焦がれ、神にまで上り詰めた男。
しかし、その背後には、たくさんの人がいたのだ。
悲しみの中に、苦しみの中に、もがき苦しみながら生み出した、信頼が。
知らず、笑みが漏れていた。
もはや、恐怖や絶望なんて感じられなかった。
兄は、生きている。
それは、きっと真実。

「……やりましょう」

呟くと、その場にいた全ての視線が。

「守りましょう。 国を、故郷を。 あの人が愛した国土を」

世界が、変わりはじめた。

 * * *

扉を開けて、息を飲んだ。
雑多な物たちが散乱している。
それだけは、いいんだ。
見慣れている。
優雅な机上戦(といっても、溢れてはいたが)は散々目にして来た。
散乱しているとしか思えない物たちが、僕の伺いところで整然と意味を持って《並べられて》いたことは、もはや日常だった。
だが、それも違う。
前回とは違うのだ。
束にされていた紙は散らばり乱雑に端々が折れ曲がり、布はずたずたに引き裂かれている。
まるで、獣が暴れ狂った後のように。
今までの、《意味のある何か》とは、明らかに違っていた。
しかし、望むべき犯人である猛獣は見当たらない。

「……当然か」

呟いて、笑ってしまった。
動揺しているのに、なんとはなし納得してしまう自分がいたのだ。

――彼は、時折ヒステリーを起こします。

言われていたからこそ、捜すのにも苦労はしなかった。
件の化け物は、その強大ななりを小さく小さくおり丸め、まるで震える子犬のように寝台で震えていた。
シーツや引き裂かれたカーテンの切れ端、羽毛零れた多彩なクッションに埋もれて、頑丈そうに見える太い足先だけが覗いている。
一見するなら、被害者。
何かに怯える弱者でしかないそれを。
僕は、迷いなく寝台へと歩み寄った。
一定の距離を保ち傍らに立ち問い掛ける。
彼に教えられた問いを。

「怖い、ですか」

「俺は、全てを喰らう為に生まれた。 あの国にあだなす全てを」

「愛されたかった、ですか」
無遠慮に言葉のナイフを刺すと、しかし男は怒らなかった。
残念。
僕ですら、そこまでは立ち入れる程彼の側に居すぎたのだ。
いくばくかの沈黙の後、小さくため息。

「まさか。 そんなもの、恐れ多い。幸せは国土の拡張だ。 望むべきは国民の幸福だ。 それらが、俺の不幸の上に成り立つのなら」

「……何も愛さず、死んでゆく、ですか……」

僅か身じろいだ塊が、消え入るような声で呟いた。

「俺が不幸になれば、なる程国が栄えるんだ。 俺の居場所はあそこしか――、」

「……帰りたい、ですか?」

諦めに対し、呟いて。
自分の言葉に驚いた。
成る程。 彼が僕をテリトリーに踏み入れさせた程度には、僕も彼に心許していた訳だ。

「貴女は、群集の幸せに目を向けすぎた。 そして、手にしたナイフを振るうことしか知らな過ぎた。 だから僕は……貴女の為、咎を背負いましょう。 貴女は、優し過ぎる」

鈴が。
あの人は許してくれるだろうか。
道半ば、責務をほうり出した己を。
懐かしい、あの人の面影とともに、鈴が鳴った。

「……僕も調度、故郷に帰りたくなりましたし」

淡い笑みは、自嘲と、確信によって零れていた。

  *  *  *  *

「だからって、何でこの恰好だよっ!」

「メイドじゃないだけマシでしょう、何言ってるんですか。王室バトラーなんて、憧れの職業ですよ。羨望の的! 確たるエリート! ひゅーひゅー!」

「この国で偉くなっても報われねぇ!!」

叫んだ彼女の声を合図に、僕はじっと目を細め、声を潜めた。

「けれど実際、脱出を考えた時、1番楽な立ち位置ではあるんですよね。 王室バトラーは、別格。 王家に仕えるという名誉を手にした国家精鋭たちにも、家柄血統で、格というのが存在します。 王室に連なる者が錐の上。 その中でも血の濃さ、能力において優劣がつけられます。 バトラーは中でも最高位。 王家を補佐する元老候補ですから」

「血の優劣ねぇ……。 俺はそんなん好かんな。 自分の身が特別優等だとも思えんし、仕事が出来る者が貴族参議にばかり生まれ落ちるとは思えない」

「そこが、貴女のいいところですよ。 その先進的な考えから、貴女はベルンバルトから貴族重視制度を希釈できた。 人民から広く有用な人材を登用できましたから。 それは、国家としての可能性です。 有意義な政策でしょう。 しかし、それを迎合できない国もある。 それが、封建制国家、スヴェロニア帝国という国だった。 それだけのことです」

「どうにも解せんなぁ……。 仮にそう仮定したとしても、この服ひとつで人心をあざむけるか? 服が人を作るわけでもあるまいに」

「この国は、服が人の身を着るのです。 中身が重要なのではない。 流れる血と、身分が重要なのです。 現に、バトラー相手には下賎な使用人は目も合わせてはいけません。 そう、決まっているから」
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