クインテットビショップの還幸

7章 戦線打開、抗え兵士ども


「……いや、あるぞ。 アーデルベルトは、希代の人間嫌いだろう。 しかし、王族である以上、伴侶や情夫というのは付き纏う。 例え、奴自身が子をなせず、それを望まずとも」

「ベルトにとっての防衛線だったということか?」

「陛下は、人であろうと物であろうと、何かを宛がわれることを嫌っておいででした。 その上で、避ける為に他人を寄せ付けぬ何かが必要だったのだ、と」

「それが国民であれば、娘、孫を持つ重鎮が黙ってはいない。 ……成る程、だから異民を」

「陛下の寵愛を受けるのが同じ民ならば、嫉妬や陰謀の助長となる。 しかし、わたくしのごとき人以下の扱いを受ける者ならば、ただお気に入りの玩具としてしか見られはしません。 壊れてもよい玩具。 くだらないガラクタに嫉妬する人間等おりませんよ」

「しかし、それに執心している以上、新たな女を宛がって蔑ろにされても納得はいくな。 女は間に合っていると解釈できる」

「あれが、そこまで考えていたとは思えんが……」

「ええ。 はじめは、単純に気まぐれだったようです。 ただ、周囲の押し付けが面倒臭かった。 だから、この辺りでひとつ、女を連れ込むという既成事実をつくりたかった。 そんな時、たまたま私がいた。 ですから、例え部屋に入れたとしても、床を共にしようとはなさらなかった。 わたくしを置き去りに、床に座り込んで寝ると動こうとなさらなかったくらいですわ」

「……それは」

「なかなかに、女泣かせだな」

「そのかわり、たくさんたくさん、お話をしましたわ。 わたくしの家族のこと、いろいろな街のこと、出会った人たちのこと。 聞いていて楽しいものではないそれを……あの方は、酷く嬉しそうに聞いておられた」

「……あいつには、他の道は用意されていなかったからな。 見るのは、王宮、各国の社交界、後は荒んだ戦場。 それだけで」

「貴女が生きる道が他になかった以上、その閉塞感に共感した訳だ。 そして、それ以上に……流浪の民に、憧れたのやもしれませんね」

兄は、自由に見えて篭の鳥だった。
翼をもぎ取られ、篭の中ですら飛べぬ鳥。

「あの方は、わたくしに数え切れない特権と、後ろ盾をくださいました。 国を離れる際ですら、多額の金銭を持たせてくださった。 今、わたくしが独り身を立てられているものも、全てはあのお方のおかげなのですわ」

これはその時の証――女は呟き、頬を染め、鮮やかな勲章を胸に抱いた。
世界で二つしか存在せぬ証。
変わり者の兄が、確かに愛した証を。

「これを示されれば、誰もわたくしを蔑ろにできはしない。 そう、今回のように」

「それは、解るが……そんなおまえが、何故あれを訪ねる? 今の……情勢くらいわかるだろうに」

訝しげに眉根を寄せた騎士が尋ねた。
不意に、空気が凍った。
ぴんと張り詰めた中、彼女の笑みが歪む。
緩やかな、狂喜の笑み。
ぞくりとした。
誰かに似ていたから。
かつて恐れていた絶対神。
狂気の王者の笑みに、そっくり、と――。
……嗚呼! 赤く濡れる口元が開く。
かつての陶酔ににた恐怖が振り返した。

「『時は満(みつ)。世にて現したらん』 …………あの方の言葉ですわ」

騎士が戦いた。

「おまえ……っ、アレと会ったのか……?」

そう、兄は行方不明。
だからそここんなにも迷走し、だからこそ混乱を……。
女は、くつくつと喉をならした。

「わたくしが、あの方を間違えよう筈、ありません。 世界一気高く、世界一美しいお方です。 あの方は、声には乗せられませんでしたが、闇に溶け、わたくしに呟きました。 『今こそ、借りを返せ』と。 読唇術が使えるわたくしにしか、わからぬように」

「何処でだ! 何処で会った?」

半ばつかみ掛かった騎士を払いながら、女は言った。

「ツェザーラント、現有スヴェロニア自治区遊興都市」

「なん……っ」

「東方軍第二連隊、第十七線区担当分隊、分隊長『ヴァン・メッサー卿』。 わたくしは、彼から『帝都へ戻れ』と言われ、『荷担せよ』と望まれた。 もはや敵国のツェザーラントで」

「じゅ……っ、十七戦線って、あそこは《全滅》……っ!」

思わず口元を押さえた。

「……死んだと……思われますか?」

女は、不敵に笑って問うた。
もう一度。

「あれ程の方が、本当に、死んでしまわれると?」

怪しげな光を宿した瞳は、明らかに意志を含めていた。
あれが、死ぬ筈がない。
死ぬ筈等ないのだ、と――。

「しかしなぁ……こーんなこまっこい女一人よこして、何とかなるもんなんて……」

「わたくしが、あの方から得たものは、数多の特権と財だけではありませんよ」

言いかけた北の将軍言葉を制するように口を開いて、次の瞬間。

彼の眼球僅か数センチ先に無慈悲な煌めきがあった。

「暗殺術です」

怯えた色を帯びた顔を映した刃先の先で、女がひたと動かぬ彫像のように刮目していた。

「あの方は、勉強家でしたから。 全身の筋肉、腱、骨、血管、どこをどう通り、どう繋がっているのか、殆ど全てにおいて把握していた。 だからこそ、的確に魂の尾を寸断できたのです。 それが、あの方の伝説の一端。 神憑りの根源の一つ。 そして、わたくしは生きる為、その技術を習得した唯一の存在だということです」

「……更なる付加価値を求めた訳か」

「生来の手先技巧と、音楽的センス。 それだけでは何とか食いっぱぐれぬようにするのが精一杯ですが、暗殺業という絶対的技術を手にすれば、忌避民族の女といえど、暮らしてはゆけます。 わたくしが行っていたのは、寧ろ殺すことではなく、殺されるという恐怖感を植え付け、何事かから手を引かせることでしたけど」

女は、栗色の瞳を輝かせ、艶やかな装飾剣を抜き放った。

「椿姫、という物語をご存知かしら?」

埋め込まれた石は赤。
伸びる模様は真っ青で。
あれの、色が。
同じ赤を冠する男が、声を上げた。

「祖国を救う為、敵人に操を売り渡した女の話か。 確か、寝所で首を掻き切ったとか……」

言葉が途切れた。
まさか。
ま、さか。

「やるつもり、なのか?」

底の知れぬ笑みが不敵に零れ落ちた。
Copyright 2011 All rights reserved.