クインテットビショップの還幸

6章 グラナダ・ステファンブロー《死す赤き鷹の飛翔》



部屋に入ると、突然奇声が上がった。
床に目を移す。
転がっていたのは、分厚い辞書の類。
拾いあげようとすると、奥からこれまた制止が飛ぶ。
よく見渡せば、そこここに、乱雑に放り出したとしか思えない品々が統制なく並べられていた。

「うぅーむ……。
あいつ、やっぱり西を落とすつもりだなぁ」

何であるかはわからない。
しかし、制止がかかった以上、彼女にとっては意味のあるものなのやもしれない。
僕は、それら得体の知れない物体を倒さぬよう、身体をずらし、奥をのぞき見た。
部屋中を見渡せるベッドの上、渋面に胡座をかいて、かりそめの主が唸っていた。

「でも、西は今のトコ、動きはないですわよ。
ネインクルツが兵力集中させはじめてるけど、結局、公国の軍事力なんて、王国に比べれば高が知れてるでしょうに」

彼女の隣、エプロンドレスから伸びる純白のタイツにつつまれた足をぷらぷら揺らしながら、黄金色の髪が頬を膨らませた。

「単体なら、ぼこっちまえば簡単なんだがなー。どうにも北が面倒なんだよなー」

「大国が合流するって奴です?
でも、そんなに注ぎ込みますかねぇ、戦力」

「来るだろ、俺、怨み買ってるもん。
あーあー、やだやだ。
おまえらの御主人様だろ、なんとかしろぉ」

「あら、わたくし、国家中枢にお仕えしてはおりますが、魂まで売り渡してる気はありませんもの。
あくまでビジネス、生活とお金の関係ですわ」

女は、細い腕をひらり、楽しそうに笑った。

「あら、可愛い。
ほら、ブライトクロイツさま、従者が参りましてよ」

「一体何やってるんですか、あなたたちは……。それに、この散らかりようは何です?
何かの破壊工作かと思いましたよ……」

足元、他と少し離れた位置に放られていた辞書を取る。

「あー、調度いいや。
それ二マス進めといて」

「……二マス?」

上がった伸びやかな声に固まると、傍らの女が口端を上げる。

「今ね、図上演習、ってやつなのよ」

「あいつのことだから、多分西を攻めたがるだろう。
と、すると行くのは北回り、ローランド将軍辺りかな……」

「あら?
でも、ローランド将軍は東の担当よ」

「東は国境が様変わりしおわったからなぁ。
恐らく、東のフレベンスもこれ以上の進攻は許さないだろうし、膠着状態を続けるくらいなら、軍の一部を割いて別を落しにかかったがいい」

「あら、じゃあ西の軍備を?」

「いや、無理だろうな。
北では、まもなくアズバランとスヴェロニア軍が合同する。
そうなれば、北軍の勢力をもってしても押さえ込めるか」

「難しい、ってことですのね」

「あいつらが、中央軍をどう割くかによるかな」

ブロンドの髪を掻き乱し、彼女はベッドに倒れ込んだ。

「南だって今こそ落ち着いてはいるが、反ベルンバルト派の巣窟だからなぁ。
しかも悪いことに、奴らの一部はスヴェロニアの息がかかってやがる。
有利な条件掴ませてやれば、克己に乗らないこともねぇし……」

「南って、反乱軍の?
目的って何なの」

「政権復興。
それと独立」

「嗚呼ね、あの島国の……」

「あー、くそ。
状況が悪すぎるぜ。
あんにゃろー、今度会ったら本気でいてこます」

「あら、残念。
現在王子様はベルンバルト攻略戦線の総指揮を取って不在ですわ」

「酷いよクロエー……。
どうなってんだよおまえの御主人様はようー」

「だから、わたくし全くの無関係ですもの。
それより、あまり抱き着かないでいただけます?」

「男の性」

「あらぁ大変。うちの王子様は、同性と結婚なさる」

くすくすと下世話に囀った女に、彼女は困ったような顔をして見せた。
しかし……何とも、まぁ。

「……いつの間に?」

確か、残ったのは数人。
彼女の身の周り雑務について、与えられたのは僕くらいなものだった筈だ。
それを、何故突然?

「ご安心なさって、可愛いおちびさん。
わたくしは、あくまでも洗濯女史ですわ。
ちょーっと考えがありまして、お暇してる陛下にご挨拶に伺っただけですの」

「どーせやることもねぇしなぁ。
カミュの情報統制で本国のこともわかんねぇし、腐ってたとこだったんだ。
しっかし、人の口に戸は立てられねぇのなー。
北から南まで、指揮官の動きもこんなに精密にわかるもんだとは思わなんだ」

「わたくしは、特に情報網を持っていますから。
それで、お暇な陛下と図面演習ならぬチェスごっこをしていたのですわ」

「飽きてきて、スケールでかくなってきたけどな」

「さて、次はどの手で?」

「とりあえず、北の合流。
後、南の買収かな」

「そうして、ベルンバルトは状勢が悪くなるのですわねぇ」

「言うなよ……今考えられる最悪のシュミレートなんだから」

転がった彼女が目を閉じた。

「まぁ、ここでああだこうだ言ったって、何も変えられゃしねぇんだがな……」

立ち上がった女は、窓辺に立つ少女の縫いぐるみを抱き上げた。
慈しむ母のように撫で、冷たい目を上げる。

「……仕方ない方ですわねぇ。
私だって、打算くらいありますの。
ベルンバルトには《負けて》欲しくありませんわぁ」

呟きに似たそれは掠れ、殆ど聞こえないようなものだったが。

再び開いた瞳。
その青が深くなっていることに切なくなった。
この人は「どーせやることもねぇしなぁ。
カミュの情報統制で本国のこともわかんねぇし、腐ってたとこだったんだ。
しっかし、人の口に戸は立てられねぇのなー。
北から南まで、指揮官の動きもこんなに精密にわかるもんだとは思わなんだ」

「わたくしは、特に情報網を持っていますから。
それで、お暇な陛下と図面演習ならぬチェスごっこをしていたのですわ」

「飽きてきて、スケールでかくなってきたけどな」

「さて、次はどの手で?」

「とりあえず、北の合流。
後、南の買収かな」

「そうして、ベルンバルトは状勢が悪くなるのですわねぇ」

「言うなよ……今考えられる最悪のシュミレートなんだから」

転がった彼女が目を閉じた。

「まぁ、ここでああだこうだ言ったって、何も変えられゃしねぇんだがな……」

立ち上がった女は、窓辺に立つ少女の縫いぐるみを抱き上げた。
慈しむ母のように撫で、冷たい目を上げる。

「……仕方ない方ですわねぇ。
私だって、打算くらいありますの。
ベルンバルトには《負けて》欲しくありませんわぁ」

呟きに似たそれは掠れ、殆ど聞こえないようなものだったが。

再び開いた瞳。
その青が深くなっていることに切なくなった。
この人は多分、帰りたがっている。
だって、生きることも死ぬことも、全て国の中にあるよう形作られた人だ。

どうしたらいいでしょうか……?
出ない答えを問い掛ける。
あの人なら、きっと全てを許容する。
僕の決めたことなら。
……しかし、せっかく手に入れたものをみすみす逃してしまってもよいものだろうか?

……わからない。

わからないけれど、ひとつだけわかった。
祖国を、愛する人たちの元を離れてしまう悲しみは、誰にでも同じだ。
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