クインテットビショップの還幸

6章 グラナダ・ステファンブロー《死す赤き鷹の飛翔》



ようやくパンをはみはじめた彼女が「まぁ、そんなもんだわなぁ」とにまにま笑う。

「あいつ、困らせんのが俺の仕事だから。
つーか、何でもできねえと、生きてけねっつーの。
伊達に先陣切って来た訳じゃないんだぜ。
飯炊き、洗濯、たいがい人並みは出来る」

「王族なのに」と呟くと、「そう。王族なのに」と返ってきた。
手にしたスプーンが皿に置かれ、かちりと小さな音がする。
何やら変わった空気に目だけで覗き込むと、どうやら彼女は思考の海に漂いはじめたらしい。
根気強く待ち続けると、少しだけ傾いだ頭が気を取り直すよう振られた。

「そういう仕事は、もう一人の仕事だったんだ。
妙に気がつく奴でなぁ。
何か飲みたいと思った時には既にそこにあって、温度もバッチリ。
書類をすれば、必要な書類は全てくまなく揃えられ分類、索引付き。
一度情勢が傾けば、軍備は既に万全、和平交渉すら用意済み、なんて、恐ろしい奴だ。
まぁ、多分、小さな頃から一緒にいたから、タイミングも合ったのだろうし、俺だって特に言わなくても出てきたからなぁ。
何もかも。
全て万全に」

「素晴らしい方じゃありませんか。
従者として、最高の逸材だ」

「まぁなぁ。
自分でできることはできたけど、先回りされてんだ。
やる必要もねぇだろ。
でもなぁ。
あいつがいなくなって、その役目がいなくなって……当初は、自分でやってたんだ。
だってできるんだぜ。
やらせる必要なんてないだろ。
けどな、もう一人が気に病んでな。
自分のせいなんかじゃないのに、奴が欠けたことを責に思い始めた」

「……そりゃあ、いままで回っていたものがいかなくなる訳ですからね……」

「で、何とか奴を真似ようとしやがるんだが、まぁなかなか上手くいかない訳よ。
それで更に追い詰められる。
可哀相になって、口だしするようになったんだ。
ああして欲しい、こうしたい。
あれをとれ、これは嫌だ。
言われたらわかるだろ。
それに我が儘を加えて口煩くすることで、あいつを忙殺してやった。
忙しいと、不満なんか忘れるからな。
解決して、爽快感だけが残るように」
「へぇ……」

優しいですね、と言いかけて、やめた。
きっと、彼女の性格からはそんな言葉、望まない。
彼女は、綺麗な青色の目をすがめて、何か愛おしむように遠くを見つめていた。

「だから、俺は別に、暴君でもいい。
我が儘でいい。
皆が幸せになれるなら、それで」

そこまで言って、彼女は武骨な指を払い、食事の終わりを示した。
女性らしからぬ身体。
内包する魂も男に近く、それでもただ《完全な男ではなかった》というだけで、監禁され、真綿で首を絞められるように苦痛に耐える毎日――か。

「……聞いていたのより、ずっと人間らしいじゃありませんか」

一人ごち、不思議そうな顔をした彼女に何でもないと笑いかけた。

「下げさせていただきます。
本日は、主立った要務はございません。
来訪の予定も、今の所は」

「へぇ、つまんね。
カミュの野郎でも顔出しやがったら、全力をこめて一発叩き込もうと思ってたのに」

にんまり笑った顔。
瞳の色は藍色。

きっと、僕はこの国にとってのステゴマなのだろう。
血に飢えた死に神の如き暴君に使わされた、いけにえの羊。
体面の為蔑ろにはできず、かといっていつ切り捨てられるやもわからない。
そんな役目、引き受ける訳がない。
でもきっと、この国の上の連中は、彼女のこんな一面を知りもしないのだ。
無知なら、僕だって恐れたかもしれない。
彼女は、それだけ絶大で、絶対的だから。

「やはり、あなたの言う通りでしたよ」

間違ってなかった。
逃げ出さず、諦めず、とにかく側にいて、話を聞いてやれ。
脅しに屈さず、何度も食らいついてやれ。

――奴は、軽はずみに人を殺せやしない男だ――

頭の中、響いた声に、笑いが出た。


冬に鎖された世界は、それだけで他者へと恐怖を繋ぐ。
音のない真昼。
照らし出される縮んだ影。
真っさらな白雪に反射して、もはや隠れる場所もなく。
しんしん、しん、と降り積もる。
命の気配のしない世界だった。
一番嫌いだった筈の空気は、情け容赦なく俺の肌を喰らう。
確かに拍動する心の臓だけを頼りに、何とか立ち尽くしていた。
身体が動かない。
瞬きをするたび、睫毛から剥がれ落ちた氷片が赤く染まる頬に降り懸かった。
相変わらず、えげつない。
呟きは、冷たい風に飲まれて消えた。
北の僻地。
何の有用性もなく、主要なものもない雪に閉ざされた世の果てには、ただしんしんと雪が降り積もる。
音もなく。
戦の気配すら忘れて。
視線を上げた。
そびえ立つ、石の城壁。
俺は知っている。
この中に何があるのか。
一角だけ活火山の尾を埋没する大地には、緑が繁り、温かい。
命が芽吹き、生き死にを繰り返す、生。
意を決して、降り積もる雪原から足を抜き出した。
飾り彫の施された扉を開くと、案の定、世界は眩しすぎるくらい様子を変えた。
色の洪水。
命の息吹。
悪くない。
目を細め、心地よい風に任せる。
鳶が飛んでいた。
ピョロロロッと、独特の声がした。

「ビュルガー!」

遠く、人声が響く。
途端、吹いていた風が変わった。
せわしなくなった羽音が数枚の羽を残し、主の元へ戻ったのだろう。
目を開く。
鮮やかな花花の中に、更に鮮やかな。

伸ばされた手、留まるはあの鳶か。
片肩に一回り大きな個体を乗せたそれは、純白の外套をはためかせ、ゆっくりこちらを振り返った。
灰色の、澄んだ瞳とかちあった。
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