クインテットビショップの還幸

6章 グラナダ・ステファンブロー《死す赤き鷹の飛翔》



「へぇ。
坊ンの奴、あっちの国の言葉は、使えたってことか」

嗚呼、そうか。
口から漏れた呟きに、少年もようやっと意味に気付いたらしい。
故クローネ・ブライトクロイツは他国要人の娘だった。
ならば、そちらの国の言葉を知っていてもおかしくないではないか。

「俺が傀儡政権の駒として高度な教育を受ける傍ら、ベルトには一切の勉学が禁止されました。
ただし、その目をかい潜るものがあった。
一番近く、一番親身に奴を見続けた人間が」

指先がなぞる。
何度も書き間違うそれを、正し、導き、示してやるもうひとつを。

「あの子は、そんな坊ちゃまを哀れんで、教え続けてくれたのですわ。
大人誰しもが屈した圧力も関係なく。
ただ、我が国にはかの国からの書物が少なかったので、情報を仕入れるという意味は薄かったみたいですが」

緩やかな笑顔が、立ち上がった背に向けられる。

「行くのですね」

「……因果は巡ります」

「間違いなく人殺しを侵しますよ。
おそらく、たくさん」

「しかし、そうでしかこの国を守れません。
奴の愛する国です。
残さなければならない」

「貴方は優しい。
でも、彼はどうでしょうか?」

「あいつだって、優しいですよ。
主君に対しては」

「しかし、人を殺します」

「俺だってそうだ」

「違いますわ。
あの方は、血祭りに上げるのです。
あの子を生かす為なら、何でもする子。
あの子は、それを望みません」

「……決意の違いなのです。
俺は、あいつの為とはいえ、意志が、弱いから」

「他者を守るのも優しさでしてよ。
勝ちを得ながら、負けた者すら省みることができる。
素晴らしい強さですわ」

「再び盾突く気力も削ぐ程に叩き潰す。
それが、この国が求める強さです」

「剣と盾ということですか」

「最近、つくづく思います。
あくまで、盾は守ることしかできない」

「彼自身も望まないかもしれない」

「でも、引き出すしかない。
あいつが帰ってきたときに、国が無くなっているなんて可哀相ですから」

「陛下」と、落ち着いた声が響き渡った。
背は振り返らない。

「しばしの不在をお許しください。
必ず、戻ります。
五万の……軍勢を連れて」

「……勝算は、あるのですか?」

「五分五分です。
奴は、俺を怨んでいるかもしれない。
しかし、その力は絶大です。
今は、あれをアテにするしか方法がないのです……」

僅か俯いた頭。
再び持ち上がった時には、真っ直ぐに前を見つめていた。

「奴は、かつて《吉兆》と呼ばれました。
勝者の旗には、鳥が舞う。
称して、《僥倖》と。
……必ず連れ戻します。
俺の片割れ。
対となる剣。
双翼の、もう一対」

「王妃召し抱えの、紅眼鷹章――」

青き狼に対峙する、赤き鷹の騎士――。

生きて、いたのか。

言葉は漏れて、音に成さなかった。

‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ‡ ‡

相変わらず、ごてごてしい場所だと思った。
色の洪水。
匂いの世界。
流行りなのかは知らないが、どうにもこの浮ついた空気にだけは慣れることができない。
バチリと起きて、その悪意に曝される。
思わず顔をしかめるも、どこか懐かしいと思ってしまう自分が忌ま忌ましかった。
嫌な夢でも見たのか。
内容は忘れてしまったが、後味だけは嫌という程残りやがる。
ぐったりと重い身体を持ち上げた。
汗で肌がべたつく。

「おいライマー、着替えの……」

言いかけて、はたと気がついた。
……嗚呼、そうか。

「あいつは、いないのか……」

ここは、スヴェロニア。
ベルンバルトでなく。
俺は賓客でなく捕虜で、馴染みの従者もいない。

「何時もの癖だな……」

状況を反芻して、一人ごちた。
普段なら、遅いだの何だのとたたき起こされて、睡眠のとりすぎでぼうっとした頭に着替えを握らされ、部屋へ戻れば朝食が用意してあって。
俺は、何のソースが嫌いだの、水が飲みたいだの、やっぱ別の服がいいと我が儘を言う。
あいつは、呆れてるのか、怒り半分喧嘩腰でその要求に応えていて……。

「嗚呼……騒がしいのがいないのは、こんなにも静かなもんなんだな」

俺は、仕方なく自ら着替えを準備することにした。
立ち上がる折、夜間、夢に働かされた脳が、軽い目眩を起こした。

捕虜とはいえ、与えられた待遇は、約束と違わず最上のものだった。
居室は、城内。
かつて相互留学で使わされたものと寸分違わぬ部屋に、最高の食事、溢れんばかりの衣服装飾品の数々。
ずらりといたメイドは洗練されていたし、部屋の外に監視が付けられている他は何をやっても咎められない。
そう、願うべくもなく最良の。

適当に衣服を頂戴し、ベッドルームのドアを出る。
誰もいないと思っていたそこに、ふと足を止めた。

「おまえ……」

言いかけて、やめる。
まだ少年と言うべき存在が、支度の整えられた卓の脇で会釈を向けていた。
シリル。
シリル・ディノワール。

「おはようございます、ブライトクロイツさま」

奴は初めて紹介された時と変わらぬ目をこちらに向けた。

「……必要ないと言った筈だが?」

不機嫌そうに吐き出される。
僕は、下げていた頭を上げ「わたくしは、殿下付きにございます」と告げた。

「皆のように、逃げ帰ればいい。
俺は追わん。
本人が追い返すんだ。
国の奴らも、責めはせんだろう。
触らぬ神に祟りなしだぞ」

「わたくしめは、殿下の世話係。
不便がないよう、勤める為の存在です。
どうか、その責務すら取り上げないで、くださいまし」

椅子を引くと、扉近くで苦虫をかみつぶしていた男は、渋々ながら席についた。
このやり取りを何度繰り返したことだろう。
相変わらず重く、なかなか始められようとしない食事の脇に控え、僕は思考を巡らせた。

彼――いいや、彼女が連れて来られて初日、世話係のお目とおしが催された。
国賓並の待遇を整えられた当初には、食事の世話から着替え、入浴、洗濯にいたるまで、洗練された従者メイドが名を連ねていたのだ。
もはや、自国の王ですら、かくあらんという程に。
しかし、彼女はその様を見るや否や、誰もが怯え、逃げ出す程に激昂し、鋭い怒鳴り声を上げた。

――自分のことくらい、自分でできる! 今後一切、こいつらを俺様に近づけるな。一切だ!――

すくんだ彼らは、やはりというか、当然の如く職務を放棄した。
それでもメンツを潰されてはならないお偉方は、あの手この手で、何とか残る者を募ったが、最後に残ったのは僕くらいなものだった。

「おまえも、たいがい強情だよな。
たいていの人間は、あれだけすれば、はいそうですかと母ちゃんのとこまで逃げ帰るのに」

「そうは言いますが、わたくしがやっていることなんて、高が知れてるじゃありませんか。
着替えも風呂も、ちゃちゃっと一人で終えちゃって、何のことはない。
食事の用意くらいしかできることはないですし」

嫌そうにスープを掻き回し始めた背に言うと、少しだけ口元が上げられる。
口にする気は更々ないらしい。

「髪もまともに洗ったことのないお嬢様だとお聞きしていたので、ある意味拍子抜けですよ。
しかも、すごぉく我が儘。
いっつも騎士に怒鳴られてる」
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