クインテットビショップの還幸

第5章 罠撒く人の子、罪つくりの庭



見慣れた宿地にたどり着くと、慣れた筈の空気は異様な興奮を持って迎えた。

「兄貴!」

垣根を越え叫ぶと、兄貴の一人は頭上を見上げ、僕の姿を認めた。
大地伏す身体。
そのすぐ先を喧騒が駆け抜けてゆく。
矢。
ぬらり、光った色にぞっとした。
毒つきかよ、完全に殺す気か畜生。

「何があったのさ」

「嗚呼……無事だったのですね。よかった。敵さんが急に戦端を開いてきたんですよ。……分隊長は?」

「別行動になった。ここで合流することになってる」

鼻先を矢が掠め、弾かれるように頭を下げた。
状況整理を阻害された兄貴が、舌打ち一つ、ボウガンに矢をつげる。

「次席がやられました。傷自体は軽傷なんですが、毒が回る心配がある。援軍を呼びたくとも、この攻勢ですし」

辺りを窺っていた兄貴が、身を乗り出すと直ぐさま矢を放つ。
つられてそちらに目を移すと、駆けてくる人影が一つ、二つ、みっつ。
風を裂く音が、先頭の一人に深々突き刺さり、膝が折れた。

「後二人……っ!」

矢をつぐ。
その間にも距離は縮まる。
しかし、奇しくも焦った指ははらり、つがえかけた矢を取り落とした。

「くそっ……!」

常にない苛立ちは、己の命かけるが故。
即座に嵌め直した彼が、頭上を振り返る。
あれだけのタイムラグだ。きっとそこまで来ている筈。
ほんの少しの油断が命取りだ。

直ぐさま撃ち込めるよう引き金かけられた指。
半ばまで曲げられたそれは、しかし完全に引かれることはなかった。
ひくりと一度驚きに震え、硬直する。
驚愕の瞳。
先を辿ると、時が止まった。

襲い掛かるであろう影など、なかった。
あったのは、美しい血みどろの絵画。
ほら、絵ってどんな迫力があっても、結局は動きがないじゃない。
あれと同じ。
ただ、そこにあるだけ。
ありつづけるだけ。
僕たちは、放心したように魅入っていた。
時間を忘れて。
あったのは。

崩れ落ちる身体。
糸の切れたマグネットは、もう一体が今正に倒れ込む最中。
血と興奮の異端の中、それだけは妙に冷静だった。

細めた冷たい目をぬらり、もはや肉塊と成り果てたものに向け、マリオネットの操者は何事か呟いた。
まるで、飽きた人形に別れを告げるように。
そしてゆっくり、こちらを。
覗いた色。
それは、赤。

「分隊長……っ」

ボウガンを構えていた兄貴が、放心したように口にした。
その影、放り出されるヒトガタの塊。
血色の瞳が瞬き一度。
再び開かれたものは、空の青。
戯曲を演じるには大きすぎるものが、大地に臥せる盛大な音と共に、口元がゆっくり吊り上がる。
柔和な笑みは血を纏い、しかし確かに頑張った功労者を讃える色を含んで高貴だった。
見慣れたそれを目にすると同時、わっと不安が沸き上がって、僕は思わず駆け出していた。
怯える子供のように縋り付くと、大きな手が頭を撫でてくる。
擦り寄った身は、返り血で少し鼻についた。
同じく駆け寄ってきたらしい兄貴に「悪かったな」と声をかける。
声が響いて心地よかった。

「約束は守ったみたいだな。ちゃんと留守は守れたか」

「むろんです。私たちを誰だと思うのですか。……それより、ゼクトのことです。矢を受けて、処置不能だ」

「後衛に引き戻せば解毒は出来るのか?」

「不可能ではありませんが、しかし……」

上官にすらハッキリとものを言う彼が言い淀む。
いつにない状況。

「……分かってる」

苦々しげに呟いた分隊長は、しかしその感傷を振り払うように僕の肩を叩いた。
遠く木立が揺れ、予想しなかった人物がこちらを見つめていた。
気付いた分隊長が、皮肉に顔を歪める。

「やぁ、これはこれは隊長殿ではありませんか。こんな血生臭い所に、何をご所望で?」

木立の影。
隠れるように立っていたのは、会議で中心たりえた人物たち。
一人は、あの卑屈な男。
そして、もう一人は。
泥ひとつない姿は、答えに窮したようで、しばし思巡した後、小さく「……見物にな」と呟いた。

「生憎、こういった有様ですよ。悍ましいものをご覧に入れては、目が腐ります。司令官は、遠方安全なところより、安穏と眺めておられなければ」

あからさまな皮肉は、しかし憂いに伏せた睫毛に、黙殺された。

「その手のものは、何です!」

代わり、しゃしゃり出るはやはりというか、小煩い小男だ。
相手不利と見ればぎゃあぎゃあ騒ぐ、惨めだとは思わないのだろうか?
分隊長は、侮蔑に細めた目をやり、鼻をならした。
僕を抱き寄せる反対の手。
だらりと垂れたそこにある、美しい飾り彫の剣が、一同を静かに映している。
見覚えがある。
あれは、確か……。

「……我が家の紋章だな」

呟いた人に、分隊長が笑った。

「そうですよ。貴方の息子にして部下だった人のものだ。生憎、あれは落ちましてね。前線を避ける為、受け持ち隣接区域まで迂回したら、最悪の事態に遭遇しただけです」

「最悪ですか!? 馬鹿言わないで下さい!
昨日まで、この辺りは静かだったんだ。
争いの気配なんかなかった!
それを君、最悪の一言で片付ける等……!」

「うるっせぇよ!
ごちゃごちゃほざくな臆病者が!
じゃあ、何か?
俺様は、潰滅に近かったあいつらの陣地を一人で征圧しなければならなかったと言うのか?
無茶だろう!
何十人の中でたった一人が生き残れる筈もない!
こいつだって、死にかけだったアレを何とか戦線外に引きずり出して渡されたものだ!
嗚呼そうだ、あいつは死んださ。結果的には無意味だった!
俺の努力も、代わりに傷つけられた敵も、だがな、それを理由に罵る権利なんかおまえにはねぇんだよ。
おまえは、あの惨状を知らない!」

触れられた手が離された。
ヤバイ。
二人とも、頭に血がのぼってる!
全員が理性を失った軍隊は、ただひたすらに瓦解する。
遠くでは、火の爆ぜる気配がするというのに、こんな所で内部崩壊している場合じゃない!

一歩を歩みかけた分隊長の裾を引く。
くべられる視線。
一瞬、赤く染まった瞳が藍色に揺らめいた気がした。

「だったら、何故君は生きて戻れたのですっ!
そんな、壊滅的な状況から、どうやって、一人で!」

「あぁ!?
言いたいことがあるなら、正直に言えよ!
テメェは元から怪しいんだ、突然戦線拡大して、自分は不在なんてむしがよすぎる手引きしたんだろうってさぁ!」

「ちょっ……分隊長ォ……っ!」

「はっ!
よくわかっているじゃありませんか。
なら言わせて貰いますがね。
貴方が偽名使って軍機関を通さず何者かと書簡のやりとりをしていることもわかっているんです。
えぇ、そこまできて怪しくない筈がないではありませんか!
そうですよ、貴方が情報を流したに決まってます。
でしょう?
皆様!」

「なら、証拠をみせろよ、その手紙とやらをさぁ!」

「ぐっ……! そ、それは……っ」

「証拠のなき処罰等、机上の空論と同じ!
確たる真実のない罰則を禁ず!
我が軍の軍紀だった筈だが」

「じょ……状況証拠というものがあるでしょう!
そりゃあ、今君は灰色かもしれない。
しかし、限りなく黒に近い灰色だ!
現に、我が軍は最近先手を取られ続けている。
だがな、見てみろ。君の隊は死なない。
《死者が出ない》んだ!
更に、上を介さぬ手紙――。
導き出される結論は、《君がスパイであること、それ故、身内のみを生かし続けるよう手配があったであろうこと!》
こんなにも証拠は揃っている!
軍事裁判にかける意味はあると思うが?」

「はっ!
軍事裁判! 随分大掛かりな」

「それほど真実は固まっているということです!」

喚く二人。
危機感を持った僕が分隊長を、兄貴が隊長を宥めようと苦心する。
でも。

――本当に?

冷静になって考えると、向こうの道理もすんなり通るのだ。

《僕はその、疑惑の手紙を知っている》

そして何よりも、《その印が狼であることも》!

印自体が王家先代のものである以上、彼が直接敵国と繋がっている訳はない。
恐らくは、先代。
彼の手を借り、情報はリークされている。

「……でも、それじゃあ……」

理由がない。
何故、先代狂王が敵国に加担するのかが。
もはや無駄だと思ったのだろう。
隊長を宥めようとしていた兄貴が、すごすごと撤退してきた。
口論は勿論、収束の気配を見せない。

「お前だって、知ってんだぞ!
配給パチって横流ししてやがんだろ!
ありゃ、それを通告する書簡だ!
上層ぐるみである以上、正規ルートなんて取ってたら、握り潰されるのは必至だからな」
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