クインテットビショップの還幸

第5章 罠撒く人の子、罪つくりの庭



「北が参戦表明をした、ですか?」

目を見開いた少年は、もはや蒼白に近い騎士の前、動きを止めていた。
いらだたしげに歩き回るのは、北の地を擁護する親戚。
普段豪傑を圧している彼も、今はただ無為な巨像でしかなかろう。

「まだ軍勢を動かし始めたばかりだが、このまま攻め込まれたら厄介だぞ」

「あぁあー……っ! ンだよ、そんなん訳わかんねぇよ! うちは、西と中央の配備に人員を割いてるんだ。ネインクルツと、スヴェロニアだけに対処するからこそ割けるのであって、単体で手を焼くアズバランなんかが北でニアの野郎と合流しやがったら、俺達だって全力をもって保てるか否か……」

「とにかく北を抑えるしかありませんね……」

「このままなら俺は、中央から軍を引くぜ。早めに対処しなきゃ、北軍総戦力でかかっても、どうにも出来なくなる。幸い、今の北ニア軍の長は腰抜けでな。合流される前なら、なんとか勝機はある」

「しかし、すぐに動かして何とかなるものか?」

「装備を整えてやる必要もあります。それから北に向かうとなると」

呟いた先。
獣のように唸る声を耳に、少年は静かに頭上を仰いだ。
兄さん。
まだ見つからない彼に問い掛ける。
貴女なら一体、どうしますか――?

  ※ ※ ※ ※ ※

足音が近づいてくる。
相変わらず乱雑な奴だと、一人ほくそ笑み、立ち上がった。
開かれる扉。
外。
飛び込んだのは、かつての友人。
内。
迎えたのは、かつての幼なじみ。

「おまえ……っ、カミュ! あの宣言どういうこっちゃ?」

掴み掛からん勢いで、彼は着飾った友に問う。
それを軽くいなしながら、この部屋の主は肩を竦めた。
傍らの机から、いくつか紙切れが舞い落ちる。
来るとは思っていた。
突然の婚姻要求に、代価としての宣戦布告と越境。
地図は書き換えられ、不安定な情勢は所々で戦端を切る。
長らく効力を持たない求婚を繰り返していた彼に、この状況が面白い筈がない。
寧ろ、遅かったくらいだな。
一人ごちて、笑った。

「おまえ、分かっとるんか? 戦争か結婚か? 馬鹿馬鹿しい。はかる天秤間違えんじゃねぇぞ。ンな結婚、ろくなもんにゃなりゃしねぇ……っ!」

「はっ、そう。言いたいことはそれだけか? 嗚呼、笑える。虫ずが走る。予想通り過ぎて呆れすら覚えるよ。
皇子フォレスト。そうだ、おまえは最初から知っていたんだったな。
悔しいか? 先にカードを取られかけて。
あんな最っ高ォのお膳立て、手に入れないのが馬鹿を見るもんな。
忌ま忌ましい。おまえは全部知ってた筈だ。
だから、あいつにあんなに纏わり付いたんだろ」

「つっ……! 馬鹿はどっちだ。おまえこそ、どういうつもりで求婚なんざしたん? 逃れられない、枷までつけて」

ふふ、
ふははははっ!
苦渋の親友に対し、漏れた哄笑。
嗚呼そうだ。
おまえはそういう男だったなぁ!
失望だよ、おまえもあの話を蒸し返すとはな!

「最高のカード!
手に入れるイコールは結婚だ!
その点で俺はおまえに劣った。
スタート地点に劣勢を強いられ、遅れを取ったんだ。
だがな、神は俺を見捨ててはいなかったんだよ」

ひひひ、
止まらない、トマラナイ。
奴はそう。俺の親友。
互いを深く、知る男。
だからそう。
《今更偽る必要すらないから》
《その過去すら打ち砕くべき過去ならば》

《オレハヨロコンデクイヲウトウ》

杭を――。

――悔いを。

この関係に終止符を。

幸せな記憶も、愛すべき友人たちも、全て、全て失うことになったとしても。

……それが生き残る為の術ならば、いっそ。

「あの時は知らなかった。俺たちは、愛を語るだけの存在じゃないと」

転がる子供の声。
天の存在を信じさせる幼子を。
俺たちは三人。
あの頃はただ、平和だった。
大人たちの喧騒も、駆け引きすらもカヤの外。
愛する友人。
誰よりも近しい幼なじみ。
皆男で、各々国の未来を背負って。
しかし、それすらまだ机上の空論。

「……あの頃のままなら、よかったのにな」

ぽつり、呟いて瞳を閉じる。
子供たちの声が喧騒に消える。
まるで、かりそめの夢のように。
はじめ。
抜け出したのは、狼の国の子供。
協定により派遣された隣国の戦場で、幾多の矢に、悪意に曝される。
立ち上がり、血に塗れ、引きずられ、それでも屈ぬ地獄の慟哭。
兵を鼓舞するという名目、送られた後方で、俺は、獣を見た。
過ちを。
赦しを乞うように。
獣は小さな身体をボロ切れのように引きずられ、血の涙を流しながら、それでも尚。
あの時の衝撃は忘れない。
血の気が引いた。
いや、恐れすら覚えたのだ。
……そう、今でもあの劣等感は拭えていない。
だから。

「必ず落してやる……あの傲慢ちきな神気取りを……!
愛だ? 跡取りだ? ふざけんじゃねぇ。
そんなもん、どこにいる?
そんな御託は糞くらえ!
夢みがちな馬鹿どもの詐りだ!」

再び上がり始めた哄笑に、彼は一瞬怯えた目を見せる。
嗚呼、だから甘い。
油断した襟首を引っつかみ、身を引き寄せた。
耳元に囁いてやる。
悪魔の、嫉妬に狂った男の叫びを。

「隙を見せるなって習わなかったかい……? 残念だなぁ、だからあいつをも捕まえられないんだ。
俺達が人間と誤解するからだ。
俺達は、人間なんかじゃねぇ。愛だの恋だのくだらない。手に入れる為には手段なんか選んでいられない。
卑怯? はっ、上等。
それが俺達。
国を背負う者なんだから」

目の前、絶句する瞳。
震えた唇は言葉を紡げず、ただ苦渋に噛み締められた。
ほら、受け入れろよ。
これが今の俺達だ。
お互いが男だったから守られた均衡。
その残滓は、たった一人が女だったというだけで、脆くも崩れ去る。
愛しているよ、愚かな友。
しかし、今回は俺の勝ちだ。
だっておまえは《皇子さま》。
中立公平な国の皇太子。
どうせ、己の為軍を動かすことなんかできやしない。
だからね、ごめんな。
そこで指咥えて見てやがれ。
神が討たれ、堕ちる様を。

「いいこだから、大人しくしててくれよ」

耳元、囁いて離れる。
力の抜けた身が、へたりと尻餅をついた。
タイミングよく扉開く人。
部下の一人が、麗しく最敬礼をすると、「ご報告が」と告げる。
冷ややかな目を向け、友の所作をすら問う色に、「捨て置け」と指示し、ぴしり伸ばされた背に歩み寄った。
寄せられる顔。
客人に配慮したのだろう、落とされた声に、しかし俺は目を丸くした。
へえ。
そうか、そういうことか。
僅か口角を上げ、俯く。
部下は、静かに頷いた。

「……お姫様を迎えに行くか」

発見報告、場所は東部。

「俺が直々に出向こう。それまで、決して殺すなよ。傷つけてもならん。……事実、触れることすら叶わんだろうがな」

そんなこと、許す奴ではない。
何故そんな所にいるのか。
一体何をしているというのか。
……そんなもの、関係なかった。
彼なら、やりかねない。
ただ、核心があるだけだ。
ならば、直々に馳せ参じるまで。

「奴は甘い。敵の退路を断つ準備をしておけ。部下を人質に取られたら、捨て置けずにはいられないだろう。……抜かりなくやれ」

頭を下げたそれに、暗い笑みが零れた。
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