クインテットビショップの還幸

第4章 戦場の兵士たち



「やっべー……生きた心地しなかった……」

「すげえな、それなりに仕事してんのか、ここの奴らは」

「うちじゃ考えられませんよねー。皆、隙あらば飲みたがるし。酒」

「喜んで飲むだろうな、今の状況なら。……まぁいい。とりあえず、そろそろ撤退して……」

席を立ちかけた分隊長。
視界を横切る影を感じた途端、勢いよく振り返った鋭い眼に射止められたのは、肩に手を置く先程の男。
動じることもなく、僅か目を細めた彼は、ため息一つ、するり指先を宙に舞わせた。
再び差し出された物は。

「落とし物ですよ」

分隊長へ不敵に微笑んだ。
引き攣る表情。
久方ぶりに見た分隊長の動揺に、僕はその白い紙切れを覗き込む。
……いいや、違う。
封筒だ。
宛先は、ない。
分隊長が、こんな上等なもの手に入れられる程の身分ではないことは分かっているから、恐らくは分隊長宛てで届けられたもの。
そして、僕はようやく分隊長が青ざめた訳――封をかけた蝋印に目を止めた。
鮮やかな赤を彩る、二匹の狼。
片割れには山羊の如き角が生え、もう片方には見事な巨鳥の翼。
見覚えはない。
だが、直ぐさま理解は出来る。
白黒の狼は、王家の証。
そして、中でも獰猛な狼を二頭も掲げ、自由に行き来できる翼と悪魔の象徴である角を持つ印を使うということは、同等の力と不可視な爵位を持つ者の印し。
先代虐殺王、アーデルベルト・ブライトクロイツ――。
まさか、兄貴はあの王の密偵……?
ただそれだけの想像で、血の気の引いた僕に構わず、口元を上げた分隊長が、「スリとは随分、手癖が悪いじゃないですか」と呟いた。

「なんとでも。少し、話さえ聞かせてくれたらいいさ。長くは取らせない」

「……へぇ。長く息は保たせないの間違いじゃねぇの?」

「ふふ、貴方たちの出方次第ですねぇ」

しばし睨み合っていた兄貴が、苦虫をかみつぶしたように唸った。
諦めたか。
恐らく敵はそう思っただろう。
だが、僕には分かった。
泳ぐ目配せ。
示すのは。

「トア! 伏せろ!」

罵声と共に、身を沈めた。

頭上を鋭い風音が薙ぎ、次いだのは鈍い重低音。
油断していたらしい兵士目掛けて繰り出された横蹴りが、僕の頭上を切り裂いたのだ。
咄嗟ながら何とか受け止めた男が、その重さに僅か息を詰めた。
もう一人は、何も出来ない。
敵は一人か!
直ぐさま立ち直った脳内は、純粋に己のやるべきことを見極める。
完全に兄貴へ気を取られていた彼の足を、思いきり払った。
傾ぐ身体。
その身がどうと大地に打ち付けると同時に、兄貴が高らかに叫んだ。

「散開っ!」

反射で弾かれたように動いた身体。
反対に進路を取った兄貴と背中合わせ、離れる距離に、しかし不安は感じなかった。
必ず巡り会う。
少なくとも部隊へ帰れば、何のことはない顔をして、それが僕たち。
正反対の方向へと逃れた僕たちを、おろおろと見送ったもう一人を、倒れた片割れが叫ぶ。
その声に、彼等も漸く離れ、僕たちの足を追った。
相手も複数だったのは不運。
しかし、僕の背、遠くにかいまみえたのはただ立ちすくんでいた方。
逃げ切れる。
そう思った僕は、とにかく巻くことに専念しようと小路に飛び込んだ。
優秀な方とはいえ、分隊長が何とかできないことはない。
確信に似た興奮に、思わず足取りを軽くした。

  *  *  *  *

突然の喧騒に、彼女は飛ばしていた意識を引き戻された。
止まるメロディ。
ふわり、風を孕んだ布地の先に、淡いパールグリーンの世界が広がる。
何度か押し問答をする人影。
目を見開く。
いくら暗澹たる暗闇の中でも、彼女には分かった。
その鮮やかな世界が。
一部分が切り裂かれ、あらぬ方向へ走りだす。
上がる罵声。
何と品のない。
がむしゃらに追い掛ける背に、踵を返した。
かつり、かつり。
叩く舞台の上。
驚いた劇場主が飛び出てきて問い掛けた。
段を降り、彼女は歩く。
別に、この地位など失っても惜しくない。
優雅であるが故、今はただ邪魔なだけとなった布地を手から逃れさせ、かつり。
さて。
かつて美しいと言われたウェーブがかった髪を、軽く纏めた。

  *  *  *  *

随分走っていたものか、唐突な疲労を感じ、僕はようやく足を止めた。
ふくらはぎがじくじく痛む。
それ以上に足の裏が酷い。
這い登ってくるものは、もはや地に足を触れさせたくない程の苦痛だ。
しゃがみ込みそうになるのを堪え、背後を振り返ると、何者かがついてくる気配はない。
振り切ったかとため息を着いて、遠く、空を見上げた。
明るい街。
普段、灯の絶えた戦場で、星の瞬きだけを頼りに生きている人間としては、彼等の見えない空というのは少し物悲しい。
見つかれば命のない世というのは、原始に近い。
しかしそんな非常識に焦がれる程、妙に馴染んでしまった非現実。
戻ろう。
僕は再び走りだした。
混沌。
それが僕の生きる世界なのだから。

  *  *  *  *

ひたり。
ひたり。
水が滴る。
空を仰いでいた少年が再び前を見据え、走りだす。
ひたり、
ひたり。
滴るものをそのままに、彼女は小さくため息をついた。
ひたり。
狭い路地裏は、人一人が通れるだけで、小柄な彼だからこそなしえた逃走劇。
乱立した雑多な建物を利用した彼に、彼女は己の好機を得た。
ひたり、ひたり。
細いながらにしなやかな足を建物の壁と壁に突っ張り、ぬめる腕を基点に身体を支える。
普段人の考えぬ頭上高く。
普段着にしている鮮やかな紋様施された分厚いスカートが、僅か風にはためくのを感じる。
くわえたものの感触が鈍い。
生臭い感覚。
そう、液体はこの口元から滴り落ちているのだ。
ほたり。
滴った雫を追い、彼女は再び地上へ舞い戻った。
大地に散った朱色を踏みにじり、纏わり付いた布地を払う。
遅れて落ちてきたナイフを華麗に受け取って、彼女はゆっくり視線を上げた。
鞣した革のごとき褐色の髪と肌。
色を変えた夜の街。
彼女の姿はしっくりと馴染んだ。

「時が来たのですか……」

感慨深げに呟いて、彼女は目を閉じる。
思い出すのは、長い、永い時。

「……漸く、貴方に御恩返しが出来るのですね」

風が心地よい。
足元、転がった死体はぴくりともせず、彼女の邪魔をする者はいなかった。
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