クインテットビショップの還幸

第2章 神になれなくなった獣


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かつり、
かつり。

美しい装飾の施されたノブ。
手をかけようとして、止まった。
引きずったようにべったりと、鮮やかな紅が染みている。
彼は、僅か顔をしかめ、ため息一つ、閉じられた扉を開く。
僅か軋んだ音を立てたそれは、もったいつけるように室内の闇を吐き出した。

暗い。
寝ているのか、そう思った途端、鼻をつく異臭が漂ってくる。
吐き気をもよおすようなそれは、残念ながらよく知るもので。
曝された室内。
手にした明かりを掲げ、照らし出すと、息を呑んだ。
室内。
敷かれた青に散った、鮮やかな紅。
次第に変色しはじめているそれに顔をしかめた。
転がっていたのは、おおぶりの兎や鴨。
鹿は運ぶのに諦めたのか、立派な角だけが血を纏って転がっていた。
滲んでゆく紅。
滴り落ちる、紅。

いつの間に抜け出したやら……。
ため息をつき、彼は最奥、天蓋の吊られた寝台に歩みよる。
恐らく、これも代価行為。
狂いを欲する己を宥める為、あいつは更なる苦しみに身を落としている。
瞬く一瞬に身を滅ぼす世界で生きてきた俺たちに、平和な世は生きづらい。
ベルンバルトの重臣たちは、この神を飼い馴らすことに窮しているが、こいつ自身、己の中の獣に手を焼いている。

ある意味、狂気。
錯乱の、舞踏会。

踊り狂いながら妥協点を捜す、小さな戦場。

山のできた寝台からは、しなやかな片足が垂れている。
土を纏ったそれの下、かいま見えるシーツの所々は赤く染まり、嗚呼もしかしたらどこか怪我をしているやも知れん。
後で確かめねば。
明かりをベッドサイドに置き、淡く照らし出されたそれに目を落とした。
規則的な呼吸に上下する純白に手を伸ばしかけ、一瞬躊躇う。
血の臭いが増した。
生理的な嫌悪感。
純度の高い赤が視界の端を横切った気がして。
咄嗟に固めた身を、物凄い力で引きずられた。
彼でなければ反応出来なかった間合い。
しかし、それでも不意を打たれた身体は完全に守ることしか出来ず、柔らかな寝台へと力任せに引き倒されていた。
眩む視界。
首に走る激痛に手を這わせ、呼吸を拒絶する肺で息をつく。
滲む先、狂気に色を成して。
顔を歪めるのは、鮮やかな、紅――。

きひひ。

赤い瞳を持つ獣が笑う。
戦場で見せる赤玉は、いつも先ばかりを見つめていて、真正面からかちあわせる機会等ありはしなかった筈だ。
息が詰まる。
喉に這わせられた手に力を込められたからだと気付き、慌てて妨害に掻き握る。
僅か緩んだ手。
しかし、呼吸の細さはなおらない。
紅、
赤、が――。

こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。
まるで、蛇に睨まれた蛙。
神と奉られる、悪魔の姿か――。

一生向けられることはないと思っていた瞳にたじろいでいると、半月に口角を上げた、朱い、朱い唇が、ゆるぅり開かれる。
覗くのは、血色の舌。

「あ、はは。くははは……!」

漏れ聞こえ、音を成したのは笑い。
狂ったような哄笑は、ずるり、ずるり悪寒を引きずり出す。
怖い。
この、目の前の男は誰だ?
ベルトでは、俺の知る淋しがり屋の幼なじみではないのか?
混乱する頭。
正確な答えを捜す間にも、狂ったような笑いは渦を巻き、辺りを支配する。
掛かる体重。
絞まる喉。
少しでも力を抜けば、殺される。

散々笑ったのだろう、神は肩で息をつきながら、麗しい目を伏せる。
返り血か、頬にも

「なぁ、ライマー」

首を絞め、馬乗りになった悪魔が告げる。
赤目。
赤目の。

「俺は、今、何者だ」

ふと、浮いた笑いが掻き消えた。
ぞくりとするまでの冷淡な無表情。
見慣れたそれは、しかし見慣れぬ色の硝子細工を嵌め込んで、きらり、きらり。
嗚呼――胸が痛い。

「おまえだから言う。俺は一体、何者、なんだ」

答えを吐こうにも、首に一層力が込められ、果たせない。
いや、どちらにしろ、この幼なじみが何を問いたいのか解らなかったのだが。

「俺はな、解らなくなったんだ。
俺は今まで、アーデルベルト・ブライトクロイツという線に沿って生きてきた。
お父様が引いた線だ。
そこでは、とにかく男らしいことを要求された。
だから叶えてやったんだ。
努力してやった!
解るだろう?
毎日毎日、その暗示をかけ続ければ、理想は現実になる。
嗚呼そうさ、今お父様に会ったなら、心底喜ぶだろうよ」

圧倒的武力、

圧巻の先導力。

何事にも左右されぬ確立された自我と、比類なき残虐性。

優雅さより闘争本能を肥大させることにのみ重きを置いた、絶対的優位性。

誰も血は望まない。
争いのない世は、真実。
そして、ベルンバルトは、望むべき終焉の為、反対に赤き代価を払ったのだ。
たった一人の、少女をいけにえに。

だから、ほら――。

《今や、我が国へは何人も手だし出来ない》

そして、その為には神のごとき悪魔が必要だったのだ。

必要なのは、そう――。

圧倒的武力、

圧巻の先導力。

何事にも左右されぬ確立された自我と、比類なき残虐性。

優雅さより闘争本能を肥大させることにのみ重きを置いた、絶対的優位性。

「おまえたちが望んだんだ。
終りない宴を。
俺は、それを叶えた。
だが、どうだ?
約束された安寧は未だ訪れん!
父は問い続けた。
女は劣等だと。
だから俺は、《アーデルベルト》になりたがった。
《跡継ぎとして相応しいアーデルベルトという人格を》!
殺し、食らい、侵し、そう望んだ、望まれたから!
父はもはやどうでもいい。
国民皆がそう、望んだのだ!
殺し、食らい、侵せと。
奪い、染まり、それでも笑っていろ、と!
頑張ったんだ!
その先の終りが約束されていたから。
最期には、赦してくれると約束したから」

アルベルト陛下の、時限爆弾。
王位を譲った後にくる、安寧の終りは強固で、彼自身を搦め捕った。
いつしかすりかわった目的は、甘い優しさとなって彼を苛む。
だが、それは砕かれた筈だ。
仕える可き幼き主、本人の力で。

「だが、残ったのはなんだ?
なあ、ライマー。
俺は女か?
皆が憧れるというドレスに拭い切れない嫌悪を覚え、舌を喜ばす甘味に吐き気をもよおす。
髪を付ければむしり取りたくなり、ルージュは噛み切った唇を滴る血だ。
肉体を押さえ付け、縛り上げる衣装を纏い、殊勝な笑みを強要される。
俺は、一体なんだ?
かあさまが呼んだように、《アーデルハイド》なのか?
それとも、《ウ゛ァン・メッサー》?
残虐の王、《アーデルベルト・ブライトクロイツ》なのか――?」

嗚呼、これは――、

《アイデンティティの問題》なのか。

しかし、彼には解らない。
彼の生は、いつだってこの王のものなのだ。
ベルンバルト王家第一子、アーデルベルト・ブライトクロイツ。
最高の腹心にして、碧牙狼章の騎士。
それは決して変わらないのだ。
例え、主がその座を追われても。
だが、こいつは違う。
かけられた呪縛の痛みは圧倒的で、それを寄りどころにしてしまったこいつにとって、すなわち存在の否定だ。
だからもがく。
もがき続け、苦しむ。
独白は止まらない。
もはや、答えが欲しいわけではないのだ。
なぁ、ベルト。

「あいつらは一体、何を望むんだ。
内政干渉の防止?
それを心配されない為に、俺は自らを幽閉した。
死ぬことを選んだんだ。
なのになんだ?
今更、女のふりをしろ?悍ましすぎて、へどが出る。
自分が一番解ってんだよ。
これは、ただのごっこ遊び。
似合いもしねぇし、あっちとしては、ただ足枷をはめたいだけなんだ。
でもな、なんだこの違和感は。
苛々してたまらない。
会う奴会う奴、目を潰してやりたくなる。
嗚呼、そうだ殺せ。
死んでしまえばいいのに!
あはは、あはははっ!
そぅしたら、楽だろぉなぁ……何十、何百殺せばいい?
大丈夫、いつもやってたことと一緒だよ。
何人かだけ残してやる、って言って、お互いで殺し合わせればいい。
片手の数くらいまで落ちたら、俺直々に始末すれば終わるさ。
虚無の世界は楽だぞぉ。
誰も俺に期待しない。
瞳は俺を映すことはない!
嗚呼、でも実に面倒だ。
準備に時間もかかるだろう。
あはっ、思い出した。
何万を殺すより、俺一人が死んでしまったが、実に簡単で、手間もかからないじゃないか!」

再び響きはじめた狂った笑いに、彼は小さく手の力を抜いた。
可哀相な子。
もとより、こいつに捧げた命だ。
主に殺されるなら本望――。
ただ、恐らくこいつなら、体温が失せた身体に気がついて後、その深き心で叫ぶのだろう。
冷静を取り戻した瞳には、その衝撃は大きすぎるやもしれない。

それは嫌だな。

せめて、あいつがいてくれたなら。
双翼を担う、赤き、騎士。

「……嗚呼、俺達の未来は、いつも先が見えないな」

ベルト?

ほたり、
ほたり。
気付いていた、微かな感触。
うっすらと目を開くも、あの凶暴な赤を映すことはなかった。
わずか俯いた口元が、いびつに震えていた。
辛うじて笑みを留めようとして失敗した子供のよう。
その頬を筋が伝うのを、ただぼんやり眺めるしかなかった。
あの、飴玉のような赤い瞳が溶け出してきたのかと、ただぼんやりと。
むせび泣きは、次第に堪えを利かなくなってゆく。
肩を落とし、傾いでゆく身体。
喉元を戒めていた一本が、揺らぐ身を支えんが為、離される。
布地の上、つきなおされたそれを支えに、辛うじて保たれた身体は、落胆し、異様に小さく見えた。
手を伸ばそうとして、やめる。
涙の伝う唇が、何か形作ったからだ。
無視するには近すぎる。
ささやかな言葉は、痛々しいまでに全てを物語っていた。

「このまま飼い殺されるくらいなら、死んだ方がましだ……っ!」

ぎゅっと胸の奥が熱くなった。
それは最悪の道。
そして、最善であった筈の道。
ベルトが選ぼうとしていたのは、そんな道だった。
こいつは、己の存在をよくわかっていたのだ。
パワーバランスの崩れによる内政不信、各国の動向も、己の処遇さえもを。
だから、殺そうとした。
死んで全てを終りにしようとしたのだ。
それを壊したのは俺たち。
俺たちのエゴが、未だこいつに重責をかし、自尊心を踏みにじり続けているのなら、もしくは――。

「……行け」

呟いた言葉。
睫毛彩られた瞳が上げられる。
淡く水を履いたそれは、美しい大海の色。

「おまえが居るべき場所へ。
……俺は、止めはせん」

止める資格もないのだから。
彼は、しばし瞳を瞬かせていたが、ふわり、再び泣きそうに顔を歪め、弾かれたように立ち上がった。
走り去る背が扉の向こうに消えるまで、決して一度も振り返らずに――。