クインテットビショップの還幸

第2章 神になれなくなった獣


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§某日、スウ゛ェロニア帝国帝都§

「どういうことですかっ!」

耳障りな金切り声が、豪奢な接見の間に響き渡った。
大理石の床、鏡の如く映し出された姿を睥睨し、彼は小さく嘆息した。
己の母は、高いヒールを打ち鳴らしながら、いらだたしげに歩き回る。
かつん、かつん。
ヒステリック。
もはや慣れたそれも、今日は一段と姦しい。
脇に並んだ配下たちなど、視線を背け、誰もが矢面に立つまいとする。
あからさまに耳を塞いで眉を潜めていると、再び怒鳴りを通り越した悲鳴が聞こえてきた。
あれだけ他人を見下しておいて、惨めさを倍増させるとは、思わないのだろうか?
……嗚呼、自分が惨めな存在だと解っていないのか。

「あの化け物を妃に迎える? 馬鹿な。冗談も休み休み言いなさい!」

「冗談ではありませんよ、お母様。言ったではありませんか。我が海軍力では、海の向こうの抑止力になりえない、と」

「それがどうして、そういう結論になるのです!」

「ベルンバルトの軍事力と合同すれば、我々の兵力は2倍だ」

淀みなく告げると、流石に驚いたのか、一瞬きょとんと目をしばたかせた。
しわ、増えたなぁ。
上手く化粧で隠せてはいても、さ。

「……っ、それはそうですが、貴方、それがどういうことか解っているのですか?あれは、子を産めない。借り腹としても役に立たない出来損ないです。下品で、野蛮で、生産性すらも持ちえないとは、もはや悪魔。……そう、悪魔なのですよ。同じ種族であるということすら悍ましい!」

相当に波長が合わぬのだろう。
暴言を超えた言葉は聞くに堪えない。
まぁ、仕方ない。
元から彼女は、ベルンバルトが嫌いだったのだ。
前アルベルト公が王の時分は、利用価値を認め、なかなか良好な共同体を築いていたが……。

「嗚呼、違う、か……」

呟いて、何事かと喚く母に視線を送った。
母は、嫌いだったのだ。
いや、自分以外は嫌いだった。
南の海の国も、対立する島国も、自分以外の国は、すべてすべてすべて!

「……お母様、子供を産むのがすべてでは、ありませんよ」

「いいえ、カミーユ貴方も王族に連なる者ならよくお聞きなさい。
王とは、国の最高血統です。
下賎な民どもとは一線を画した、神に最も近しい人種。
我々の勤めは、愚かなる者どもを聖なる道に導き、束ねること。
解りますか?
我々の所業は神の意志なのです。
我々の言葉なくしては、教養なき民たちは道に迷ってしまいますわ。
我々の力を温存する為にも、我々にとって跡継ぎの存在は急務なのです。
それが、引いては広大な国土――民たちの安寧の為なのですよ」

なんという横暴な!
ならば、そんな民たちに依存せねばやっていけん王族という地位は一体何だ!
思わず込み上げてきた笑いを噛み殺し、努めて神妙に頷いてみせた。
結局のところ、子供というものはサービス業だと思う。
理解しているふりをして、相手を満足させるだけの憐れな玩具。
しかし、今の俺はそんなこと叶えてやらない。
母にとって、一番刺となる言葉を、あえて告げてやる。

「しかし母様。子供は――女であればつくれるものですよ?」

ぱきり。
完全を模造していた表情が音を立てる。
それは、呪詛の言葉。
母の罪を、嫉みを、えげつない暗くどろりとしたものを嫌でも直視させられるもの。
母は醜いのだ。
それを知らぬふりをし、自分は高貴だと宣っている。
だから、嗚呼――。

「お父様だって、僕の産まれるまでは囲っていた筈ですよ……?」

あ、
はは。
母さんは惨めだ。
数多の妃候補者の中から、策を巡らし、蹴落として傍らを得た才女。
長らくの不妊の為、その座を奪われかけた女――。

「あっ……あの女の話はおやめなさいと言っているでしょう!
汚い、下賎な端女に……もう死んだのです。
あの売女の話などおやめなさい!」

「母様こそ、死んだ者を冒涜するのはどうかと思いますよ。
あの人は、貴女よりずっと若く、十も早く子供を産んだ。
貴女の弁を借りると、父は賢明だった訳だ。
産まれた子が女だったのは誤算と言えたかも知れないが、僕が産まれる迄はその子供が後継者として扱われていた筈です。
それを母様は――」

「五月蝿い、おだまりなさいカミーユ!
あれは、勝手に死んだのです!
わたくしは何もしてはいない。
嬉しかったですよ。
馬鹿な女!
自分の娘すら一緒に、死体もなく焼け死んでくれるとは、惨めな下女には最上過ぎる死に様じゃありませんか!」

美しい顔が、醜く歪む。
隠された本性が暴き出される。

何故?
ふ、
ふふ。
生きるべくして生き残ったからさ。
害虫は、駆除されるものだろう?

俺は、酷く冷静だった。
後継者争い、血の優劣、意図的な悪意、絡み合う死と生き残りを巡る螺旋。
それは、昔から俺達に付き纏ったものだったからだ。
かつて慈しみあった兄弟が首を掛け合うのは珍しくもない。
その上で残ったものにのみ、一等の栄光は与えられる。
……まぁ、直ぐさま別の潰しあいが始まりはするのだが。

母が行ったのは、たしかに殺人ではない。
しかし、その所業を知る者は皆、口々に言ったのだ。

お妃様は悪魔に心を売り渡したのだ、と。

「しかし、母様の弁を借りますと、その子も高貴な血の入った神に近い者であった筈だ」

「片側が下賎だったのだから、麗しい筈がありません。
ねぇ、解りますか、血は温存されてのみ価値をもつのです。
汚れを混入させてはならない。
だから、あれは浄化です。
正当な義務を全うしただけのこと」

「だから、母様――《ベルトは子供を成せない》のですよ」

にんまり、笑いをこらえきれなくなった。

「あいつは子を作る能力がない。
例え、王室に上げたとしても、母様が憂慮する、《野蛮民族ベルンバルトの血は混じることはない》
跡継ぎについては、別の女を召し抱え、産ませればいいでしょう。
子が成せない以上、継承に揺れることもない――。
その上で、我々二国は同盟より強い結び付きを得るのだ。
軍国ベルンバルトが近隣を恐れさせる剣と呼ばれる以上、その剣から延びる柄――それを握ってしまえば、我々は最強の国となることができる」

《ベルンバルトを手にした者が、時代の覇者だ》

揺れ始めた母の耳朶に、再びの甘言を吹き込む。
賽は投げられたのだ。
生き残りの為、我々はなんとしてでも、ベルトを、ベルンバルト王国を手に入れねばならない。

美しい狼の国。

森が恐ろしいのは、狼が喰らうから。
ざわり、
ざわり、
ざわめいて、迷う心を肉の入れ物から切り離してしまうから。

嗚呼、そうだ。
何故今まで気付かなかったのだ。

《狼》を恐れるのは仕方ない。

しかし、《犬》にしてしまえばどうということもないではないか。

飼い馴らし、手なずけたそれは、最強の力と化す。
そう、それは、人と獣の辿った道。

人の国が、狼の国を従わせる、か。
なんと滑稽な!

「なんてこと、ありません。皆やってきたことじゃありませんか」

政略結婚。
それに伴う軍事同盟。
妾の存在だってそう――。

《全ては、皆、やってきたこと》

《国の安寧が為、幾度も幾度も繰り返されてきたシステム》

我々が払うのは、王座隣しつらえた正妻の座と、愛のない結婚という事実だけ。
戦場育ちの野蛮なあいつなら、王さながら土足で踏み込むであろうことは予想がつくが、それにしても見返りに対しては少な過ぎる!

母は、まだ複雑そうに顔を歪めていた。
傍らに寄り、囁きかける。
追い打ちの、

「我々は、最小の犠牲をもって、最大の栄華を手にすることができる――」

奴がそうやすやすと屈するとは思えない。
しかし、今、それを告げるのは野暮だろう。
それに――打つ手なら十分過ぎるくらい、手にしている。

さあ、ベルト。
いびつな宴をはじめようじゃないか。
真綿で首を絞めるようにじりじりと、おまえを追い詰めてやろう。
墜ちた神を手にするのは《俺》だ――。