クインテットビショップの還幸

第2章 神になれなくなった獣


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  *  *  *

「ある意味で、あいつに負わされた業火なのだ」

かつん、
かつん。

辿る先で騎士が呟いた。
足先、包む色は、血色のベルベット。
「生まれながらに刻まれた原罪を償う為、あいつは、新たな罪を重ねすぎた。消えない傷は、癒えた先から姿を隠して、奴の精神を喰らう」

かつん。
振り返った瞳に、わずか口元を緩めた。

「私の見解を教えましょうか」

美しい天蓋。
柔らかな寝床、あどけなく眠る子供。
いたいけな子供時代、得られなかったそれ。
傍らに腰を下ろして、女史はわずか笑ってみせた。

「人体というものは、不思議なものでね。死を予期した時、その恐怖を振り払うよう機能するのよ」

さらり、指が辿るのは、ベッドに散った金糸。

「体内には、得体の知れない何かが張り巡らされていてね。
その力を強めることによって、治癒を高めたり、健康を維持したりできる――それが、私たちが使う根本。
東洋医学。
こいつに施したのも、それ。
あんたたちは魔術か何かのように感じたかもしれないけど、本来ある女として成長させる力を薬力によって封じ込めただけ」

横たわる。
その存在は、罪。
贖罪の為、罪を重ねた異種の姿。

「命が危ぶまれる状況に置かれれば、皆逃げるのが常よ。
でも、兵士たちはそうしない。
死ぬかもしれないと解っている戦場で、進んで剣を取るでしょう?
貴方たちは、勇敢だとか、教育の成果だとか言うでしょうけど」

「神に、忠誠を誓うのが我々の責務だ。そして、神は必ずや、我々に勝利を授ける」

「ならば、その神は? 重責と共に、何人にも縋り付けない孤独を抱え、どこにゆけばいいの?」

呟いて、思慮深い、孤独を知る彼女は、少しばかり痛そうな顔をした。

「私たちの、医学というのは、そういうもの。
本当の神は、たやすい。
病みもせず、絶対的に慈悲深い博愛主義者。
皆がそう、作ったから。
そうなるよう、作られたから。
でもね。
現実の神様は違う。
傷も負えば、病にも落ちる。
時には精神を病むことさえ、ある――。
国王、天孫、宗教者、人ながら人を救う彼らの威光を消さない為に、私たちはいるの。
体内の流れを読み、種々の力を使って、乱れた流れを正す為に。
人は、何故戦場で殺される恐怖にすら打ち勝てるのか――精神論をごねるのは、貴方たちに任せるわ。
私たちの領分は、あくまで医学。
気脈の流れ。
そちらから見ると、戦場の兵士たち、特に優等とされる兵士には、ある種独特の興奮状態が形勢される。
命の危機を感じながら、貴方たちの言う教育や逃げられないという現実にぶち当たった彼らは、その恐怖自体を体内の気脈を乱すことで物理的に忘れようとするの。
逃げ出したいという理性を封じ、あたかも己の本能のあるところに従うように。
恐怖を失った兵は強いわ。
簡単に敵の懐に飛び込んでいく。
――貴方たちが、勇敢と呼ぶものよ」

「……それが、ベルトにあるということか?」

「見てて解るでしょう、腹心。
勇敢を超えて、神とすら呼ばれるこいつの姿は、あんたがよく知ってる筈。
この子は、一体何と呼ばれてる?
戦場の軍神は、何色に笑みを零すの?」

《亜種宝石/アレキサンドライト》

深い青が赤へと変わる瞬間。
彼は、人から神へと昇り詰める。

「乱れた気脈は、異常な興奮を呼ぶ。
だから、人殺しなんて、異常な行為ですら進んで行えるようになる。
そうよね?
宗教なんて、五万と存在しているけれど、《人を殺す可からず》って一文を入れないもの、殆どありはしないもの。
少なくとも、私は知らない。
どんな敬謙な宗教国でも、危険が迫れば、剣を取るわ。
けれど、敬愛する創造神は、その行為を否定する。
煩悶の上に、それを正当化する為、あえて気脈を乱すの。
それは、理性を捨てることだから。
よく聞くじゃない?
《あの時自分は、どうかしてたんだ》
それは、気脈が乱れたから。
一時的にでも理性を手放さねば、やり過ごせなかったから。
そして、理性を取り戻した時後悔する。
自らの行為に絶望する」

騎士は、ほんの少し笑う。

「理性……か。ならば、我々は何だ? 進んで戦場へ出、人を殺してきた。そこに、何の絶望もない」

鬼畜か、悪魔のよりしろか。
問う声は低い。

「後悔はあるでしょう?
悪かったのは、そうなるよう組まれた状況の方よ。
こいつの場合……その期間が長すぎた。
戦場への常駐は、精神への負担がかかるものよ。
当然の仕組みとして、身体は生存を求め、逃げに転じる。
気脈を乱すの。
精神の興奮は、獰猛な行動となり、神にまでのし上がった。
でもね、長すぎたのよ。
異常な興奮は、醒めるがこその異常。
気脈の乱れというものは、常習性があるの。
たいがいの人間が、その現実を離れ、振り返り煩悶して人としての尊厳を取り戻す。
けれど、こいつは違う。
絶え間無い危機に身を置き続けなければならない状況は、乱れを常態化させた。
……寝ないでしょ、こいつ。
普段から、休息も取らない。
取る必要がないとはほざいてるけど、それは違うの。
精神の興奮は、疲れすら《ないものとみなす》。
それでも上手くいったのは、周りがそれを許容したから。
何でもできる横暴な軍神。
それが、存在価値になっていたから。
あんたも……そして、私もね」

「……全ての責務を負うことを決めたのは、ベルトだ」

「そうね。
でも、止めなかったのなら同罪じゃないかしら。
こいつの興奮状態は、戦場だけで終わらせなきゃならなかったのよ、きっと。
その立ち居振る舞いが、横暴な暴君として確立してしまう前に。
そして、異常の果て、唐突に全てを奪われたあいつは、突然空白になったの。
王としての重圧も、職務も、戦場すら奪われたこいつに、その状態を維持し続けることは困難だった。
取り戻した理性で普段通りに振る舞えてはいても、突如揺り返しがくるのよ。
理性を失うことは甘美。
異常の渇望は、引いては禁忌行為への渇きとなる。
悪魔のように、血を――求めるようになる」

「……はっ、ベルトが異常殺人者だと言うのか」

「こいつはあの時、隠しナイフを持っていたわ。もし私が怯え、隙を見せていれば……まぁ、推して知るべしだったでしょうね」

漆黒の睫毛が伏せられた。
瞳の覗かぬものは、感情すら押し隠す。
その様は、あたかも自らの過去をも悔いているようで。

「殺すことが目的ではないの。
一般の、快楽殺人とも違う。
ただ、理性を失うことに慣れた脳が、水を欲するように乱れを欲する。
一番手っ取り早いのが、あいつにとっては戦場だった。
その行為自体に特に執着はない筈よ。
だって、薬さえ与えてやれば、大人しいもの。
人工的に興奮を促すものと、精神を鎮めるもの。
あいつが苦しむ以上、出来る限り出してはやりたいんだけど……」

「副作用、か……」

「結局、人間の身体には勝てない、ってことね」

「……ベルトは恐らく、自分でも解ってるだろう。でなきゃ……あんな態度とらない」

苦々しげに唇を噛んだ騎士が吐き捨てた。

「痛々しいんだよ。
動の反対は、静だ。
ベルトは、あえて無邪気に振る舞ってはいるが、あれが本来の奴ではない。
軍神として、王としての奴しか知らない者は、驚き戸惑った末に素だと思い込むだろうが、本来の奴は、寡黙で思慮深い。
下手に、自分を偽るのが旨くなっちまった。
だから、気付かれやしないんだ。
なぁ、不自然だとは思わなかったか?
あいつの――所作、というか」

「そうねぇ、子供じみては見えたわねぇ。でも、状況故の子供返りだと思えば、納得も――」

「ベルトは、甘いものを食べない」

漆黒の瞳が、くるりと丸められた。

「えっ……だって、この間だって、散々喜んだじゃない。
戦場じゃ、なかなか手に入らないから、嬉しいって言って……」

「言ったろ?
奴は騙すのが旨いんだ。
昔なんか、食った側から吐いてた。
砂糖が受け付けないのかも知れんが、アルベルト陛下に散々怒鳴られてからは、公式の場ではなんとか無理をしてでも取り繕うようになった。
……フルコースには、デザートが付くのが相場だからな。
ばれないように、こっそり捨ててやったことも、一度や二度じゃない」

「でも、でも!
乳母さまだって、厨房に立ってるのを見たわ。
あいつに食わせるんだ、って言って、あの茶色いやつ……何だっけえーっと……」

「ザッハトルテ。
チョコレートを使ったケーキだ。
ふふ、反対に考えてみろ。
嫌いなものを食わされる気分はどうだ?」

「さ……最悪よね。
だって、嫌いなんだもの。
後味が口の中残るし、お腹に詰めたってだけで気が重くなるわ。
よっぽど、食べなきゃしんじゃう、ってンなら食べるかもしれないけど……」

女史は、そこで漸くあっと声を上げた。
吐く程に嫌いなもの。
普通なら避けたくなるそれを摂取せねばならぬ程に逼迫する状況。

「あいつは、それを薬の代わりにしようとしているの……?」

甘味ならば、副作用はない。
ムカムカとする感覚も、自分を引き止める術というなら納得もできよう。
手放したくなる理性を、無理矢理にでも繋ぎ止めるには、酷く原始的だが、しかし。

「アンネローゼ公も、理解している。
だから、ベルトの嘘にも喜んで付き合うだろう。
……クラウス様に違和感を持たれたのはイレギュラーだったでしょうが」

「で……でも、そんなの一時凌ぎよ! 根本的な乱れへの依存を断ち切れない以上、窮した肉体は異常を欲するわ!」

「だからこそ、あいつは苦悩するんだろう? 薬で押さえ付けて、暇を持て余して」

せめて、自我を忘れる程忙しくあればな。
呟きは、音になることなく溶けて消えた。