クインテットビショップの還幸

第2章 神になれなくなった獣


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例えば、政略結婚だとか。
例えば権力の固持だとか。
豪華絢爛、きらびやかに見える王侯貴族の世界も、存外面倒臭いものなのやもしれない。

「まぁ、庶民の上に劣等民の女で、根無し草の私には関係ないんだけど」

ふふん、鼻で笑って、彼女はステップを踏んだ。
残酷な程無情の世界。
抜け出して久しいが、あの時妬ましくて堪らなかったそれは、実は不自由なものだったのかもしれないな。
だってほら、自分たちの庭である筈の城の中でも把握できてはいないのか、この抜け道だって人っ子一人、通りゃしない。
多分、知ってるのは、あいつだけ。
嫌味な父親に呼び出される不条理から、怒鳴られる要素を減らさんと、城隅々まで把握してるし。

「かく言う私も、当のあいつに教えて貰ったんだけどさー。嗚呼、でも暗いのが難点なのよね、この道……」

昔、私がまだ世界の痛みを知らなくて、父も、それから母も居た時は、よく言われたものだった。

《暗い道には、魔が通る。絶対に、捕まってはいけないよ――》

今や顔も思い出せない人達との未来を思い浮かべたってせんないし、特に今へ不満があるとも思えない。
それでも、時々思い出す。

暗闇には、魔が――、

視界を何か、横切った気がして、振り返った。
荒い息遣いが間近に聞こえて、鳥肌が立った。
背筋を舐める悪寒と共に降り注いだ敵意が、肌を焼いた。
思わず笑いが出る。
恐怖を感じると、人はおかしくなるらしい。

《捕まった――》

じっとりと垂れ込める闇に目をこらすと、ぬらり濡れた双眸が浮かび上がる。
赤――いや、紫か……。

「アレキサンドライト……」

alexandrite。
金とベリルを意味する、金緑石の変種――。

紅蓮の赤を含む時は紅色に光り、深海の青を含む時は青玉に染まる、類のない玉石、か。

「まるで、猛獣ねぇ……」

正体の知れた化け物に、先程とは違った笑みを漏らした。
手を伸ばし、抱きしめると、びくつく身体。
逃げかける影を引き止めながら、出来る限り優しい声で耳朶に吹き込んだ。
母が、子を諭すような。
「はいはい、辛かったねぇ。大丈夫よ、薬を出してあげる。そしたら、きっと落ち着くからね。どこが痛い? 脚、頭、お腹……嗚呼、今は怪我をしてる訳じゃないのか。怖かったら、抱きしめてあげる。あんたが眠るまで、ずっと。お話は何がいい? 村を蹂躙してた化け物を退治にしにいく話? それとも、冥界の奥さんに会いに行く話がいいかな」

あやすように背を叩いていると、ふつりと何か糸が切れたように身体が重くなる。
女の力では、のしかかってきた重みを支えることなどできる筈もなく、引きずられるようにずるずるとへたり込んだ。
腰に回された手。
息は荒いままだが、身体の力は完全に抜けていた。

「全く、手間のかかる奴」

閉じられた瞳。
少しだけ開けて覗き込むと、美しい空色が覗いた。
意識を手放しているのか、瞳孔が開いている。
気疲れに、肩を竦めた。

「さて、どうやって人を呼ぼうか……」

人通りがないということが、げにも面倒なことだとは。